第140話 地球の自転と貿易風

 1063年3月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


 クリュニー修道院のユーグはノルマン人の傭兵を雇い、新大陸に行ってもらう気でいる。ノルマンとは「北の人」という意味である。きっと寒さには強いだろう。


 しかし、南アメリカ大陸にあるジャガイモを手にいれるためには、暑~い熱帯地方を航海する必要がある。


(ノルマン人って暑さに強かったりしないよね)

 真冬の北海道から、真夏の沖縄に行くようなものだろう。

 熱中症や脱水症も心配だけど、地味に日焼け対策も必要になりそう。サングラスが無いから、失明する可能性もある。


 食べ物の種類も違うだろうし、なにより暑いと食べ物がすぐ腐っちゃう。狭い船の中でお腹を壊す人がたくさんでたら、それこそ阿鼻叫喚の地獄絵図となってしまう。


(あぁ、もう。心配ごとばっかりだよ)


 他にもいろいろと不安はあるけれど、まずはアフリカ大陸の沖合にあるカナリア諸島に行き拠点を作ってもらうことにした。


 カナリア諸島の対岸にあるアフリカ大陸はサハラ砂漠で水がない。しかしカナリア諸島には雨が降るから、水が得られるのだ。雨が降るから植物も育つ。食料だって手に入るに違いない。


 そして、カナリア諸島が重要なのは、水だけではない。

 東から西へと貿易風が吹いている。さらに北赤道海流が東から西へと流れている。

 大西洋を横断するための、理想的な出発地なのだ。


 カナリア諸島を出発地にし、風と海流を最大限に活用すれば、きっと新大陸に行けるはず! 

 行けると思う。

 いけるかなぁ……


 だんだん不安が募ってくる。僕が「行け!」って号令をかければ、ノルマン人の傭兵さんたちは大西洋へと船を漕ぎだすだろう。


(100名が出発したとして、何名が戻ってこられるかな)


 想像したら胃が痛くなってきた。

 心もどんより重くなってくる。


 だから、せめてノルマン人には試験を受けてもらおう。


 試験内容は、カナリア諸島に行って帰ってくること。


 ヨーロッパとカナリア諸島を楽々と往復できないようでは、大西洋横断なんて出来っこない。



 それなのに、ユーグが文句を言ってくる。

「ジャン=ステラ様、なぜ新大陸の地図をいただけないのでしょうか」


 僕がユーグに渡したのは、アフリカ北半分とカナリア諸島の地図。新大陸は描かれていない。


「だって、新大陸の地図を渡したら、僕の言葉を聞かず、まっすぐ西に向かっちゃうでしょ?」

 喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込む。


 西に向かうと、風と海流という自然を敵に回すことになるから、ぜったいだめ! それこそ全滅しちゃう。


「カナリア諸島に行って、戻ってこられたら新大陸の地図を渡すからね」


 僕はユーグにカナリア諸島の重要性を説明した。水も食料も、海流も風も。自然を味方にしないと大西洋横断なんて無理だって力説した。


 それなのに、ユーグは全然、分かってくれない。

「新大陸の地図のことは承知しました。しかしながら、どうして南のカナリア諸島なのでしょう。新大陸のある西方の島ではダメなのですか」


「西にも島はあるよ。でもヨーロッパから行くのは難しいの」

 僕はユーグに説明する。


 スペインがあるイベリア半島の西方1500kmにアゾレス諸島がある。


 しかし、海流も偏西風も、アゾレス諸島からイベリア半島に向けて流れている。


 イベリア半島からアゾレス諸島に向かうのは、歩くエスカレーターを逆向きに歩くようなもの。エンジンで動く船ならともかく、オールと帆を頼りにしているノルマン人がヨーロッパから直接アゾレス諸島に行くのは、はっきり言って無理。無理ったら無理なのだ。


(頑張って説明しているのになぁ)

 相変わらずユーグの顔には不満が浮かんでいる。


「ねぇ、ユーグ。理解できないのかもしれないけど、僕を信じてくれないかな」

「理解していますとも、ジャン=ステラ様。海にも川のような流れがあり、一年を通じて一方向に吹く風があると仰りたいのですよね」


 なーんだ、わかってるじゃん。じゃあ、なにが不満なの?

