富国と強兵
第141話 巨人の肩の上
1063年3月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
ユーグとの会談が終わった夜、闇が部屋を静寂に包む中、僕はベッドで眠れぬ夜を過ごしていた。頭の中を考えがぐるぐると渦巻き、僕の眠りを遠ざけていく。
今日、僕はユーグの経験に勝つことができなかった。
もちろん、勝ち負けではないのは分かっている。
しかし、僕の持っている知識は経験の裏打ちがない。
そのことに気づいてしまったのだ。
預言者だと持ち上げられ、僕自身も前世の知識を持っているからと調子に乗っていた。
僕が知識を披露すれば、水戸黄門様の印籠を見たお侍さんみたいに、ははーって無条件で受け入れてもらえると、口には出さなくても心の奥底では思い込んでいた。
(だって、僕、預言者なんでしょう?)
中世って宗教勢力が威張っていて、権力を持っている時代なのだ。そんな時代の「預言者」といったら最強カードだと勘違いしていたのだ。
宗教的に対立する人たちに誘拐されたりとか、暗殺されたりする危険はあるとしても、預言でもある前世の知識に異議を唱えられるなんて想像もしていなかった。
お母様やギリシア組のイシドロス達のように、無条件で僕を受け入れてくれる人たちに囲まれていたから、勘違いしちゃってた。真綿で包まれるように、庇護されていたのだと、ようやく現実を知った。
だからこそ、まるで足元の地面がガタガタと音をたてて崩れていくのを茫然と眺めているしかない、そんな不安が僕の心を塗りつぶしていく。
(世の中ってきびしいなぁ。もっと僕に甘々の世界でもよかったのに)
算数や数学は、論理が全てを支配している。
地球以外の場所、たとえ異世界だったり、ビッグバン前の宇宙だったとしても、1+1は2だし、円周率は3.14なのだ。
一方で理科や社会は、先達の経験から導き出された知識である。
世界地図に書かれた海流は観測の結果であり、短期的にはともかく、海流は永遠の存在ではないのだ。氷河期になって地球が凍れば海流はなくなるし、そもそもプレートテクトニクスで大陸は移動してしまう。
「前世の知識って、あまり役にたたないのかなぁ」
つぶやきが、部屋の闇へと溶けていく。
前世では小中高と真面目にお勉強してきた。大学だって4年で卒業できるくらいには頑張った。
僕だって分かっている。前世の知識は役に立つ。しかし、その知識を裏付ける経験がない。頭でっかちなのだ。
高校の同級生にいた。教科書は完璧なくらいに覚えているのに、応用問題がまるでダメ。
「歴史だからといって丸暗記しても意味ないよ。歴史の流れを覚えてなきゃ、解けないわ」
「理科の定数を覚えても時間の無駄よ。考え方を覚えなきゃ」
周りの友人からはそんな風に言われていたっけ。
今の僕の姿が、その同級生と重なる。
あやふやながらも教科書の内容を覚えている。しかしユーグのように「なぜ?」「どうして?」と聞かれると答えに
「だって、教科書に書いてあったんだもん」
教科書に嘘は書かれていないって信じてた。だからそのまま覚えていた。しかし、背景にある経験知には無頓着だった。
「巨人の肩に立つ」という言葉がある。
昔の人が積み重ねてきた経験、実験、発見といった知識の集大成が巨人で、その肩に乗ることで知識の地平線を見渡せる、といった意味である。
その巨人が急に消えちゃったから、僕の知識は空から落っこちそうになっている。
(このままじゃ、よくないよね)
せっかく持って生まれた前世の知識なのだ。宝の持ち腐れにするわけにはいかない。
じゃあ、どうする?
前世の知識が正しい事を、僕一人で今から経験するのは無理。
だって、僕は巨人じゃないもの。
(巨人になってくれる人を探す?)
もちろん巨人というのは比喩であり、僕に代わって前世の知識を検証してくれる人の事。
イシドロス達なら、やってくれるだろう。しかし、蒸留ワイン造りとか、レンズ作りで今でもオーバーワークになっている。これ以上のお仕事は頼めそうにない。
正確には、寿命を縮めてでも、達成しようとするだろう。
しかし、イシドロス一人が一生涯をかけたくらいで、どうこうなるとは思えない。
僕の知識は、11世紀の今から1000年近くにわたり、多くの人々が積み重ね続けた結果なのだ。
「ウラン原子を分裂させたら、核爆弾つくれるよ」
僕を信じているイシドロスに原爆の原理を教えたとしても、核兵器なんて到底つくれっこないだろう。
核兵器は冗談としても、イシドロス一人でだめなら、人をたくさん集めたらどうかな。
三人寄れば文殊の知恵って言うけど、3人なんてけち臭いことを言わず、10人でも100人でも募集しよう。
いっそのこと、大学を作っちゃう?
前世では高校の先生してたし、ぴったりだよね。
集まった生徒に僕の知識を教え、研究してもらうのだ。
前世の知識が正しくて、役立つことを実証してもらっちゃおう。
名づけて「巨人の肩、再建計画!」
うっわ、だっさ。自分で言ってて、恥ずかしいわ、これ。
でも。うん、なんか楽しくなってきた。これなら眠れそう。
明日になったら、お母様におねだりしよ~っと。
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あとがき
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世界最古の高等教育機関は、紀元前7世紀のタキシラ僧院のようです。場所はパキスタンになります。
一方、世界最古の西欧大学は、イタリアのボローニャ大学で創建1088年です。こちらはトスカーナ地方にあります。史実のマティルデお姉ちゃんがトスカーナ辺境伯をしていた頃だから、お姉ちゃんも大学の事は知っていたのかな~(妄想中)。
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