第120話 天使

 1063年1月中旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 イルデブラント助祭枢機卿(43才)


 トリノ辺境伯アデライデ様が主宰する大宴会が始まりました。


「乾杯!」

 イシドロス殿の修道院で作られた蒸留ワインが振舞われ、招待客のあげる感嘆の声が私の耳にも届きます。


「おお、これが噂の蒸留ワインか」

「なんと強い香りだ」


 辺境伯家の食卓にふさわしい、とても素晴らしいワインです。しかし、今日は全く味が感じられません。それどころか、胃がきりきりと痛みます。


 教皇の特使として多くの宴会に参加してきたこの身ですが、これほど緊張する宴会は初めてです。


 その元凶はクリュニー修道院副院長のスタルタス殿。私と同じく主賓として招かれているスタルタス殿ですが、不満を隠すことなく、全身で表現しているのです。


「くちゃくちゃ、ぺっ」

 ジャン=ステラ様がお考えになられたカラアゲを手でつかみ、口から不快な音を吐き出し続けています。


 普段の食事なら手づかみで食べていてもだれも文句はいわないでしょう。しかし、トリノ辺境伯家の宴会では、フォークを使って食べるのです。ジャン=ステラ様が主導して、東方教会のある東ローマ帝国の行儀作法を導入したのです。その作法に従うよう、昨日も執事から連絡がありました。


(スタルタス殿、あなたも主賓なのですから、主催者の意向にしたがってフォークを使われてはいかがです?)


 小声で忠告するも、私をちらっと見ただけで、あとは完全に無視を決め込まれてしまいました。


 このようなひどい態度をさらすスタルタス殿ですが、この宴会の主賓として呼ばれた理由は、私にあります。


 昨年12月、私はローマ教皇の特使として、アデライデ様の元を訪れました。小麦価格の高騰に苦しむローマ市民の生活を助けていただくようお願いするためでした。


 アデライデ様の主君である神聖ローマ皇帝家は、アレクサンデル2世を教皇と認めておらず、対立教皇ホノリウス2世を支持しています。そのためアデライデ様は、ローマ教皇アレクサンデル2世を表立って支援することができません。そこで、貧民救済に力をいれているクリュニー修道会を表看板とした、迂回寄付をお願いすることになりました。


 このクリュニー修道会は教皇から特別扱いを受けているのです。教皇おひざ元のローマ市民を救うためならば、クリュニー修道会も積極的に協力してくれるだろうという思惑があったのは事実です。


 しかし、アルベンガにやってきたのは、修道院長ユーグ・ド・クリュニー殿ではなく、副院長のスタルタス殿だったのです。スタルタス殿は一体何を考えて、傲岸不遜な態度を展開しているのでしょうか。私には全く理解できません。



「はーあ」

「アデライデ様、私に何かご不満でもおありかな」


 宴会場に響き渡るアデライデ様の溜息に、スタルタス殿が応戦します。とうとう両者の闘争が始まってしまいました。


 私の見立てでは、どう考えてもスタルタス殿に勝ち目はありません。それにもかかわらず、どうしてスタルタス殿はトリノ辺境伯家に喧嘩をうるのでしょうか。勝ち筋が見えていたりするのでしょうか。


 先ほどより強く胃がきりきりと傷みます。


 もう、私に出来ることは、推移を見守り、そして心の中で祈りを捧げることだけでしょう。

(ジャン=ステラ様、アデライデ様の怒りの矛先が、教皇猊下や私に向かいませんように。アーメン)



 かくして始まった闘争は、スタルタスの発した「破門を申請する」という言葉によって山場を迎えました。


 これがスタルタス殿の考えた勝ち筋だったのでしょうか。しかし甘い考えだとしか言いようがありません。預言者の母を自負するアデライデ様が「破門」に動揺することなどないのです。


「お前は神に対する畏れはないのか!」

 スタルタスの捨て台詞にも、アデライデ様は自信満々の態度を崩しません。


 そして、両者の裁定は神授の聖剣セイデンキに委ねられることになりました。セイデンキの持ち主はジャン=ステラ様なのです。実母を害することなどありえないでしょう。


 ジャン=ステラ様は執事が運んできたセイデンキを高く掲げ、神へと宣誓します。その瞬間、私は第一の奇跡を目にすることになりました。


「これより我は神の代理である」

 その言葉が発されると同時に、ジャン=ステラ様の足元からキラキラッと光が飛び出し、大広間の床に広がったのです。


 雲に隠れていた太陽が、その瞬間に顔をだしたのかもしれません。窓から差し込んだ光がジャン=ステラ様の足元をまず照らし、その後、雲から抜け出した太陽が大広間全体を照したのです。


