第190話 天地創造の暦
1063年9月上旬 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ジャン=ステラ
「はい、みなさん、質問です。天と地が創造されたのは何年前でしょうか」
人材集めを手伝ってくれるイルデブラントに、僕は天地
ここはウィーン大聖堂に付属する礼拝堂の一つ。
イルデブラントとその側近たち、そしてウィーン大聖堂の聖職者たちが所狭しと、木製の長椅子に腰掛けている。
全部で100名は超えていると思う。多いのか少ないのか分からないけど、僕の知識に興味を持ってくれたのは嬉しい。全員とは言わないけど、このうちの何人かでも僕の人材集めに協力してくれたらいいなぁ。
それはさておき、これだけ大勢を前に授業するのは、ちょっと緊張する。
とはいえ、ちょっと緊張する程度で済んでいるのは、前世で高校教師だったから。
授業なんて慣れたものなのだ。えっへんぷいぷい。
僕の質問に、100名を代表してイルデブラントが返答する。
「東方教会では、紀元前5508年のことと言われています」
コンスタンチノープルの帝都大学では旧約聖書学というのがあり、その研究成果として天地創造の年代が決定されているのだとか。
天地が創造された紀元前5508年を元年とするのが、世界創造紀元と呼ばれる
「その暦によると今年は、世界創造紀元6571年になります」
な、なんと。知らなかった。東方教会では西暦を使っていないんだ。
びっくりしたけど、その感情を隠したまま、ぼくは授業を続ける。
「おしい! 僕の知識とはちょっとだけ違います」
左手の人差し指と親指の間を少しだけ空け、ちょっとであることを強調しておく。
生徒の答が的外れだったとしても、全否定しちゃだめ。「おしい!」「だいたい合ってる」「考えの方針は正しいよ」と良い所を見つけて褒めるのだ。そうしないと、プライドを刺激しちゃうし、自己肯定感が下がっちゃう。
これ、教育に大切なこと。
イルデブラントの考えではなく東方教会の答だけど、授業の最初から全否定はよくないよね。
それなのに、会場にどよめきが走った。
「研究成果が間違っているだと?」
「暦として使っている東ローマ帝国の権威を
ひそひそ話が僕の耳にも入ってくる。
礼拝堂のざわつきを制止しつつ、イルデブラントが代表して答えを求めてくる。
「ジャン=ステラ様。東方教会の研究成果が間違っているとの事ですが、はたして天地創造は何年前なのでしょうか」
「138億年前だよ」
「は?」
イルデブラントの頭上におおきな疑問符が浮かんでいる。もしかして、大きい数は苦手だったかな。
「1万3千年の1,000倍の1,000倍。東方教会の推定が約7500年前だったけど、天地創造はその100万倍ぐらい昔の出来事なんだよ」
正確には天、つまり宇宙の創造が138億年前で、地球ができたのは46億年前になる。だけど東方教会の推定に比べたら誤差みたいなもの。宇宙ってほんとスケールが大きくてすごい。
「・・・・・・」
もしも~し、イルデブラントさん。お口がぱっくり空いていますよ。
礼拝堂内に静寂が満ちている。
うんうん。そうだよね。宇宙の壮大さに驚いてくれたことに僕は満足の笑みを浮かべる。
しかし、礼拝堂の静寂は長くは続かなかった。
「千倍の千倍? なんだそれ」
「無茶苦茶だ」
「いくらなんでも
ひそひそ声で始まった疑問の声が、罵声へと変わるまでに時間はかからなかった。
「子供の戯言に付き合っていられるか」
「この嘘つきめ!」
「にせ預言者よ。馬脚を表したな」
僕の護衛のロベルトとティーノが思わず、僕の前に出てくるほどだった。
ただ、まぁ。この反応は予想した通り。
イルデブラントからも事前に聞いていたけれど、ケルン大司教アンノ2世の息がかかった聖職者がこの場に多数いるのだ。
僕の知識を批判するように言い含められていてもおかしくない。そして、当然ながら対策もばっちりしてある。
「静まれぃ!」
イルデブラントが威厳をもった声で一喝した。
そして、聖職者達に向かって冷徹に言い放つ。
「この場で声をだす事が許可されているのは、私一人である。口をつぐめないのであれば、退室せよ」
温和なイルデブラントに似合わない冷たい声色だなぁ、となんとなく思う。だけど、そういう部分がないと平民から枢機卿に出世できないよね。
誰一人とて礼拝堂を出ていかない。まぁ、出て行った者の名前はチェックされるから当然だろう。
誰だって枢機卿に悪い意味で名を覚えられたくはないよね。
「それでは、ジャン=ステラ様。この場の全員を代表してイルデブラントが質問いたします」
「うん、どうぞ」
「なぜ138億年前なのでしょうか。その根拠を教えていただきたく存じます」
イルデブラントと、そして礼拝堂の100名。合計200個の瞳が僕を捕らえている。
一言たりとも聞き逃すまいとの決意が全員の目に宿っている。
あぁ、前世の高校生たちもこのくらい真剣に僕の授業を聞いてくれていたらなぁ。
もしそうだったら、授業も楽だったのに。
「もちろん理由も教えるよ。ただしその前に一つ約束してほしい」
今から話す僕の説明は、きっと誰一人理解できないと思う。
理解したとしても、それが本当の事かどうか、簡単には確認できない事ばかり。
そして、一番重要な事。
