第188話 先陣

 

 1063年9月1日 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ピエトロ・ディ・サヴォイア


「お兄ちゃんごめんな゛ざ~い」

 ジャン=ステラが俺に抱きついて泣いている。


「気にするな、ジャン=ステラ。お前は何も悪くない。それに俺はお前を信じているから」


 ここはウィーンの大広場中央にそびえたつ大聖堂の一室。俺たち兄弟の宿としてあてがわれた区画の一室になる。


 先ほど戦勝祈念の宴会がおわり、俺はジャン=ステラと一緒に大聖堂へと戻ってきた。


 その帰り道、宴会におけるジャン=ステラの目立つ振る舞いについて注意をし、部屋に戻ってからは宴会後に行われた軍議の内容を伝えた。


 この軍議は、イルデブラント様をはじめとする聖職者、そして陪臣であるジャン=ステラを退室させてのち行われた臨時のものだった。


 臨時とはいえお酒の入った宴会後に軍議をするなよ、とは思うが臨時の理由がジャン=ステラとあっては文句も言えない。


 まずは1点目。ジャン=ステラの祈願文の内容をラテン語で提出すること。


「ジャン=ステラが捧げた祈りの内容を知りたいそうなんだ。特にアンノ様がその内容を知りたいとご執心であった」

「えー、そんなの無理っ! だってラテン語で説明できない単語がいっぱいあるんだもの」


 ジャン=ステラがほっぺたを膨らまして、不満を露わにする。


「そうは言われてもなぁ。摂政であるアンノ様からの命令なんだよ」


 困ったなぁ。ジャン=ステラが無理って言うからには、無理な理由があるのだろう。

 しかし、ただでさえ摂政であるアンノ様の心証が悪いのだから、少しでも良くしておくに越したことはない。


 そこを何とかならないかと、もう一度お願いしたら、あっさり了承してくれた。


「ピエトロお兄ちゃんを困らせるつもりもないし、別に秘密でも何でもないからいいんだけど……」

「いいんだけど?」


 言い淀むジャン=ステラに続きを促す。


「さっきはラテン語で説明できないっていったけど、本当はちょっと違うの。

 実際は読む人の知識がなくて理解できないんだよね」


 ん? どういう意味だ? 祈願文を読むのは摂政のアンノ様だぞ。ケルン大司教を務めてもおられるし、ドイツでも有数の知識人と言っても良いだろう。


「なあ、ジャン=ステラ。読むのはアンノ様だから大丈夫じゃないか?」


 俺の言葉にゆっくりと首を横に振るジャン=ステラ。


「そういう意味じゃないんですよ。アンノ様がどれだけ知識を持っているのか知りませんが、それは聖書の知識を基本としています。僕の言葉を理解するには、その聖書とは違う体系の知識が必要なんですよ」


「うーん、さっぱりわからんぞ、ジャン=ステラ」


 聖書と違う体系の知識? そんなものがあるのか?


「お兄ちゃんは1、2、3というアラビア数字を学びましたよね」

「ああ、お前が書いてくれた教科書で覚えたぞ」


 ジャン=ステラが書いてくれた算数の教科書のおかげで、俺はトリノ領内でも一二を争うほどの計算能力を手に入れられた。サルマトリオ男爵家が秘伝としていた九九の表を笑い飛ばせるくらい、その教科書の知識はすごかった。


「そのアラビア数字は聖書に書いていませんよね」

「そりゃ、聖書は算数の教科書じゃないから当然だろ」


「そのとおりなんです。僕の祈願の言葉は、アラビア数字みたいに、聖書とは異なる知識がたくさん必要なんです。そのため、アンノ様でもイルデブラントでも理解できっこないんです」


