第116話 それはフォークから始まった

 1063年1月中旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(9才)


「祖父の祖父の代より我がトリノ家に継承されてきた地、ここアルベンガに我らは戻ってきた。その慶事を皆と祝おう。乾杯!」

「「乾杯!」」


 宴会場となった大広間に、お母様の堅苦しい、男言葉な乾杯の音頭が響き、次いで総勢21名の招待客が唱和した。


 そして招待客から、わぁーっと感嘆の声が湧き上がる。

「おお、これが噂の蒸留ワインか」

「なんと強い香りだ」


「ゴホッ。喉が焼けるようだ」

 一気に飲んでむせている人もいるけど、それはご愛嬌。


 お母様と僕は水で薄めた普通のワイン。主催者側が酔っぱらうわけにはいかないもんね。


 どうしてぶどうジュースじゃないのかって? だって冷蔵庫がないんだもの。10月に収穫されるブドウを1月まで保存できないのだ。


 蒸留ワインを楽しんでいる招待客は4つの大テーブルに分かれて座っている。一つ目のテーブルにはお母様、僕、クリュニー修道院・副院長のスタルタス、そして副賓ふくひんイルデブラントの4人がいる。


 細身であるイルデブラントに対して、スタルタスはおデブちゃん。いや、そんなかわいい感じではなく、抜け目のない陰湿な目つきで、ほほがたるんだ豚。このご時世に太っていられるのは、さすが美食のクリュニー修道士だよね。さすがと言っても褒めてないんだから、勘違いしないように。


 残り3つのテーブルはそれぞれ、トリノ辺境伯配下の貴族9名、上位聖職者6名、そして爵位持ちの商人4名の席となっている。


 ーー たった21名の招待客で大宴会?

 少ないように思うけど、お母様が主宰する正餐せいさんに参加できる資格者は多くない。


 ただし、大広間には参加者以外にもたくさんの人が詰めている。壁際には30名くらいの給仕がずらっと並んでいるし、お母様や僕の後ろには6名の護衛が控えている。大広間からは見えないが、閉じられた扉の向こう側には、多数の衛士が守りを固めている事だろう。


 乾杯に続くのは、料理の取り分けである。これは主催者ホストであるお母様が行う儀式である。


 お母様がナイフを使い、子豚の丸焼きを切り分け、お皿に移していく。


 以前、「料理の取り分けなんか、給仕にしてもらえばいいのでは?」とお母様に質問したことがある。


「ジャン=ステラ、それは違いますよ。肉を切り分ける事が主催者ホストあかしなのです。給仕が切り分けたお肉を提供したりしたら、ゲストは軽んじられたと思って憤慨ふんがいしてしまいますよ」


 主催者ホストの権威を象徴するのが、お肉の切り分けに使うナイフである。その権威を給仕に使わせる事なんかあってはならないのだ。


 列席者全員の注目を浴びながらお母様がお肉を丁寧に切り分けて行く間、僕はカトラリーを巡ってお母様に言われた言葉を思い出していた。


「フォークやスプーン、お箸はいいけど、ナイフはだめよ。切り分けるのはホストの役割ですからね」


 お母様の言いたかったのは、宴会場にナイフは主催者ホストの使う1本しか許されないという事だった。そのため、テーブル上にフォークとスプーンが並んでいても、ナイフは置かれていない。


 ナイフがあると便利なんだけどなぁ。でも、そういう事なら仕方ないよね。


 ◇  ◆  ◇


 お肉切り分けが終わった後は、当然お食事ターイム☆彡


 机の上には、お肉料理やスープ、そしてパンなど様々な料理が並んでいる。


 僕の目当ては子豚の丸焼きではなく、白鳥の唐揚げとトンカツ。ウスターソースもしょうゆもないのは残念だけど、シチリアで採れたレモンがある。そしてマヨネーズもある!


 辺境伯家とはいっても、普段はパンとスープだけのいたって質素な食事なのだ。目の前に並ぶような唐揚げやトンカツをいつも食べているわけじゃないから、もうわくわく感がとまりません。


 心の中で「いっただっきまーす♪」と唱えてから、かぷりと唐揚げを口に入れる。


 カリッとした触感の後、肉汁がどばっと口中に展開される至福の時間。


 1つ目はレモンだったから、2つ目はマヨネーズをつけてみよう。


 マヨネーズが唐揚げの香りと味わいを引き立てて、僕の舌を優しく刺激する。

 あぁ、天にも昇る心地ってこの事かな、っていうくらい幸せ♡


 そう、とっても幸せだったのに、不快な音で現実に引き戻されてしまった。


「くちゃくちゃ、ぺっ」

 同じテーブルに座る豚、いや違う。スタルタスが、大きな口を開けたまま料理を咀嚼そしゃくするのが目に入ってきた。ああ、もう。汚いなぁ。口を閉じて食べてよ! それに骨が入っていたからといって、テーブル下に吐き出さないでほしい。


「ごくごく、ぷはぁ」

 ワインが美味しいのはわかるけど、飲んだ後にぷはぁって息を吐き出さないでよ。もっと上品に飲めないものかなぁ。


「くっちゃ、くっちゃ」

 ねえ、せっかくフォークがあるのに、どうして手づかみで食べちゃうの?