 そう思いながらも僕は、辛抱強くユーグに耳を傾け続ける。


 首をふりふりユーグが語る。

「しかし、しかしです。アルベンガの面前に広がる地中海に、川のような流れがあるなどと聞いたことはございません。また、風の向きは勝手気ままに移りゆくではありませんか。ジャン=ステラ様を信じたい心は持ち合わせております。しかしながら、このような状況で信じろと言われても、私としては困惑するしかございません」


 僕としては、それでも信じてほしいんだけどなぁ。僕のことを預言者だとか、天使だとか持ち上げているのに、僕の事を信用していないんだね。


 悲しいけれど、これが真実。

「人は誰も、見たいと思う現実しか見ていない」

 そう喝破したのは古代ローマの英雄、カエサルだったっけ。


 ユーグの思惑では、今日ここで新大陸の地図を貰えると思っていたんだろう。それが貰えなかったから海流や風のことを言い募って、なんとか目的を達成しようとしているのかもしれない。


 それでも、これはユーグの思考の地が出たんだと思う。

 つまり、僕が預言者だとか、前世が天使だとか、どうでもいい。

 ただ、僕の知識をユーグ自身の、あるいはクリュニー修道会のために利用できれば、それでオッケーなんだろう。


「はぁ」思わず溜息が出た。

 実際に航海してくれるノルマン人傭兵の事を気遣い、その結果のカナリア諸島だったのになぁ。


 なんか、疲れがどっと出てきた。説明しても納得してくれないんだもん。目の前の机に突っ伏して、「もういやだー」ってダダこねたい。


 しかし、ここで放り投げちゃったら、ノルマン人の犠牲者が増えてしまう。


(もうちょっとだけ頑張ってみる?)

 たくさんの人が亡くなってしまったら、じゃがマヨコーンピザを食べるたびに思い出してしまうだろう。そうなったら二度とピザを美味しく頂けなくなる。


 解決の糸口はないかなと、まずは、情報を整理してみた。


 ユーグは自分の経験ではありえない、そう言っている。

 海は川ではないし、風向きは頻繁に変化する。

 クリュニー修道院の寄付集めのため、ユーグはヨーロッパ各地を旅してきた。その経験に自信を持っているに違いない。


 一方、僕の知識は前世で習った教科書が元ネタであり、経験に基づいてはいない。


(まさに 経験 vs 知識 だよね)


 経験を打ち破るには理論しかない。


 ふっふっふ。ならば是非もない。

 ユーグに教えてあげよう、なぜ東から西に貿易風が吹くのかを。


 確か授業でならったような気がするんだけど……

 いや、補助教材の便覧に載っていたんだっけ。

 んと、えっとぉ。


 記憶の糸を一生懸命、辿っていく。


 太陽に温められた赤道の空気が、寒い北極・南極に向かうんだっけ?

 それとも、地球の自転のせいだったかな。


 地球が西から東に回るから、風は逆向きの東から西に吹く。これが貿易風。


 しかし、この理屈なら偏西風だって東から西に吹かなければならなくなる。というか、地球上の風は全部、東から西に吹く風になってしまう。


(……さすがにそれはおかしいよね)

 僕、何か覚え間違いをしちゃってたのかな。


 あ~れ~? わからないや。

 これ以上思い出せそうにもない。


 風と海流の名前と向きは暗記したけど、そもそも理由までは正しく覚えてなかったみたい。


「ま、負けた」

 ユーグの経験に、僕の知識が負けちゃったよ。


(白旗あげちゃう?)

 しかし、ユーグに新大陸の地図を渡しちゃったら、きっと西に向かって一直線。爆走するに違いない。


 ノルマン人、死んでもいい?

 それはだめっ! 

