第121話 異端審問
1063年2月上旬 イタリア中部 ローマ教皇庁 イルデブラント助祭枢機卿(43才)
「これより聖なるローマ教会の枢機卿会議を開始する」
ローマ教皇アレクサンデル2世が、暗く厳しい顔で開会を宣言されました。信者の前で見せる優しい表情との違いが、今日の議題の重さを物語っています。
ローマ教皇の住まいであるラテラノ宮殿の奥深く、厳重に人払いされた会議室に枢機卿団が集められました。助祭枢機卿である私、イルデブラントもテーブルの末席に座っております。
枢機卿会議の議題は「3週間前の地震における被害報告」です。これはもちろん表向きのもの。真の議題は、とある人物の「異端審問」です。
議題を提起したのはユーグ・ド・クリュニー。弱冠24歳でクリュニー修道院の院長に就任後、今日まで20年間にわたりクリュニー修道会傘下の修道院を拡大しつづけてきた傑物。アルベンガで問題をおこしたスタルタス殿の上役になります。
このユーグ殿がジャン=ステラ様の異端審問を要求したため、枢機卿が招集されました。
「アレクサンデル猊下、なぜ枢機卿でない者がここにいるのですか?」
司教枢機卿のペトルス・ダミアニが口火を切りました。
そう、ユーグ殿は枢機卿ではないため、参加する資格は本来ありません。それでもここにいるということは、つまり……
「私が許可した」 アレクサンデル猊下が苦々しい顔でおっしゃります。「今回の異端審問を提起したのは、ユーグだからである」
「それならば、なぜ異端審問の被告であるジャン=ステラ殿がここにおられないのでしょうか。一方的に決めつけるおつもりですか?」
枢機卿でない事では、ジャン=ステラ様もユーグ殿も同じ立場であると、ペトルス枢機卿が主張します。
「ジャン=ステラ・ディ・アオスタにはローマに来るよう要請はした。だが来なかった。そうだな、イルデブラント」
教皇猊下が、私に念押しをされます。
「はい、私がアデライデ・ディ・トリノ様に書状を手渡しました。しかしこの場に来ることを拒まれました」
(なんと不敬な)
(我々を無視するのか?)
枢機卿たちのひそひそ声が聞こえてきます。
なんと現実の見えていない事でしょう。ため息がこぼれそうになるのを抑え、来ない理由を教皇猊下に伝えます。
「ジャン=ステラ様が来られないのは、教皇猊下もおわかりだったはず。トリノ辺境伯家は、対立教皇ホノリウス2世を支持しているのですから」
「ふむ。つまり、私を蔑ろにしていることに変わりはないではないか」
「表面上はその通りです。私も否定はしません。しかし、ジャン=ステラ様はクリュニー修道院副院長スタルタスとの揉め事で心を痛めたのか、その後、部屋で塞ぎ込んでおられます。ジャン=ステラ様がここに来られない非は、クリュニー修道会側にもあります。ジャン=ステラ様はまだ成人前の9歳なのですよ」
「……まあよい。ジャン=ステラがローマに来るとは私も思ってはいなかった。それにしても、イルデブラント。貴様はやけにジャン=ステラの肩を持つのだな」
教皇猊下が皮肉げに口を歪めながら、私を
なんと情けないことをおっしゃることか。私が一番ジャン=ステラ様の事情に詳しいのは、教皇猊下の命じた結果ではないですか。
「教皇猊下、私にジャン=ステラ様の監視を依頼されたのは他ならぬ
非難の色を込めた目で教皇猊下を見つめます。それに対して、教皇猊下は「ふんっ」と鼻を鳴らしました。
「イルデブラントよ、そなたと言い争うつもりはない。その代わりと言ってはなんだが、ジャン=ステラを代弁してもらおうか。ジャン=ステラに一番親しい枢機卿はそなただからな。ユーグが抱くジャン=ステラへの疑惑への反論を許そう」
皮肉めいた言い方はさておき、ジャン=ステラ様を一方的に異端だと断罪しなかった事に安堵しました。
「はい、承知いたしました」
ジャン=ステラ様の代弁者となれるのは、アルベンガの奇跡をこの目で見た私しかおりません。
ジャン=ステラ様は前世において天使でした。それが何らかの理由によって神の言葉を預かって、この世に降誕されたのです。この事を正確に伝える事が、この場における私の使命なのでしょう。
「それでは、ユーグ・ド・クリュニー。ジャン=ステラが異端であるという理由を