 同じテーブルのお母様やイルデブラントはフォークを使ってお肉を口に運んでいる。他のテーブルの列席者達の方を見ても全員フォークを使っており、手づかみで食べている人はいない。


 辺境伯家の宴席では、フォークとスプーンを利用すると事前に伝えていたはず。前日夜には使い方のレクチャーまで行ったと、お母様の執事は言っていた。つまりスタルタスはわざとフォークを使わず、手づかみで食べているという事になる。


 もしかするとスタルタスは見た目だけじゃなくて、心も食いしん坊の豚なのだろうか。ブーブー、ぶたぶた。食器から直接食べちゃうスタルタス、犬食いならぬ、豚食いってやつ? 


 くっちゃくっちゃと食べるスタルタスを見ていたら、食欲がなくなってしまったよ。あーあ、折角の料理が台無しだね。


「はーあぁ」

 僕が思わずこぼした溜息の音は、思ったよりも大きかったらしく、スタルタスが「ぎりっ!」と僕をにらみつけてきた。


 くわばらくわばら。触らぬ神に祟りなし。おかしな人に関わっちゃだめだからと、僕はそっと目線を外した。


 目線を外した僕の判断は間違ってなかったと思う。前日からひと悶着もんちゃくあったとはいえ、主賓のスタルタスに恥をかかせようとは別に思っていないもの。食欲は失せちゃったけど、寛容さまで失っちゃだめだよね。


 しかし、スタルタスが僕に向けた敵意をお母様は見逃さなかった。

 これ見よがしの溜息をお母様がついた。


「はーあ」

 ただし、その溜息の音は宴会場に響き渡ったから、もうそれって溜息レベルじゃない。結果的に、これが開戦の合図となった。


 緊張の空気に支配された宴会場において、列席者の視線が僕たちのテーブルへと釘付けになる。


「アデライデ様、私に何かご不満でもおありかな」

 僕からお母様へと視線をうつしたスタルタスが、鋭い眼光のまま詰問の言葉を発する。


「いえいえ、とんでもございませんわ、スタルタス様。豚が道具を使えなくても、それを叱るのはこくというもの。そのぐらいの寛容さは持ち合わせておりましてよ」


 一方のお母様も負けてはいない。嘲笑ちょうしょうするような言葉をつむぎだし、スタルタスを挑発する。


「ほう、そうですな。農民が畑で使うフォーク熊手机上きじょうに並べる不調法を許す寛容さを持ち合わせておりますとも」


 負けじとスタルタスも言い返す。左手であごをでつつ首を振る仕草が僕たちを馬鹿にしているようで、なんかムカつく。


「あらあら、東ローマ帝国の皇帝家でも食事にフォークを使っている事をご存じない、と。クリュニー修道会は美食を誇ると聞いていましたが、フランスの片田舎にまでは文化の香りが届いていないようですわね」


「その田舎者に、教皇へのとりなしを頼んだのはどこのどなたでしたかな。皇帝家の実権を握ったアンノ大司教の動きは、アデライデ様が馬鹿にしたこの田舎者の耳にまで届いているのですぞ。このままで良いとお思いかな」


 スタルタスは見下す視線でお母様と僕を睨み、威圧してくる。


 アンノ大司教は、神聖ローマ皇帝家の重臣である。その重臣アンノは昨年、皇帝家の実権をえげつない方法で掌握した。主君である12歳のハインリッヒ4世を誘拐し、皇太后アグネスから摂政の座を奪ったのだ。


 方法はさておき、大司教アンノは従来の方針を急転換し、教皇アレクサンデルを支持すると打ち出した。そのような情勢下、トリノ辺境伯家は小麦手形をクリュニー修道会を通して教皇に寄進するのだ。表向きはトリノ辺境伯家が尻尾を振っているように見えなくもない。


 だからスタルタスは、トリノ辺境伯家が教皇にすり寄るためにクリュニー修道会をもてなしていると思い込んだのだろう。そうでも考えなければ、スタルタスの強気さが理解できない。


「このままでは時勢に取り残され、ついては攻め滅ぼされるぞ」と、スタルタスはお母様を脅しているのだ。それが嫌なら、馬鹿にしたことを謝れ。ついで、俺を下にも置かぬ扱いでもてなせ、くらいまでは含意しているのだろう。