 しかし、偶然という言葉で片づけるには、ありえないタイミングです。


 ジャン=ステラ様の宣言が耳奥で反響し、頭に直接刺さってきます。

『これより我は神の代理である』『これより我は神の代理……』『これより我は神……』


(ああ、神がこの大広間を、ジャン=ステラ様を見守っておられる)

 それが当然であると、大広間の誰もが理解した事でしょう。


「神にたまわりしセイデンキを用い、神の裁きを下すものなり」


 ジャン=ステラ様の続く言葉に大広間の誰もが神の威光を感じたのです。私もその場にひざまずいて祈りをささげました。



 ◇  ◆  ◇ 



 第二の奇跡はジャン=ステラ様の叫び声から始まりました。それは「ひ・つ・じ」でした。



「「ウオオォォォー!」」

「神に栄光あれ!」

「アデライデ様、ばんざい!」

「ジャン=ステラ様、ばんざい!」

「正義はトリノ辺境伯家にあり!」


 聖剣セイデンキが、アデライデ様の正しさを証明したあと、大広間を雄たけびのような歓声が包み込みました。その喧噪をジャン=ステラ様は「ひつじ」で一喝したのです。


「聞けぃ、迷える子羊たちよ!」

 ジャン=ステラ様の続くお言葉が、我らの心を打ちました。


「罪を憎んで人を憎まず」

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

「神の前に人は皆平等」


 いずれも、神の教えを新しい言葉で説いたもの。ああ、なぜ我らは軽々に破門と口にしただろうか、と贖罪の気持ちが湧きだします。


 ただし何事も例外はあります。ジャン=ステラ様の御心を汲めなかった愚か者の名、それはスタルタスでした。


「異議あり!」

 ふてぶてしくも、ジャン=ステラ様に異議を唱え、口汚く罵り始めるではありませんか。


「こんのクソガキが! 我々に説教するとは何様のつもりだ。

 お前はその身に神を宿したとでもいうのか! 神に対する冒涜だ!」


(スタルタス殿、あなたの方こそ神を冒涜しているのではありませんか)


 異端審問、悪魔の剣といった物騒な言葉がスタルタスの口から出てきます。

 いずれもジャン=ステラ様をおとしめる言葉でした。


 スタルタスの挑発に乗ったのか、ジャン=ステラ様が聖剣セイデンキを手放し、肉切りナイフを手に持ちます。


「おい、スタルタス。神の怒りの次は、僕の怒りをその身に受けてもらおうか!」


(神はお許しになっても、ジャン=ステラ様は許さないという事でしょうか)


 私憤しふんによって、聖職者を罰するのは悪手でしょう。しかも、この場は神が見守っておられるのです。これは身を挺してでもジャン=ステラ様をお止めしなければ!


「ジャン=ステラ様、お待ちください!」


 とっさに声をかけたものの、どうしたものか。良い案が浮かんできません。


 そうですね、まずはジャン=ステラ様の怒りの矛先をスタルタスから逸らさねば。


「ジャン=ステラ様は何にお怒りなのでしょうか」

「何に怒ってるかって? そんなの食べ物のことに決まってるでしょ。テーブル上の料理を見てよ。冷めちゃったじゃない。で、冷めた原因は誰にある? 床に転がるスタルタスでしょ。どこに疑問があるっていうのさ」


「冷めた料理なら、温めなおせばよろしいのでは。あるいは作り直すこともできましょう」


 結果からいうと、火に油を注いでしまいました。


(ああ、わが生涯における痛恨の失敗!)


 ジャン=ステラ様が食べ物にかけるその熱情を見誤っておりました。パンとワインに強いこだわりをみせるクリュニー修道会を上回っているとは、さすがに理解が及びません。


 普段、私が食べている飲み物は、ジャン=ステラ様にとって泥水だとまでおっしゃります。


 もう、我々に出来る事はジャン=ステラ様の独白をただ静かに聞いているだけ。怒りが通りすぎるのを待つだけしかできないのでしょう。


「さらにさらにだよ、イタリアなのにトマトがないじゃん。ドイツがあるのにジャガイモがないじゃん。ピザソースもなければフライドポテトもない。ないない尽くしで、どうやってこの後、生きていけっていうの! それにトマトもジャガイモも地球上にあるんだよ。空を飛べたら1日でトマトもジャガイモも手に入るはずなのに。飛べなくたって、船で1か月かければ新大陸にたどり着けるんだよ。それを今まで、僕が大人になるまでとおもってずっとずっと我慢してきたのに! それにそれに…… もう、いやだ!」