教皇猊下が異端審問を提案したユーグ殿に発言を促します。
「教皇猊下、並びに枢機卿の皆さまもご存じでありましょう。ジャン=ステラは、神授の聖剣と
ユーグ殿は並み居る枢機卿の顔を見渡しながら、朗々と自説を述べていきます。
「昨年はサルマトリオ男爵の処分にこれを利用しました。
そして、つい1か月前にも、クリュニー修道院のスタルタスを脅しつけています。可哀想な事にスタルタスは今もアルベンガの地で捕らえられております。
神の名を使って聖職者を断罪する。これはキリストの教えを守る我らに敵対する行為です。これを許しておけば、キリスト教の根幹が揺るぎます。
ここに我、ユーグ・ド・クリュニーは、ジャン=ステラが異端だと認定すること、そして彼の討伐を要求します!」
さすがはユーグ殿、話し方が
惜しむらくは、その内容でしょうか。同門の修道士、スタルタスが捕らえられたために彼の目は曇ってしまったに違いありません。
「教皇猊下、発言の許可を願います」
「うむ、イルデブラントに発言を許す」
「ありがとうございます」 教皇猊下に謝意を述べたあと、ユーグ殿に反論します。
「さて、ユーグ殿。なぜ、セイデンキが神授の聖剣でないと断定できるのでしょうか」
できるだけ穏やかな話し方を心がけたつもりですが、ユーグ殿は私を威圧するような大きな声をだします。
「あのセイデンキは、ギリシアから来た修道士、イシドロスの修道院で作られた剣です」
ユーグ殿配下の者が調べたのだと、細かい説明が続きます。
「つまり、人が作ったものであり、神授であろうはずがないのです」
ユーグ殿が「どうだ!」と言わんばかりの目で私を睨みつけてきます。
しかし、私は同意できません。
「なるほど、聖剣セイデンキの出所はたしかにイシドロス殿でしょう。しかし、だれが作った剣であろうとも、神が力を授けたのであれば聖剣でしょう」
「それ以外にも証拠はあがっています。セイデンキが雷を呼んだのはたった一度のみ。その折も、神罰の裁可を求めたサルマトリオ男爵ではなく、無関係な傭兵に雷は落ちています。これで神授の聖剣とは片腹痛いにも程があります」
なるほど。ユーグ殿はいい点に着目しましたね。ユーグ殿の疑念に関しては、私もかつて同じ思いを抱いていました。しかし、過去形です。アルベンガでの出来事はこの疑念を吹き飛ばしました。
同じ罠にかかった者として、「ふふふっ」と同情の笑いが小さくこぼれてしまいます。
あらら、「ぎりっ」と音がしそうな程、ユーグ殿に睨まれてしまいました。これは失敗、失敗。
「これは、失礼。しかし、セイデンキが聖剣であろうと、なかろうとどちらでも良いのです」
「ならば、ジャン=ステラが異端であると認めるのだなっ!」
「ユーグ殿、落ち着いてください。どちらでもいいと言った鍵はアルベンガにおける、スタルタス断罪事件にあります」
「ジャン=ステラはアルベンガで一度もセイデンキを使っていないのだぞ」
「正確には、『セイデンキで雷を呼んでいない』、ですね。情報を重視するユーグ殿らしくもありませんな」
私の言葉にユーグ殿は煽られたのか、顔が真っ赤になってしまわれました。おお、怖い怖いww。あまりの怖さに笑みが零れそうになるのを慌ててとめた程です。いえ、嘘です。聖職者たるもの嘘はいけませんね。
ユーグ殿に問いかけます。
「ユーグ殿にお聞きします。クリュニー修道院・副院長のスタルタス殿は何で断罪されましたか?」
「断罪されてなぞおらぬっ」
「では、違う問いに改めましょう。ジャン=ステラ様は何を使われましたか」
「肉料理を切り分けるためのナイフであろう。そして、聖職者の一員であるスタルタスを傷つけようとしたのだぞ。それをイルデブラント殿は許すと言われるのか!」
「ガンッ!」 ユーグ殿がテーブルに拳を打ち付ける音が部屋に響きました。顔を真っ赤にして主張してきます。
(ユーグ殿、それは悪手ですよ)
痛いところを突かれたと告白しているようなもの。大きな声で脅せば、萎縮するとでも思っているのでしょうか。まことに心外です。
「そう、ジャン=ステラ様が使ったのはただのナイフです。そのナイフが地震を呼びました」