「なるほど、そういう意味か。神から与えられた知識を記した言語だから、神の知識を持っていないと、理解できないという事だな」


 アンノ様ほどのお方でも理解できないとジャン=ステラが言った意味が、ようやくわかった。


「もっと簡単に言ってしまうと、知識のない子供は大人の言うことを理解できない、ということなのです」


「その場合の子供って、アンノ様だよな」

「僕にとってはイルデブラントも子供ですよ」


 ジャン=ステラがイタズラっぽく笑いつつ、アンノ様以上の知識人である枢機卿イルデブラント様を子供だと言う。


 ああ、どおりでジャン=ステラがイルデブラント様を呼び捨てにし、逆にイルデブラント様がジャン=ステラに敬意を払うわけだ。


 ジャン=ステラとイルデブラント様。この二人にとっては地上の権威も年齢も関係ないのだな。ようやく俺はそのことを理解した。


「どうせ理解できないのですし、その辺りは適当に誤魔化してラテン語訳しておきますね」

「ああ、よろしく頼む」


 さて、祈願文の話は終わったから、次の話題へと移るとしよう。

 こちらの方が、俺たち兄弟にとって深刻な影響を及ぼすのだ。


 深刻だから、本当はジャン=ステラに伝えたくはないのだが、そういうわけにはいかない。

 気は重いが、重い分だけ、できるだけ軽めの口調でジャン=ステラに伝えよう。


「あのな、ジャン=ステラ。俺、ハンガリー戦役の先陣を務める事になった」


 ハインリッヒ陛下直々のご命令だぞ。どうだ、すごいだろう、と胸を張りながらジャン=ステラに伝えた。

 ちょっと口元が引きつっている気がしないでもないが、それはもう本心では憂鬱ゆううつなのだから仕方あるまい。


「軍の先頭を駆けるのは武人の誉、おめでとうございます!」とでもジャン=ステラが言ってくれれば気が楽になったのだが、うまくいかないものだな。


 目の前にいる現実のジャン=ステラは、なにか不審な点がある事に気がついてしまったようだった。

「たしか、先陣はオーストリア辺境伯家でしたよね」

「ああ、そのとおりだ」


 ジャン=ステラが指摘するように、オーストリア辺境伯エルンスト殿が先頭でハンガリーへと攻め込むことになっていた。

 なにせ、帝国でハンガリーに最も近い大諸侯がオーストリア辺境伯であるし、だからこそウィーンに軍勢を集結させたのだ。


「それに、ピエトロお兄ちゃんの軍勢って500名しかいないでしょう」

「ああ」


 ジャン=ステラの顔が不安で曇っていく。ジャン=ステラは10歳なのに鋭いなぁ、と他人事のような言葉が頭に浮かんだ。


「地理に詳しくない遠方の領地で、さらに小勢のピエトロお兄ちゃんが先陣だなんて、どう考えてもおかしいですよね」


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないな」

 ジャン=ステラから少し目線を逸らしてしまったのが悪かったのかもしれない。ジャン=ステラが気色ばみ、俺に詰め寄ってくる。


「はぐらかさないでください。どうしてピエトロお兄ちゃんが先陣なのですか? エルンスト様は何も言われなかったのですか?」


 ジャン=ステラはイルデブラン様を呼び捨てにするのに、エルンスト殿には敬称をつけるんだな。全く関係ない事が頭に浮かぶ。いかんいかん、思考を元に戻さねば。


「エルンスト殿も最初は難色をしめしていたぞ。だが、陛下直々じきじきの命令には逆らえなかったのさ」


 実際のエルンスト殿は難色どころか、激昂していたけどな。それは言わないが華であろう。

 そして、納得した理由も、俺が500名という小勢なので大きな活躍は期待できまいと、アンノ様に説得されたからだったりする。


 そして、肝心の質問、どうして俺が先陣なのか。ジャン=ステラに言いたくないが、言わないわけにはいかない。重い口を開ける。


「ジャン=ステラは、戦争での死者が少なくなるよう祈っただろう」

「ええ、祈りましたよ。それが先陣とどう関係するのですか?」


 ジャン=ステラが俺の方に身を乗り出して、祈りとの関係を聞いてきた。


「陛下もな、ジャン=ステラの言うとおり犠牲が少ない方が望ましいとおっしゃった。そしてどうすれば犠牲者を少なくできるか考えた結果、俺が先陣になった」


 ジャン=ステラが首を傾げる。


「ピエトロお兄ちゃん、よく意味が理解できないのです。犠牲者を減らすために、どうしてお兄ちゃんが先陣なのですか?」


「それはな……」


 どうしても言い淀んでしまう。


「それは?」 

 ジャン=ステラにうながされて、俺はようやく口を開いた。


「俺ならジャン=ステラの加護が強いだろうから、被害もすくなかろう。先陣を切ってハンガリーに攻め込み、ハンガリー王ベーラ様を降伏させてこい、との仰せだ」


「そんな無茶な!」

 ジャン=ステラが悲鳴のような声をあげる。


「これが陛下が考えた、被害最小で戦争を終える方法なんだとさ。


『ジャン=ステラの祈りにわれは心を打たれた。その祈りを成就させるため、その兄であるトリノ辺境伯ピエトロには骨を折ってもらうとしよう。諸侯も皆、ピエトロに協力するように』


 陛下は笑顔でこのように仰せられたんだ」


 実に、皮肉の効いたイイ笑顔だったな。


 そもそも祈願文の内容は誰も分かっていなかっただろうに。陛下の顔を思い出すと口に苦いものを感じてしまう。


 そして、一瞬の間の後、意味を理解したのかジャン=ステラが声を上げて泣き出した。

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