第187話 胃の痛い宴会
1063年9月1日 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ピエトロ・ディ・サヴォイア
ハンガリー戦役の必勝を願う宴会において、俺の弟であるジャン=ステラがいろいろやらかした。
それも宴会が始まる前からなんだぞ。勘弁してくれよっ。
貴族席の末席にすわるジャン=ステラのところで、イルデブランド枢機卿が挨拶している。
濃く鮮やかな赤色をした枢機卿の正装に身を包んでいるからイルデブラント様は、遠目にもよく目立つ。
その枢機卿が立っていて、ジャン=ステラは座ったまま。
頭からサーッっと血の気が引いていく。
おいっ、ジャンステラ! ちょっと待ってくれよ。お前はイルデブラントの
いや、そうじゃないのか? 預言者のジャン=ステラにとっては枢機卿といえども目下なのかもしれない。
しかしこの場におけるイルデブラント様の序列は皇帝ハインリッヒ4世に次ぐ第二位。それに対しジャン=ステラ、おまえは最下位なんだぞ。
それを理解しているのか? って理解してたら座ったままな訳ないよな。はぁ。
おかげで宴会場が静まり返っている。全員の目と耳がジャン=ステラとイルデブラント様との会話に注がれているのが痛いほどわかる。
そのような中、イルデブラント様がジャン=ステラを叱責する声が響き渡った。
「ジャン=ステラ様!お聞きになっていますか」
「うんうん、聞いていたよ」
二人の会話を聞いた者の声にならない驚きが宴会場に響き渡った。そんな気がする。
もちろん、ジャン=ステラが叱責されたことが原因じゃない。
イルデブラント様がジャン=ステラに敬語を使っていて、ジャン=ステラがおざなりに答えている事に対する驚きなのだ。
そこに、さらなる追い討ちが追加される。
叱責されたはずのジャン=ステラはどこ吹く風で、によによしながらイルデブラントを呼び捨てにしている。
「イルデブラントはどこがいいと思う?」
(私的な場ならともかく、
もう絶叫したい。ジャン=ステラの頭をぽこって叩いて叱りつけたい。
アデライデお母様だって「イルデブラント様」って敬称をつけている。
多分、皇帝陛下だって枢機卿のイルデブラント様を呼び捨てにはしない。
ジャン=ステラ、おまえは一体何様だ!
って預言者様かよ、ちっくしょー。
さらにその後、イルデブラント様がジャン=ステラに対して目上に対する礼をした後、聖職者最上位の席へと移動していったのだ。
ああ、イルデブラント様。あなたの振る舞いは、ジャン=ステラを悪目立ちさせるものでした。なんて事をしてくれたのでしょう。
「ブルータス、おまえもか」
いや違う。「イルデブラント様、あなたもですか」
もう、頭を抱えて机に突っ伏したい。
「おい、あの少年は何者だ?」
「イルデブラント様とどういう関係にあるんだ?」
「末席とはいえ宴席に参加しているということは伯爵だろ?」
「あれが、噂の預言者候補か?」
「偽物じゃなかったのか」
ほらみたことか。あちらこちらのヒソヒソ話が耳に届いてくる。
ドイツではそれほど知られていなかったジャン=ステラの存在が、一気に広まってしまった。
名が売れれば売れるほど、ジャン=ステラの身は危なくなるというのに。
せめて名を売るのは安全なトリノに帰ってからでお願いしたかった。
「ねえ、ピエトロ。ジャン=ステラをどうか守ってやってくださいね」
トリノ出発前にお願いされたアデライデお母様からのお願いを俺は守れるのだろうか。
不安に
「なぁ、ピエトロ殿。あの末席の少年は、お前の弟
声の主は、オーストリア辺境伯であるエルンスト殿。貴族序列6位の俺より一つ上の序列5位であり、ここウィーン城の持ち主でもある。
「ええ、その通りです。自慢の弟なのですよ、エルンスト殿」
内心に渦巻く不安が声に乗らないよう気をつけつつ、笑顔でハキハキと答える。
エルンスト殿はそんな俺の方ではなく、遠くジャン=ステラの方に鋭い目線を飛ばしている。
「そうか、あの少年が預言者かもしれないのか……」
戦勝祈念の宴会が始まった後も、ジャン=ステラが何かやらかさないかとずっとドキドキしていた。
そのおかげで、料理の味が全くしない。
あとから考えると、どうせトリノの料理に比べれば味が微妙な田舎料理に過ぎないから、味がしないのは幸いだったのかもしれない。
なぜ、ドイツ人は美味しい料理を食べる喜びに気付けないのか、不思議でならない。
「ピエトロ殿。聖剣セイデンキの噂は、本当に起こった出来事なのか?」
隣席のエルンスト殿が、俺に幾度となく声をかけてくる。無視されるよりは嬉しいが、その話題はもっぱらジャン=ステラのことばかり。
妹のベルタが皇帝陛下の婚約者だというのに、そちらの話は全く出てこない。
「セイデンキを振るったら、雷が落ち、地が揺れたというのは本当ですよ」
「では、地震でクリュニー修道会の修道院が崩れたというのも?」
「幸い人は死ななかったらしいですが、建物がたくさん壊れたらしいですよ」
別に隠す事でもないので、素直に答えておいた。
エルンスト殿があご髭を
それだけの仕草だというのに、歴戦の勇者っぽい立ち居振る舞いが実に様になっている。
「ふむ、一度ならともかく二度も起きたというなら偶然とは言い難いな。なるほど教皇庁が動くわけだ」
「トリノ辺境伯家としては、ジャン=ステラが預言者だと信じております。ウィーン辺境伯であるエルンスト殿にもご賛同いただければと思っております」
ダメ元でジャン=ステラへの助力を要請しておいた。ウィーンにおける身の安全は、エルンスト殿の胸先三寸で大きく変化する。せめて敵側にまわってほしくないものだ。
「そうだなぁ。三度目の奇跡があれば俺も信じることにしようか」
奇跡のお代わりがあるかどうか、エルンスト殿が挑発的に聞いてくる。
俺を試しているのだろうか。
「どのような奇跡かは分かりませんが、あるようですよ」
自信たっぷりな笑顔をエルンスト殿に向けておく。
「ピエトロ殿、その思わせぶりな言葉には、何か根拠はあるのだろうか」
少し前にジャン=ステラは言っていた。地震・雷・火事・親父、と。
そして「地震と雷は終わったから、次の奇跡は火事かもしれないね」って笑っていた。
つまり4番目の奇跡は親父?