「天地創造が138億年前だった事を理解するためには、たくさんの事を学ばないといけないんだ。できることなら、僕の知識をみんなにも受け継いで欲しいと思っている」
言い終わった僕は、イルデブラントの返答を待つ。
「はい、当然の事だと受け止めます。そもそも東方教会による天地創造の推定は、何百年も旧約聖書を研究した末に出されたものです。ジャン=ステラ様の新しい教えが短期間で簡単に身につくとは思っておりません。
このイルデブラント、今この時を持ってジャン=ステラ様をわが師と仰ぎましょう。
どうかご教授いただきますようお願い申し上げます」
イルデブラントがひざまずいて僕に礼を示した。
僕に師事すると事前に聞いていたけれど、ちょっと大袈裟すぎない? おもわず苦笑が漏れてしまう。
そしてイルデブラントに続いてひざまずく者がちらほら見受けられる。
その数20人くらいかな。説明前の今の時点でそれだけ賛同者がいれば充分多いだろう。
調子に乗った僕は胸を張り、自信満々に声を張り上げた。
「理由は簡単。宇宙は今も成長しているんだよ。その成長の速さを逆算すれば、138億年前に宇宙が創造されたと計算できる」
「宇宙が成長しているとは、どういうことでしょうか」
「空に浮かぶ星々が、地球から遠ざかっているという事だよ」
この後に続くであろう質問の回答を、僕は事前に準備している。
「どのようにして星が遠ざかっていることを調べたのですか」という質問がくる。
そして、僕は「遠ざかる音が低く聞こえるのがドップラー効果で、遠ざかる光が赤くなるのが赤方偏移」という呪文を答える予定。
呪文を唱えて煙に巻く。そして呪文を理解するために科学技術を勉強をしてもらう。その過程で技術を向上させ、その技術で軍備を整える。
なにこの完璧な計画! ふふふっ。すごいでしょ、僕。
そう自画自賛していたんだけどなぁ。その思惑は思いっきり外れちゃった。
「星々が配置されている天球が大きくなっている。ジャン=ステラ様はそう仰っているのですか?」
世界の中心に地球があり、その地球を覆う透明なボールに星々が張り付いている。そのボールが地球の周りを東から西へと回転している。
たしか、プトレマイオスの天動説だったっけ。コペルニクスの地動説と一緒に世界史で習った記憶がある。
この天動説では、全ての星は地球から同じ距離に位置している。なぜなら地球を中心とするボールの表面に星がくっついているから。
そんな天動説が正しいはずがない。近い星で4光年。遠い星雲は地球から100億光年以上の距離がある。
「そもそもの考えが違うよ。星は天球に張り付いていないし、地球から星までの距離は同じじゃない」
僕の言葉に反応し、礼拝堂が再びざわめく。
聖職者たちにとって天動説は当然のことだったみたい。
数瞬の後、まるでヤジのような怒声混じりの質問、というよりも僕を叱責する怒号が礼拝堂にこだまする。
「天球に張り付いていないなら、なぜ星は地上に落ちてこないのだ?」
「近くの星と遠くの星があるのなら、なぜ同じ速さで地球の周りを回っているのだ」
「教会の教えに背いているぞ」
「やはり預言者というのは嘘だったのだ」
「この嘘つきを追放せよ」
イルデブラントが「ええい、静まれ。鎮まらんか」と声を張り上げるけど、今度は全く収まらない。
質問には答えられるけど、興奮状態の聖職者達はイルデブラントや僕の声に貸す耳を持っていない。
心臓がバクバクと高速鼓動する。やばい、足が震え始めた。怒っている声が僕に向けられている事に恐怖を感じる。
アンノ二世が仕込んだサクラがいるとしても、これほどの過剰反応が返ってくるとは想定外だった。
常識を覆される不快感がこれほどまでだったのかな。
それとも、否定できそうな要素を見つけた途端に食いついてしまうほど、僕への反感が強かったのだろうか。
もしかして、枢機卿のイルデブラントを目下扱いした事がここにきて影響している?
正直なところ、怖くて頭が働かない。もうどうしていいかわからない。
枢機卿のイルデブラントでも収拾できないこの場をどう切り抜ければいいっているのさ。
もう泣き出したい。
(誰か助けてよぉ~)
その時、礼拝堂の後方から武装した一団が入ってきた。
それを見た護衛達が、僕の周りに展開する。抜剣こそしないものの、すでに臨戦体制に入っている。
この兵士たちはアンノ二世の手の者だろうか。
僕がにせ預言者だと
(僕、このまま連れ去られちゃう? )
にせ預言者として処刑されちゃう自分の姿が脳裏に浮かび、冷や汗が噴き出てきた。
礼拝堂の壁沿いに部隊を展開する武装集団の行いを
ただし、それは僕だけではなく、ここにいる聖職者全員に言えること。
彼らの姿に気づいた聖職者達の目に恐怖と困惑の色が浮かび、礼拝堂の罵声が引き波のように静かになっていく。
つまりは、アンノ2世の息がかかった聖職者達の味方ではないみたい。
だったら、いったい彼らは何者なのか。 敵?味方? それとも強盗?
そう考え始めた直後、一団の中で最も豪奢な服を着ている偉丈夫さんが、周りを
「神聖な礼拝堂で何を騒いでいたのだ」
その偉そうなおじさんが誰だかは知らない。
しかし、おじさんの横には見知った顔がいて、僕に微笑みかけていた。
どうしてイシドロスがここにいるの?
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