第220話 黒色火薬(前編)

 1064年5月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


 春が訪れると、地中海は貿易の季節を迎える。波が穏やかになり、地中海の航海が安全になるのだ。


「寒い頃に比べると、行き交う船が増えましたね、お母様」

「東ローマの船も来ましたし、これからは新大陸の船も来るのですよね」

「いえ、それはまだ気が早いと思います」


 海が安全になる時期を見計らっていたのだろう。先日、東ローマ帝国から「ギリシアの火」が届いた。


 ギリシアの火とは、炎を吹き出す船上搭載兵器である。


 アルベンガ離宮のバルコニーからの浜辺を見下ろすと、ガレー船にギリシアの火を搭載しようと作業している様子がよく見える。


 これでトリノの水軍が強くなるといいなぁ。


「そうそう、帝都大学から来られた皆様の荷物も届いたのでしたよね」

「はい、お母様。教授の皆さんもようやく、研究にとりかかったみたいです」

「まぁ、それは頼もしい事」


 コンスタンチノープルの帝都大学から4名の教授陣が、僕の家庭教師という名目でアルベンガ離宮に滞在している。たった4人だけれど、専門分野は次のように分かれている。


 ・音楽・修辞学のヨハネス・マウロポス

 ・神学・聖書学のニケタス・ステタトス

 ・哲学者・科学者のヨハネス・イタルス

 ・錬金術師のバシリオス・ペトロス


 中にはよくわからない専門も混ざっている。


「お母様、修辞学ってなんですか?」

「話し方を学び、自分の言葉に説得力を持たせるための学問ですよ」


 ふむふむ、そんな学問分野があるなんて知らなかった。


「あら、ジャン=ステラ。貴族にとって最も重要な科目といっても言い過ぎではないのですよ」


 部下に指示を出し、軍を指揮する。また、貴族の交流においてバカにされたり舐められたりしないため、必ず学ばないといけないらしい。


 それでも、やっぱりわかりにくいよね。どうせなら大学の学部みたいに、文法経、理工農、医歯薬だったら僕にもすんなりと理解できるんだけどなぁ。


 それに、どうして同じ人が哲学と科学の教授を兼ねているんだか。哲学と科学ってぜんぜん違わない?


 まぁ、そんな僕の感想はどうでもいいや。


 アルベンガに来てからというもの、4人の教授陣は僕の教科書を読みふけりーの、アルコールの蒸留施設を見学しーの、望遠鏡をのぞきーのな日々を送っていた。


 それが、コンスタンティノープルから人と荷物、実験機器が届いたらすぐさま研究活動を開始した。


 音楽のヨハネスは、帝都大学から呼び寄せた聖歌隊とともに、礼拝堂で日がな一日、歌っている。


「ジャン=ステラ様にお教えいただいた楽曲に大いに触発されました。一刻も早く神へ捧げる聖歌へと昇華したいのです」


 ヨハネスには、ポップミュージックやアニソンを教えたんだけど、まったく気に入ってもらえなかった。


「あまりにもテンポが早すぎます。それに、旋律にも荘厳さが足りません」


 アニソンに荘厳さを求められても困っちゃうよね。


 そして、ヨハネスが感銘を受けたというのは、カエルの合唱だったりする。


「カエルの歌が、聞こえてくるよ ぐわっ ぐわっ ぐわっ ぐわっ」

 幼稚園の雨の日にみんなで歌ったっけ。


 半分おふざけで歌ってみただけなのに、ヨハネスの食いつきがすごかったんだよね。


「ジャン=ステラ様、この輪唱という技法は実に素晴らしい。同じメロディーがいく度も現れるこの技法は、波のように絶えることのない神の永遠性を音楽的に表現しているではありませんか」


