第193話 スーパームーンと楕円軌道
1063年9月上旬 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ジャン=ステラ
「ジャン=ステラ殿、私はピサネロ・ゲオルギオス。ミカエル・プセルロス様の弟子の一人です。数学を専門としています」
ピサネロが僕を値踏みするように、僕の全身を上から下に視線を動かした。
どうして僕が値踏みされなきゃならないのと、ぷりぷりしちゃう。
僕だって値踏みしちゃうんだからねっ。
「数学が専門って、どのくらい詳しいの?」
「ジャン=ステラ殿が書かれた算術の教科書程度のことなら当然知っています。イタリア人がアラビア数字を知っていたのには驚きましたが、内容は簡単でしたね」
ピサネロがふんって鼻を鳴らした。僕の書いた教科書が簡単すぎてつまらない物だって言いたいのかな。
僕が書いた算術の教科書って、小学校4年生レベルだったはず。その内容は3桁の数の掛け算とか、2桁の数の割り算とか、その程度。
その内容を知っていることを誇らしげに言われてもねぇ。なんだか白けちゃう、というか、それで数学者を名乗れちゃうの?
マジ中世、やばくね。
九九のかけ算表がサルマトリオ家の秘伝だったけど、まさか大学の数学者のレベルが算数じゃないよね。
あまりにも酷すぎる予想に、僕は素で質問を返してしまった。
「え、それだけ? それで数学者なの?」
「さすがに、そんな訳ありません」
問いかけられたピサネロは、僕にバカにされたと思ったのか渋面になった。
その後、口角を上げ、僕の知識を試そうとしてきた。
「では、ジャン=ステラ殿に最新の数学である三角法を示しましょう。天動説・地動説の精度計算をするため、かのアル=バッターニが編み出した数学の妙味を理解できますかな」
鼻息荒く、ピサネロが三角法について語り始めた。
「ふん、お前なんかにわかるまい」との意思がピサネロの顔に張り付いている。
三角法ってなんだろう?
そう思って聞いていたけど、なーんだ。三角関数のことだった。
サイン・コサイン・タンジェント。
高校の授業で、友達と一緒に三角関数の呪文を詠唱していた事を思い出した。
一枚のタンタン分のタンプラタンッ!
(藤堂あかりは詠唱に失敗した。再テストの魔物が増えた)
いや、失敗してないしっ!
「ジャン=ステラ殿、上の空になっているようですが、難しすぎましたかな」
前世のことを思い出していたら、ピサネロに誤解されちゃった。
「ピサネロの言う三角法は知っているから、もういいよ。天動説・地動説の計算方法に進もう」
三角関数の呪文みたいな公式をいくつか、羊皮紙に書いてピサネロに渡す。
これを見たら、僕が三角関数を知っていることがわかるよね。
紙を渡されたピサネロは、ちょっと動揺したみたい。目がすこし泳いでる。
ふふん、いい気味なのです。
「ごほん。では天動説に基づく惑星位置の計算法から始めましょう」
咳払いで気分を持ち直したピサネロが、天動説について話し始めた。
天動説では、惑星は地球の周りを周っている。しかし単に惑星が円運動していると仮定した場合、惑星が天球上を西から東へ動く逆行運動を説明できない。
そこで、天動説に導入されたのがエピサイクル。
惑星は、地球を中心とする大きな円軌道を動きながら、同時に小さい円軌道を描くと考える面白いアイデアである。
「エピサイクル理論という、精緻な構造こそが、この世のあるべき姿なのです」
ピサネロが胸をはって、天動説を誇っている。ちょっと陶酔が入っていて、正直きもい。
ふーん。計算がとっても面倒くさそう。
それにモデルを複雑にしたら、観測結果への当てはめも簡単になるんだけどね。
天動説を批判する言葉がたくさん僕の頭に浮かんでくる。
でもまぁ、天動説なんて間違っているんだから、どーでもいいか。
本命である地動説に話を移すことにしよう。
「で、ピサネロが軌道計算した地動説についても教えてくれるかな」
「ええ、よろしいですとも。地動説の
地動説では全ての惑星が太陽の周りをぐーるぐると回っている。
「神の創りたもうたこの世界は、地動説のような単純な理論では推し量れるはずもないのです。その点を、ジャン=ステラ殿はどう思われるのですか」
ピサネロが勝ち誇るかのように、僕の意見を求めてくる。
「僕は複雑な理論よりも、簡単な方がいいと思うけどね。それはさておき、惑星が太陽を回る軌道は円だよね」
「ぷふっ」
僕が惑星軌道の形を確認したら、なぜかピサネロが噴き出した。
「ええ、もちろん円ですとも。それともなにか。三角形や四角形をしているとでも、ジャン=ステラ殿は主張するのですか?」
