第221話 黒色火薬(中編)
1064年5月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
帝都大学教授のヨハネスとバシリオスは、離宮のはずれにある実験小屋で黒色火薬を開発していた。その小屋が轟音と共に爆発したのだ。それも、屋根が吹っ飛んでしまうくらいに。
離宮のバルコニーにいたお母様と僕は、ちょうどその情景を目撃することとなった。
轟音だけでも驚いたのに、屋根が飛んじゃうんだもん。驚きでひざがガクガク震えちゃったのも仕方ない事だったと思いたい。
町の騒ぎが一段落した後、イシドロスが爆発の報告を届けにきた。
「ヨハネスとバシリオスの実験小屋が爆発した件を報告いたします」
「イシドロス、待ちなさい。ヨハネスとバシリオスが報告するべきじゃないのかしら」
爆発の当事者である2人の教授がどうしてこの場にいないのか、アデライデお母様がイシドロスに聞く。
普通に考えたら、ヨハネスとバシリオスが報告に来るはずだよね。
「ヨハネスは扉の向こうで待機しています。バシリオスは気を失っておりここに連れてこられませんでした」
「では、ヨハネスに報告させなさい」
お母様はイシドロスに命令するが、命令されたイシドロスも、そして扉を守る護衛達もすぐには動き出さない。
「アデライデ様、ヨハネスは離宮内を騒がせた犯罪人ですが、報告させても問題ありませんか?」
「構いません、早くしなさい」
お母様の許可が降りるとすぐに、扉が開かれヨハネスが入ってきた。
ヨハネスの服はあちこちに焼け焦げがあり、顔も煤で汚れていた。
だが、キビキビと動く姿をみると、本人に
「敬愛なるジャン=ステラ様、アデライデ様。神の
礼儀正しく長々と挨拶するヨハネスは、普通の時ならば何一つ間違っていない。だけど、この緊急事態にノンビリと挨拶している場合なの?
僕のイライラが
「挨拶はいいわ。ここが戦場だと思って端的に報告しなさい」
「はっ。実験小屋で爆発がおきました。小屋は屋根が失われ、火事が発生。幸い小屋周りに燃えるものがなかったため、延焼はありません」
「被害者は?」
「死者二名、負傷者五名です」
あぁ、やはり。死者がでちゃったかぁ。ヨハネスの報告は続いているが、思わず目を強く
小屋にいた二人が死亡。爆風で飛んできた扉や木材がぶつかり、五名が負傷した。
「ねえ、バシリオスは? バシリオスは無事だったの?」
気を失ったと言っていたけれど、大丈夫なのか心配になる。
「
死んでいなかったのは良かったけど、骨折しているなら重傷だよね。
「幸いで、それなの?」
「バシリオスが小屋に入ろうとした時に、爆発が起きました。小屋の中に入った後でしたら、助かっていなかったことでしょう」
不幸中の
僕の質問が止まった所で、お母様がヨハネスへの質問を再開した。
「けが人の一人はバシリオスね。では、残りの死者二名と負傷者四名は平民かしら?」
「はい、平民です。ギリシアから呼び寄せた技術者たちが
「そう。なら問題ないわね。小屋の片付けを終えたら、研究を再開なさい」
アデライデお母様が、もうこの件は終わりよ、とばかりに手を振り、ヨハネスへ退室を促した。
しかし僕の心は納得できてない。ヨハネスにではなく、アデライデお母様に、だ。
だって、死人が出たんだよ。お母様の言い口では、死人が平民だったから問題ないと言っているようにしか聞こえない。それにバシリオスだって大怪我をしているのに研究を再開するの?