 輪唱の素晴らしさについてヨハネス熱弁を振るってくれるのはいいんだけどさ、ちょっと引いちゃうよね。


「そ、そうなの。よかったね、ヨハネス。あはは」


 だって、カエルの合唱だよ? どこに荘厳さがあるっていうのさ。


 まぁ、感動してくれたのなら、よかったのかな。


 そして、神学・聖書学のニケタスは、昼夜を問わず望遠鏡を担いで観測を続けている。


「ジャン=ステラ様はおっしゃいました。天地創造は138億年前だったと。その証拠を見つけることに残りの人生を捧げたいと思うのです」


 これまた、大変な目標を掲げたものだよね。光速を測ったり、遠ざかる星々が赤くなる光のドップラー効果を観測したりできるのかなぁ。


「ジャン=ステラ様、手始めに何から始めればよろしいでしょうか」

「そうだね、まずは音のドップラー効果から始めようか」


 近づいてくる救急車のサイレンは高い音に聞こえ、遠ざかる時には低く聞こえる。これがドップラー効果。


 救急車の代わりに、馬を全力疾走させたら体験はできそう。


「次に、速度を測る必要があるんだけど……」


 砂時計と水時計があるから時間は測れるけど、長さの単位が決まっていないんだよね。


 ここイタリアでは、ブラッチオという単位が使われてはいるんだけど、これって「腕の長さ」なんだよね。そんなの人によってちがうやーん。


 科学の発展には、単位の統一が必要不可欠。だって実験結果を再現ができないんだもの。


 ここはメートル原器ならぬ、ブラッチオ原器の作成から始めるべきだろうか。


 うーん、と唸っていたら、ニケタスがいいことを閃いたみたい。


「ジャン=ステラ様、単位を統一する必要があるのですよね」

「うん、そうだよ。何かいい案が浮かんだの?」

「はい、浮かびました。ジャン=ステラ様の身長を単位としましょう」


 クリュニー修道院に寄付するに銀の重さに、僕の体重を単位とした実績があることをニケタスが言い出した。


「重さの単位にジャン=ステラ様のお体を使ったのです。ならば、長さの単位にもジャン=ステラ様を使うのはいかがでしょう」


 すごく良いことを思いついた、という風情のニケタスだけど、それはだめでしょう。


「だめ、却下」

 僕は即答した。


 だって、重さと長さの単位が同じ名前だなんて、悪夢でしょ?


「ここに1ジャン=ステラの棒があります」

 って言われても、重さなのか長さなのかわからないだもん。


 もう、いっそのことメートルとグラムを僕が定義するべきかな。


 たしか、地球1周を4万キロメートルって定義してたはず。


 じゃあ、グラムの定義は?うーん、思い出せない。 


 あ~あ、一円玉があったらよかったのになぁ。そうしたら1グラムと2センチの原器として使えたのにね。


 残り2人の教授陣、哲学者・科学者のヨハネス・イタルスと錬金術師のバシリオス・ペトロスは、二人そろって火薬の研究を進めている。


 活版印刷、羅針盤と並び、火薬は世界三大発明品の一つである。きっと、火薬があれば世界は大きく変わると思う。


「ギリシアの火も凄いけど、火薬はもっと凄いんだよ。世界を変える力があるんだもの」


 そう言って、ヨハネスとバシリオスをきつけたら、快く火薬の研究を請け負ってくれた。


「東ローマ帝国の科学技術は、誰にも負けませんっ!」


 火薬は9世紀の中国で発明されちゃっているけど、その事は黙っておこう。

 だって、二人には大いに頑張って欲しいんだもの。


 そして、二人にはヒントを与えておく。


「硝石と木炭に、あと一つ何かを混ぜたら火薬ができる。でも何を混ぜたらいいかわからないんだよね」


 僕のヒントにすぐさま、ヨハネスが応えてくれた。


「では、ギリシアの火の材料を順番に試してみましょう」


 そして、バシリオスが材料名を指折り数えていく。


「燃える水、硫黄、樹脂……」 


 そんな二人の軽妙なやりとりを見ていた僕は、火薬くらいならすぐ出来そうだなぁ、って思ってた。


 思っていたんだけどね。


 アルベンガ離宮のバルコニーで休憩していたアデライデお母様と僕に、耳をつんざく轟音が届いちゃった。


 ドゴーン、バゴーン、ガラガラガラって。


 音の出所でどころは、離宮のはずれにあるヨハネスとバシリオスの実験小屋。


 爆発音が響いた瞬間、お母様も僕もバルコニーにいたから、小屋の屋根が吹き飛ぶ様子を丁度目にすることになった。


 屋根が1m以上も打ち上げられ、そのあとバラバラになりつつ地面に落下していく。次いで扉が吹き込んだ小屋から火の手があがった。


 すこし遅れて離宮内は上を下への大騒ぎ。


「なにがおきたのだっ」

「火事か? それとも雷か?」


「アデライデ様とジャン=ステラ様の警護を固めろ」

「けが人が出ているぞ、いそげっ!」


 さらに、厩舎きゅうしゃの馬たちが「ヒヒーン」といななき、暴れる音も聞こえてくる。


「馬が暴れているぞ。落ち着かせろっ」


 離宮内の護衛、衛兵、使用人たちが事態を収拾しようと大声を挙げている。


(僕も何かしなくっちゃ!)

 そう思ってはいるのだけれど、おろおろしちゃうだけで、どうすればいいか分からない。


「お母様、ヨハネスとバシリオスは無事でしょうか?」


「さぁ、どうかしら。でもね、ジャン=ステラ。まずは落ち着きましょうね」


 お母様が僕をぎゅぅっと抱きしめてくれた。それだけで、すぅっと心が落ち着いてくる。


 ドキドキと強く脈打っている心臓の音をお母様に聞かれるのは恥ずかしいな、って場違いな思いも浮かんできた。


「どうして、お母様はそんなに落ち着いていられるのですか?」


「私だって落ち着いているわけではないのですよ。こういう時こそ、上に立つものは落ち着いている姿を見せる必要があるのです。


 ジャン=ステラも戦場に立つ日が来たら、分かるわよ」

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