「その地震がジャン=ステラの足元を揺らし、スタルタスが傷つくのを防いだ。神の御心がスタルタスにあるのは自明の理であろうが! イルデブラント殿、これ以上無駄な話を続ける必要があるのか?」
私は大きく首を横に振ります。ユーグ殿は分からないふりをして、話を逸らそうと躍起になっているのでしょうか。単なる権力闘争ならばその態度でもいいのでしょう。しかし、それでは困るのです。
世界の危機が迫っているというのに、ユーグ殿の瞳は曇っているとしか言いようがありません。
「結果的にスタルタス殿が傷を負わなかったのは確かです。しかし、スタルタス殿を救ったのではありません。その証拠に、クリュニー派の修道院の建物だけが全部で3棟も崩落したではありませんか」
ひと月前の地震により、イタリア各地に被害が及びました。がけ崩れが起き、建物の壁がひび割れました。火事が何件も発生しました。しかし、不思議と大きな被害を受けたのは、クリュニー派に属する修道会の建物ばかりだったのです。
(神の罰は、スタルタス殿ではなく、クリュニー修道会に落とされたのではありませんか?)
そう思ってはいても、賢明な私は口には出したりしません。別に、クリュニー修道会を
「そっ、それはだな。崩落した建物は全て崖の上に立てていたからだ。地震に弱い土地に修道院を立てたのは我々の過ちであったが、それは神罰とは関係ないであろう。イルデブラント殿、誤魔化さないでもらいたい!」
あれあれ、ユーグ殿。「神罰」という言葉を出す必要はなかったでしょうに。
「神罰であるかどうかは、どちらでも構いません。私が言いたいのは、地震が救ったのはスタルタス殿ではなく、ジャン=ステラ様の方であったという事です。ジャン=ステラ様がスタルタスを傷つけることで、心を痛める事を神は望まれなかったのでしょう」
そう、ジャン=ステラ様は神に愛された方なのです。なにせ天使の子なのですから。
ここまでユーグ殿と私の議論を静かに聞いてきた教皇猊下でしたが、ついに黙っていられなくなったようです。
「イルデブラントよ、神はジャン=ステラの心を救うため地震を起こしたと言っているのか? そんな奇跡のような事があり得るというのか? 私には到底信じることができない」
「教皇猊下の疑問はごもっともです。ですが、お聞きください。ジャン=ステラ様の前世は天使の子だったのです。母の名はトドエル様、姉の名はノエル様」
天使の名前には規則があります。それは、最後が「エル」で終わるのです。ミカエル、ラファエル、ガブリエル。
トドエル、ノエルの名は寡聞にして聞いたことがありませんが、天使であることに間違いはないでしょう。
「天使の子だと? それは確かなのか?」
教皇猊下が疑わしい表情で私に問いかけます。
「はい、前世においてジャン=ステラ様は空を飛んでいたそうです。そして母と姉が天使なのです。天使の子と言いましたが、ジャン=ステラ様ご自身も天使であった可能性が高いと言えましょう」
(天使? 本当に天使なのか?)
(イルデブラント殿が嘘をつくとは思えないが、すぐに信じられる事ではない)
(他に証拠はないのだろうか)
教皇猊下が考え込まれている間、枢機卿たちのひそひそ声がします。
惜しむらくは、ジャン=ステラ様の前世の名、そして御尊父の名を教えていただけなかったことです。名がわかっていれば、ジャン=ステラ様が天使であったと、より強く主張できたかもしれないのです。
「イルデブラント殿、私は天使の子だとは信じられない!」 ユーグ殿の大きな声が会議室に響きます。 「それに仮にジャン=ステラが天使の子であったとして、それがなぜスタルタスを傷つけなかったことに繋がるというのだ!」
目の前で興奮しているユーグ殿を反面教師にして、私は努めて冷静を保ちます。そして、世界の危機が迫っている事を全員に告げました。
「ユーグ殿、まだお分かりになりませんか? 神がジャン=ステラ様の心が傷つくのを畏れたのは、ジャン=ステラが堕天使になることを、つまり悪魔になることを防いだのですぞ」
ーーーー
あとがき
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●次話:「天から堕つ?」 イルデブラントの独走(暴走?)はどこまで行くのでしょう?