「な、なぁ。ジャン=ステラ。それって、オッドーネお父様が復活するってことかい」
恐る恐る聞いてみたが、困った表情で首を横に振られてしまった。
「残念だけど、復活はありえませんよ」
だよなぁ。復活してしまったら、オッドーネお父様がイエス様と同格、つまり神様ってことになってしまう。それはさすがにあり得ない。
俺はジャン=ステラとのやり取りを思い出し、おもわず笑い声が出てしまった。
エルンスト殿の前だというのに、失敗、失敗。
「ふふっ。いや失礼。根拠については秘密とさせてください」
俺の笑い声を深読みしたのか、エルンスト殿は「そうか」と言ったきり、何やら考え込み始めてしまったようだ。
宴会もそろそろ終わりという頃、ジャン=ステラが皇帝陛下に呼び出された。呼び出されてしまった。
何も起こらずに終わって欲しいという、俺の淡い希望が打ち砕かれた瞬間だった。
「帝国の摂政を務める私からジャン=ステラ殿に要請いたします。神授の聖剣セイデンキを使い、この場で敵を打ち払ってください」
摂政を務めるアンノ大司教が、奇跡の具現化をジャン=ステラに求めてきた。
それに対し、ジャン=ステラではなくイルデブラント様が応戦している。
「奇跡を強要するなど、アンノ殿は神に対する
ジャン=ステラそっちのけで、イルデブラント様とアンノ様が大声で議論を戦わせている。
まるで伝説の猛獣、ドラゴンとトロルが戦っているような幻視が見えそうだ。
そのせいで、宴会場の誰もが二人に口を挟めずにいる。挟んだ瞬間、ドラゴンかトロルに食い殺されそうな雰囲気が感じられるからだ。
その例外は、にやにやしている皇帝ハインリッヒ4世陛下ただひとり。
もしかすると、この議論は皇帝陛下とアンノ様の筋書きに沿ったものなのかもしれない。
たしかにそう思うと、言い争う二人の主題は、皇帝と教皇の権力争いだと思えてきた。
ローマ教会を支配下に置きたい皇帝と、そうはさせまいと争う教皇。
アデライデお母様からは聞いていた舞台裏の争いが、ジャン=ステラをきっかけに表面化してしまったのかもしれない。
だが、今はそれも好都合。
いいぞ、その調子でジャン=ステラの事は忘れてしまってくれ。
後の事はともかく、まずはこの場を切り抜けたい。だが俺の願いは、ジャン=ステラが粉砕した。
「イルデブラント、そしてアンノ様、よろしいでしょうか」
ジャン=ステラ、頼むから黙っていてくれー。どうしてわざわざ、二人の間に割って入るんだよぉ。少しは場の雰囲気を考えろよ。
しかも皇帝陛下の面前でイルデブラント様を呼び捨てにしている。
皇帝陛下ですら「イルデブラント殿」と敬称をつけているんだぞ。
そこだけ切り取れば、ジャン=ステラの方が皇帝陛下よりも上の立場だと主張している事になると、どうして分からないのだ。
ああ、お腹の辺りがキリキリする。もうこの場で俺のできる事は何もない。
いや、そもそも俺がどうこうできる問題ではなかった。皇帝と教皇の争い、さらに預言者が関わってくるのだ。アデライデお母様ならともかく、一介の辺境伯が対処できると思う方に無理がある。
もうしーらないっと。あとはジャン=ステラ、お前の才覚に任せた。
そうこうするうち、ジャン=ステラの祈願が耳に届いた。
「ハーライターマー キーヨメターマー ウチウノソーゾーシュ……」
まるで荘厳な教会音楽のような音律と共に奏でられるジャン=ステラの祈願。
ただし、意味は全く分からない。
ラテン語、イタリア語、ドイツ語。どの言語でもない。
たぶん、ジャン=ステラだけが使う「神様から与えられた知識を記した言語」というやつなのだろう。
「預言者モーセが使っていたヘブライ語か?」と聞いたこともあるが、ジャン=ステラは違うと首を横にふって否定した。
「じゃあ何語なんだい?」
「にほ……」
「ニホ?」
「うーん。きっとこれは言ってはだめな情報だと思うから、秘密の言語とだけ言っておくね」
今なら理解できる。
目の前で神に祈りを捧げるジャン=ステラを見れば一目瞭然だ。
ニホなんとかという言語は、神様との会話に使う言葉だったのだと。
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