なに、その嫌味。全くもって、ここまでくると呆れちゃうよね。
「いや、五芒星だよ。ピサネロは知らなかったの?」
「はいぃ? いや、しかし……」
やーい、驚いてやんの。
「正解は円ではなく、
「私が楕円を知らないとでもお思いか!」
「ふぅーん、そりゃ、よかったね」
嫌味を込めて、ピサネロに笑い返してやった。
でもね、楕円って計算が難しいんだけどなぁ。
それはさておき、地動説における惑星軌道は円ではなく、楕円である。
理由は、高校の社会と理科で習ったから。
「それでも地球は回っている」で有名なコペルニクス。彼の唱えた地動説では、惑星軌道はまんまるの円形だった。そのため、天動説に精度で負けちゃった。
これをひっくり返したのが、天文学者のケプラー。こちらは高校理科の暗記項目としても有名。
ケプラーの第一法則:惑星軌道は楕円である。
「ただし、太陽は楕円の中心ではなく、楕円の焦点に位置しているからね。ピサネロは楕円のことを知っているのだから、中心と焦点の違いはもっちろんわかってるよね」
「……」
ピサネロが無口になっちゃった。真剣な顔で僕の次の言葉を待っている。
「そしてもう一つ。楕円上を惑星が移動する速さも教えてあげる。惑星の動きは太陽に近いときは速くなり、太陽から遠くなると遅くなるよ」
これがケプラーの第二法則である面積速度一定の法則。細かい説明は必要になった時に教えることにしよう。
「ピサネロ、楕円軌道の地動説で惑星の動きを計算してくれるよね」
「いや、しかし……」
なんだか歯切れがわるいなぁ。今すぐとはいわないけど、後で検証するくらい約束して欲しい。
「べつに天動説を信じたいなら、信じとけばいいよ。まずは月の軌道を楕円で計算してみようか」
「月ですか?」
「そう、お月様」
天動説と地動説。そのどちらでも、月は地球を回っている。月の軌道計算なら、天動説・地動説に関係なく、天文学として計算できる。
まずは楕円軌道を理解してもらうところから始めよう。
「ねえ、ピサネロ。お月様の大きさって変わるよね」
「空高い時には小さく、沈む時に大きく見える、ということでしょうか」
「いーや違う。それは錯覚。同じ満月でも大きい時と、小さい時があるでしょう。あれは月の軌道が楕円だからだよ」
大きい時はスーパームーンとか言われて、前世ではネットニュースでも流れていた。
月の軌道は楕円だから、地球に近づいたり、遠ざかったりする。
スーパームーンとは、地球に近い時の満月のこと。あれこそが、軌道が楕円である証拠なのだ。
「……。(楕円、近日点と遠日点)」
ピサネロがぶつぶつ言っている。
もしもーし、楕円はどうなった?
反応してよー。
ピサネロって学者バカだったのね。自分の思考に沈んじゃって浮かんでこない。
困った。この場をどうしよう?
もういっその事、大聖堂にある自分の部屋に帰っちゃおうか。
「ぐわっはっはっはー。ジャン=ステラ殿、お主の勝ちだな!」
礼拝堂に響き渡るような笑い声の主は、ミカエル・プセルロスやピサネロ達の護衛隊長。
東ローマ皇帝と総主教の特使を兼ねているミカエルの肩をばしばし叩いている。
「よーし、この場は撤収だ。イシドロス、あとは任せた」
そう言うやいなや、護衛隊長は東ローマから来た集団を引き連れて、潮が引くかのように撤収してしまった。
嵐のようにやってきて、嵐のように去っていっちゃったね。
その場に残された僕たち、イルデブラントと彼に集められた聖職者達は、唖然としつつ彼らの退場を見守るだけだった。
「ねえ、イシドロス。ギリシアからの帰還、おつかれさま。疲れているかもしれないけど、説明してくれるよね。いったい全体、どうなってるの?」
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あとがき
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天動説のエピサイクル図を作成してみました。
https://38568.mitemin.net/i802944/
近況ノートにもアップしておきます。
ジャン=ステラちゃんは、三角法を三角関数だと思っています。
しかし、アル=バッターニの三角法は、平面上の三角法(=三角関数)ではなく、球面上の三角法です。天球を仮定して惑星の位置をトレースするためには、球面上の三角法が必要だったのだと思います。
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