(自分が優位に立っていると思っているから、スタルタスはこうも強気だったんだね。しかし、その認識は甘すぎないかな。お母様のモット―は、「舐められたら殺せ」なんだよ)


 やはりと言うべきか、お母様はスタルタスの脅しを、ふんっと鼻息一つでり飛ばした。


「アンノ様が皇帝家の実権を握られた、と。それがどうかしましたか。どなたが教皇になられようとトリノ辺境伯家のあずかり知らぬこと。それは、ここにおられるイルデブラント様もよくご存じのはず」


 トリノ辺境伯としては、主君である皇帝家の方針に従うだけである。ハインリッヒ4世の婚約者は姉ベルタだから、トリノ辺境伯家は皇帝家の外戚なのだ。アンノなどというポッと出の重臣なんてどうでもいい。それに、主君を誘拐するという強引な手を使って権力を奪ったのだ。ハインリッヒ4世が親政を開始したら、自分を誘拐した家臣であるアンノを許しておくとも思えない。


「ほう、さすがはトリノ辺境伯のアデライデ様。強気でございますなあ」

 にちゃぁと粘着質な笑顔でスタルタスが見下し、自らの優位性を主張してくる。

「しかし、私に対するこの仕打ち、神とクリュニー修道会が黙って見ているとお思いか? ローマ教皇から直接保護を受けているクリュニー修道院への冒涜ぼうとくは、すなわちローマ教皇と神に対する冒涜ぼうとく。アデライデ様の立場を悪くするだけでしょう。下手をすると教皇から破門されるかもしれませぬぞ」


 おいおい、神の名まで出しちゃったよ。クリュニー修道会の内部では神へのおそれは切り札となるワードなのかもしれないけど、外では通用するとは限らないよ? 


 神の名を出したら、誰もがひれ伏す環境で生きてきたんだろうね。男爵や小領の伯爵くらいなら、クリュニー修道会の名にビビッて、言う事を聞いちゃうのかも。そのためスタルタスは、貴族がもつ武力の怖さをこれまで味わってこなかったんだろうなぁ。同じテーブルのイルデブラントも「信じられないものを見た」とばかりに目を見開いている。



「ほう、私が破門されると。それは恐ろしいことですねぇ。で?」

 感情の抜け落ちたお母様の声が耳奥に響く。


 怖くてお母様の方に視線を向けられないよぉ。ぜったい怒ってる。神の名前を出したら無条件で屈服するって舐められたと思ってるね、これは。


「ほほぅ、アデライデ様はまこと破門されるとは思っていないようですな。ではさっそく、私、スタルタスの名において教皇猊下にアデライデ様の破門を申請することといたしましょう。クリュニー修道会配下の修道院は100を超えているのです。教皇猊下もクリュニー会の申し出をむげに断ることなどしないでしょう。ふぉふぉふぉ」


 勝ち誇ったように笑うスタルタスを、お母様が冷たい目で見つめている。


「スタルタス様、いえ、スタルタス。クリュニー修道会からトリノ辺境伯家への宣戦布告、たしかに受けとりました」

「な、なにをおっしゃる。私が宣戦布告したですと?」


 スタルタスの声がうわずってる。思った通りに事が運ばなくて動揺している。


 破門を口にしただけで、お母様が屈服すると高をくくっていたのなら、それは甘い。むしろ火に油を注いでしまっている。


 僕の事を預言者だと信じているお母様が、教皇ならともかく、スタルタスごときの脅迫に折れるわけないじゃない。当然でしょ。ほら、みてよ。お母様ったら絶対零度の笑みでスタルタスを見下してる。


「いまさら何をいっているのです。あなたはクリュニー修道会を代表してここにいるのでしょう。教皇猊下でもないのに私を破門する? 笑止なことを。よもや、生きて帰れるとは思っていないでしょうね」

「な、私を殺すとでも! そのような事をしたら神罰が下りますぞ!」


 一方のスタルタスからは余裕が完全に消えうせ、神の名をつかって悪あがきをする。


「なるほど、なるほど。神罰ですか」

「そ、そうだ。お前は神に対する畏れはないのか!」


 お母様は「神罰」と聞き、首をかしげてすこし考え込んだ。それを見たスタルタスは勝機を見出したのか、語気を強めてお母様を責め立てる。


「もちろん、ありますとも」

「であれば…」

「おだまり! 神を敬うからこそ、神の名をかたってみだりに神罰を唱える愚物を生かしておく必要はないでしょう。しかし、私に面と向かって暴言をいた勇気に免じ、神に祈るチャンスをあげましょう」


 スタルタスの言葉を一喝したお母様は、執事に指示を飛ばす。


「神授の聖剣セイデンキをここに持ってきなさい」

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