「お母様、火薬の研究は取りやめませんか?」
「あら、どうして? 火薬の研究はジャン=ステラが言い出したことですよね」
僕の希望で始めたことになっている研究を止めてもいいのかと、お母様は驚いて僕に問いかけてきた。この時点では、まだ研究を続けても止めても、どちらでもいいと、お母様は考えているみたいだった。だって、優しい顔をしていたんだもの。
「だって、死人がでたんです。火薬の研究って危ないんですよ。このまま続けたら、また死人やけが人がでるに決まっています」
「死人が出たといっても平民ではありませんか。バシリオスだって死んでいませんし、平民の指揮を取るくらいはできるでしょう」
「平民でも人は人です。僕のお願いのせいで死人が出るのは嫌なんです」
ですから火薬の研究は中断したいのです、と言葉を続けようとした。
しかし、お母様が
「ジャン=ステラ、平民は平民でしかないのですよ。平民の死に心を動かされてどうするのです。そのような理由で研究を止める事には賛成できません」
しっかりしなさい、とお母様は僕を
首を横に振りつつ、お母様へと抗議の声をあげる。
「貴族も平民も同じ人間なんです。僕は貴族だろうと平民だろうと、人が死ぬのは嫌なんですっ!」
おもいがけず語尾が強くなってしまった。けれど、これが僕の本心。
火薬に対する僕の認識が甘かったことは確かだよ。けれども、人が死に、これからも人が死んじゃうかもしれない研究を続けてほしくない。
僕の叫びを聞いたお母様は、一瞬だけ驚きを顔に浮かべた後、柔らかな顔にもどっていった。
「ジャン=ステラは預言者ですものね。
王侯貴族も、そして平民や奴隷でさえも、あなたにとっては同じ存在なのでしょう」
聖書では、神の前で人はみな平等である、とその教えを説いている。
「はいっ、その通りなのです」
前世での教育を受けた僕は、どうしても人の命に優劣をつける考え方に馴染めない。そんな僕の気持ちをお母様がわかってくれた。
そう思い、喜んだのも束の間だった。
「しかし人は、人の前で平等ではありません。
あなたは預言者という役割を持って生まれてきました。そして、他人が持っていない多くの知識を持っています。
これは人が平等でない何よりの証拠ではないかしら」
「で、ですが、お母様……」
僕自身のことを引き合いに出されてしまい、僕は言葉に詰まってしまう。
イタリアに転生してからというもの僕は何度となく、前世の知識を使ってきた。使うことで相手より有利に生きてきたし、周りからも優遇されてきたとも思う。
自分は他人とは違う特別な存在だと感じていなかった、とは到底言えない。
僕が特別な存在だと認めることは、つまり、人は平等ではないと認めることでもある。自己の矛盾を突きつけられた僕は、続く言葉が口から出てこなかった。
お母様は僕に向かって大きく
「ジャン=ステラもようやくわかったようね。貴族と平民は役割が違うのです。平民の命と引き換えに貴族が生き方を曲げてはいけないのよ。それは預言者であるジャン=ステラが、貴族の生き死で使命を
「……」
生まれ持っての役割が違うと、お母様は言う。それを僕は納得できていない。それなのに、お母様は勝手に僕が理解したと勘違いし、話を続ける。
「だからこそ、目先の数人の命に
貴族としての私は、領地を守り抜き、繁栄させるにはどうすべきか、それを第一に考えて生きてきたわ。
領地が繁栄すれば、結果的に多くの平民が餓えの苦しみから解放されます。
目の前の命にこだわれば
中世において人の命は容易に失われる。生まれても4人に一人は一歳までに死亡する。
戦争でも人は死に、食べ物の不作になるとすぐに飢饉が発生する。悪い病気が流行れば村が全滅することだってある。
だからこそ、目の前の死に心を動かされず、状況を
お母様が話す内容は厳しいけれど間違ってはいないのだろう。それを頭では理解できていても、心が理解を拒んでしまう。
だって、僕は一人の人間であって、それ以上でも以下でもない。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
僕はそんな教育を前世で受けてきたんだもの。
「例えば、そうね。ジャン=ステラの命は、平民1万人どころか貴族と聖職者1万人よりも尊いわ」
こんなお母様の言葉を受け入れてしまうということは、前世の常識を、ひいては前世の知識を全否定することにならないだろうか。だからか、自分の足元が崩れ落ちてしまうように錯覚してしまう。
ただ、お母様は僕を
「あなたが神に与えられた知識により、何百万、何千万という数の人が救われるのよ。平民が数人死んだ事で、歩みを止めてはだめ。それは神の期待に背く行為にほかならないのです」
お母様の言葉を聞けば聞くほど、
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あとがき
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エイリークに対しては本人が希望してはいるものの、
実際に目の前で死者が出ちゃうと
そう思わなくもないのですが、私は人間ってそんなに強くないと思ってます。
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