 じゃあ、どうしよう。どうすればいいのさっ。


 自問自答が自縄じじょう自縛じばくで自業自得だよ。

(だれか助けてー)


 困りきった僕を助けてくれたのは、柔らかい笑顔のお母様だった。


「ジャン=ステラ、よく頑張ったわね。あとは私が引き取ります。それでいいかしら」

 僕は、一も二もなく頷いた。


「ユーグ殿、ジャン=ステラの言葉を信じられないのなら、それでも構いませんわ。そもそも私どもは、ユーグ殿に信じて欲しいとお願いしたことなどありません」


 先ほどとは打って変って冷たい目をしたお母様が、ユーグに言い切った。


「ジャン=ステラが預言者なのか、そして前世が天使なのかを知りたいのは教皇猊下で、その依頼を受けたのがユーグ殿なのでしょう。


 北アフリカ沖のカナリア諸島にも行けないというなら、どうぞご随意に。教皇猊下には私から手紙を書きましょう」


 そもそもユーグに交渉権はないのだと、お母様は思い出させてくれた。


 お母様の言葉を聞いたユーグは、それはもうあっさりと引き下がった。早速、ノルマン人の傭兵に依頼してくると、執務室を退室していった。


「新大陸の地図が貰えなかったことを、ユーグは納得してくれたのでしょうか?」

 ユーグの心にわだかまりが残っていて、それが後々響いてこないかと心配になった僕は、お母様に聞いてみた。


「大丈夫よ、ジャン=ステラ。あなたはよく頑張ったわ」


 二人きりとなった執務室でお母様は僕を抱きしめてくれた。

「この面会で、ユーグ殿は私たちにずっと押されていたでしょう?」


 お土産として持ってきた聖遺物の歯は、僕の乳歯みたいなものと価値を低く見られた。もう一つのお土産であるユニコーンの角にいたっては、ユニコーンではないと否定される始末。


 ユーグはきっと、悲しいやら悔しいやら、落ち込んでいたのだろうと、お母様は言う。


 それでも、面会中は、ずっと我慢していた。それは新大陸の地図を手に入れたらユーグの勝ちだったから。新大陸の地図を手に入れられれば、教皇の勅命は達成されたも同然だった。


 あ、教皇の勅令というのは、僕の前世が天使なのか調べる事ね。


「ジャン=ステラ、あなたが新大陸の地図をユーグ殿に渡したとしましょう。

 ユーグ殿は、ノルマン人の傭兵を使って探索するふりをするだけでいいのです」


 ユーグは新大陸を、本気で探すつもりはなかっただろうと、お母様は推測を口に出した。


 ユーグは教皇に、「新大陸は見つかりませんでした。すなわちジャン=ステラの前世は天使ではありませんでした」、と報告すればいい。


 報告後は、僕の事を嘘つきだの、にせ預言者だのと、クリュニー修道会の総力で宣伝し、僕をこの世から抹殺すればよいとでも考えていたのだろう。


 その後に新大陸が見つかったとしても、僕が存在しなければ、どうとでもなる。まさに死人に口なし、だ。


「その目論見が外れたから、ユーグ殿はあせってしまったのよ」

 僕がカナリア諸島までの地図しか渡さなかったから、ユーグの目論見は外れてしまった。


 それでも、なんとか新大陸の地図を手に入れられないかと足掻いていたら、お母様がユーグの悪意に勘づいたというわけだ。


「お母様、教えていただきありがとうございます。それにしてもユーグは恐ろしいことを考えていたのですね」

「ユーグ殿が本当に考えていたのかは、分かりませんよ」 

 お母様が首を横にふり、「もしかしたらユーグ殿は善人かもしれませんものね」 声をだしてコロコロと笑った。


 かわいい笑い声なのに、僕にはそれが妙に怖かった。

 お母様の背中から、どす黒い炎が吹き上がるのが見えた、気がした。


 ◇  ◆  ◇


 おまけ:ユーグの献上品

 ・ 聖遺物

 聖アポロニアの歯

 ・ 薬

 ユニコーンの角

 カロメル(塩化水銀)

 サフラン

 胡椒

 米


 ああっ、せっかくユーグがお米を持ってきてくれていたのに!


ーーーー

あとがき

ーーーー


ユーグに渡した地図を近況ノートに載せています。

カナリア諸島、アゾレス諸島、北半球のアフリカが描かれています。

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