 ジャン=ステラの魂からの叫びが終わり、静寂だけが残りました。


 その時間にジャン=ステラ様のお言葉を脳内で反芻はんすうします。何か引っかかりを覚えたのです。



「空を飛ぶ?」

 だれかのささやき声が耳に届きました。


 当然ですが、人間は空を飛べません。しかし、ジャン=ステラ様は空を飛べるかのような言い方をしていました。そこには「空を飛べたらいいのにな」という単なる願望を超えた意思がありました。


(まさか……)


 ジャン=ステラ様の預言は、前世の記憶でもあるとおっしゃっていました。飛べたというのは前世の事でしょうか。


(空を飛べ、神から預言を託される存在といえば……)

 一つ心当たりがあります。


 声が震えるのを努めて抑えつつ、ジャン=ステラ様にいくつかの質問を投げかけます。


「ジャン=ステラ様は、空を飛べたのですか?」

「そんなの当たり前でしょ?」

「今も飛べるのですか?」

「は? 飛べるわけないじゃない」


 やはり、前世では飛べたようです。


「ジャン=ステラ様がこちらにお産まれになる前、周りに『エル』と名のつく方はおられましたか?」


 天使の多くは、名前の最後に「エル」がつきます。具体的にはミカエル、ガブリエル、ラファエルでしょうか。ご本人の事を聞くのは失礼かと思い、まずは婉曲に周りの方の名前を尋ねました。


 結果は肯定。母と姉の名は、トドエル、ノエル。寡聞にして聞いたことがありませんが、名前がエルで終わる以上、天使で間違いないでしょう。


(私の予想は正しかった)


 ジャン=ステラ様の前世は、神に愛され、かつ空を自由に飛べる存在、すなわち天使だったのです。おお、神よ! ジャン=ステラ様を、天使をこの世に遣わしていただき感謝いたします。


 その事実に興奮し、スタルタスに向いた怒りを逸らすという目的をすっかり忘れていました。さらなる質問が、ジャン=ステラ様の怒りに火をともしてしまったのです。


「邪魔するなっ!」

 ジャン=ステラ様がスタルタスの成敗を決意されてしまいました。


 そして、ナイフを逆手に持ったジャン=ステラ様が歩き出した時、第二の奇跡が始まりました。それは地震でした。


 床が小刻みに揺れ始め、テーブル上の皿が小さな音を奏で始めました。そして、ジャン=ステラ様がナイフを振り下ろした瞬間、地面が大きく振動し、私の体は左右に揺さぶられました。


 ローマではごく稀に地面が揺れるのですが、これほど大きな地震は初めてです。


 もしやこの世の終わりが訪れたのでしょうか。ヨハネ黙示録に記された7つのラッパを吹くのは天使の役目。


(ジャン=ステラ様が第一のラッパを吹く天使だったとしたら……)

 考えるのも憚られる恐ろしい事が脳裏に浮かび、頭からさぁーっと血の気が引きました。手足が痺れ、小刻みに痙攣し、思うように動けません。


 地面が揺さぶられ、大広間の全員が床にへたりんでいる中、ジャン=ステラ様ただお一人が立ち上がり、周りを見渡しています。


 その手に肉切りナイフはなく、ラッパもありません。

(世界の終わりは来なかった。我々は救われたのだ)

 私の直感は、そう告げました。


 どっと汗が吹き出し心臓が早鐘を打つ最中、ジャン=ステラ様の声が耳に届きました。


「スタルタス、命拾いしたな」


 ジャン=ステラ様は、スタルタスを成敗するという私憤を捨てたようです。いえ、ジャン=ステラ様の目は本気でした。


 その本気を押し留めたのがこの地震。ジャン=ステラ様は地震によってスタルタスが助けられたと思ったのでしょう。


 しかし、本当に助かったのは、この世界だったのかもしれません。終末のラッパが鳴らされることはなく、地震は終わりました。


 神はまだ我々をお見捨てにならなかったのです。


ーーーー

あとがき

ーーーー

●次話予告

 イルデブラント視点でみたジャン=ステラちゃんの行動でした。


 次話は「異端審問」

 舞台はローマの教皇庁へと移ります。

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