●次々々話は「寂しい横顔」、マティルデお姉ちゃんに視点が移ります。
●歴史小話:うさぎのナナちゃんに任せると長くなってしまうので、今回は真面目口調で失礼します(❁ᴗ͈ˬᴗ͈
1077年の出来事、カノッサの屈辱をご存じでしょうか。皇帝ハインリッヒ4世が教皇グレゴリウス7世に許しを乞う事件です。高校世界史で習った方も多いのではないでしょうか。
この事件における皇帝、教皇以外の主要人物の第一位は、マティルデお姉ちゃんこと、マティルデ・ディ・カノッサになります。事件の名「カノッサ」は、マティルデお姉ちゃんの居城「カノッサ城」に由来します。
そして主要人物の第二位が、今話で登場したユーグ・ド・クリュニーです。彼は皇帝ハインリッヒ4世の代父として調停役を努めているのです。
●前話(天使)の感想に、クリュニー修道院副院長スタルタスについての質問がありました。
ーーー
しかしスタルタスは何故そこまでトリノ辺境伯家を見下していたんでしょう? スタルタスが連れて来ていたクリュニー修道会の騎士が、最初に無礼を働いた事をスタルタスは無礼だとも思ってない感じを受けるし。
ーーー
木花 未散(コノハナ ミチル)様、ありがとうございました!
スタルタスの不審な挙動について、私の回答を転記します。ご興味のある方はお読みください☆彡
◇ ◆ ◇
スタルタスはなぜトリノ辺境伯家を見下していたか。
これ、書いていないんですよね。
本当はクリュニー修道院の事情も書く予定で、地図までアップしていたのです。
しかし、主人公と関係なさそうな話を何話も書くことに気が引けて、というか面白い話になりそうにないため、割愛しました。
簡単にいうと、スタルタスもまた、「舐められたら殺す!」を実践しているに過ぎません。
クリュニー修道会代表、ユーグ・ド・クリュニーとともに、フランス側、スペイン側の王族や大貴族たちに下にも置かない応対を受けてきました。
それが、トリノ辺境伯家にきたら、扱いの悪い事悪い事。
アデライデにしてみれば、預言者だと信じているジャン=ステラの方が上位者なわけです。
決して粗略には扱っているつもりはないものの、自身を副王レベルだと思っているスタルタスにとっては、粗略にすぎる扱いだと、感じたのでしょう。
多分、敬虔なアデライデの事、ジャン=ステラちゃんがいなければ、スタルタスと喧嘩になることはなかったのでしょうね
あと、クリュニー修道院への献上品(小麦)を受け取るつもりで、船を二艘もってきたのに、現物ではなく小麦手形であっった。労力が無駄になった。
同じく小麦手形なので、スタルタスがピンハネできない
護衛騎士の帯剣がゆるされなかった
小さな行き違いも積み重なれば個人的な恨みへと昇華します。
それでも、スタルタスとしては聖職者の体を害する諸侯がいるとは、理解の埒外だった事でしょうね。
ただ、木花様が下記のように感じられたのは、私の描画力がないせいです。今後も精進いたします。
> スタルタスが連れて来ていたクリュニー修道会の騎士が、
> 最初に無礼を働いた事をスタルタスは無礼だとも思ってない感じを受けるし。
滞在中の安全を在地諸侯が担うのは、ある意味当然なので、それを曲げて帯剣を押し通そうとするのは不信の現れになります。
不信を表明しただけで満足とするか、実際に不信を自力救済するかは、スタルタスの心次第となります。
聖職者を害する者がいないと信じているならば、不信の表明だけで事足りるのだと思います。
スタルタスとしては、ちゃんともてなせとのシグナルだったつもりなのでしょう。
しかし、アデライデとしては単なる不信の表明だとは捉えなかったわけです。
無駄に2艘も船をもってきています。当時の船はオールを漕いで進むため、屈強な水夫がたくさんやってきました。
そして、絶対に守らないといけないジャン=ステラちゃんがいます。
アデライデとスタルタスの仲違いも、多くの行き違いの結果だったのです、きっと。
ーーー
追伸:憎まれっ子スタルタスですが、再登場の予定もあります☆ 何か才能がなければ、副院長になれないですよね。
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