第106話 使命と試練と迎え酒

 1062年12月上旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)


 お母様と一緒に食べる朝ごはん。焼きたてのフォカッチャから白い湯気ゆげが立ち込めていて、とっても美味しそう。じゅるってよだれが出てきそうになっちゃう。


 ちなみにフォカッチャというのは、具の載っていないピザ生地みたいなもの。ただし、生地にはオリーブオイルがたっぷり練りこまれてるから、とっても美味しいんだよ。


 今朝は離宮で飼っているにわとり達が卵を産まなかったみたいで、朝ごはんの食べ物はフォカッチャだけ。他には陶器製のコップが2つ、机の上においてある。


 おなかの減った僕は早く食べたい。しかし、親子であろうと、ホストであるお母様の許可なしに僕が食べ始めるわけにはいかないのだ。


 机の向こう側に座るお母様はやっぱり調子悪いみたい。いつもの溌溂はつらつとした雰囲気が影をひそめ、ぼーっとしている。普段はピーンと伸びている背筋がまがり、体がすこし前かがみになっている。目もトローンとして、とてもだるそう。


「お母様、大丈夫? 体がだるくて、頭が痛いのではありませんか?」

「あら、ジャン=ステラはお酒を飲まないのによくわかるわね。おなかの辺りがムカムカしてて食欲もないから、私に構わず食べ始めていいわよ」

「それじゃあ、お先に頂きますね」


 僕は侍女のリータにお願いし、コップに白湯を注いでもらう。生水を飲むような恐ろしい事はできないからね。一度沸騰させた湯冷まししか僕は飲まないのだ。


「お母様も白湯をいかがですか? 何か飲んだ方が早く治りますよ」


 お母様のコップには飲み物がまだ入っていない。フォカッチャは食べられなくても、飲むのは大丈夫だろう。それに、二日酔いを治すためにもお水を飲んだ方がいい。


 お母様は視線をゆっくりと僕に合わせたあと、小さな声で答えてくれる。大きな声を出すのもしんどいのだろう。


「そうねぇ。じゃあ、ワインを貰えるかしら」


 ちょっと待って!それって迎え酒だから!


「お母様!二日酔いなのにお酒飲んだらだめですってば!」


 たしかにお母様に飲み物をお奨めしたよ。しかし、よりによってワインはダメでしょう。ついつい大きな声で突っ込みを入れてしまった。


「ジャ、ジャン=ステラ。お願い大きな声を出さないで。頭に響くのよ」


 お母様が弱々しい声で僕にお願いしてくる。そして、お母様なりにワインを飲む理由を教えてくれる。


「それにね、二日酔いの時にワインを飲むと頭痛が軽くなるのよ。お酒を飲まないジャン=ステラには分からないわよね」


 ふふふっとお母様は笑った。ジャン=ステラにも知らない事は沢山あるのですよ、と目が語っている。


 ちっがーう! 迎え酒しても全く良くならないんだから。アルコールで痛みを忘れているだけで、二日酔いが長引くだけなの。


 お酒のアルコールが分解されてアセトアルデヒドになる。そのアルデヒドが体に悪さするから体調が悪くなるんだよ。迎え酒しても結果的にアセトアルデヒドが増えるだけ。ってお母様にどう説明すればいいの!


 化学の知識もなしに、アルコールの分解ってどう説明すりゃいい?そもそもアセトアルデヒドって何なのか僕もよくわかってない。化学式なんてとっくの昔に忘れちゃったよ。


「あのね、お母様。ワインを飲んだら二日酔いになるでしょう? 今飲んだらちょっとの間だけ頭痛はよくなるかもしれないけど、調子悪い時間が長くなるんだけなんですよ。だからワイン飲んじゃだめっ」


 両手の人差し指でバッテンを作り、口の前に持っていき、ワインを飲まないようお母様に訴えた。


「あらあら。ジャン=ステラにこれほど心配してもらえるなんて嬉しいわ。そうね、今回はジャン=ステラの言葉に従うことにするわ。リータ、私にも白湯をちょうだい」


 ◇  ◆  ◇


 ドタバタの朝ごはんが終われば、次は謁見式の打ち合わせ。カポルーチェのっぽトポカルボちびの2人を公式に家臣とするための儀式がひかえている。


 儀式の事はぜーんぶお母様にお任せしちゃう。僕は摂政見習いとして、お母様の横に控えているだけ。しかし、彼らへの褒美については事前に打ち合わせおく必要がある。


「蒸留ワインやトリートメント、その他トリノ辺境伯の特産品の優先的な取り扱いねぇ。ずいぶんと奮発したものですね」

「ですが、理由はあるのですよ」


 お母様が非難がましく目を細め、僕の方を見た。


 たしかに、大盤振る舞いしていると、僕も思う。だけど僕にも言い分がある。「まず隗より始めよ」について説明し、上手くいったら他の町もトリノ辺境伯家に帰順するかもしれないという見通しをお母様に語った。


「本当に、そんなに上手くいくものかしら? 商人のどちらかに煽てられたのではありませんか?」

「うぐっ」


 お母様は眼光鋭く、僕の事を見てくる。子供を見守る母の目から、大領を統治する為政者の厳しい目線ってやつだろう。


 それにしても、さっきまでの弱々しい目つきはどこへ行っちゃったのかな。こんな事なら朝食にワインを飲んでもらってた方がよかったかも。ふぅって溜息つきそうになる。


 大盤振る舞いした理由の一つには、トポカルボちびがゴマすりした事も含まれる。しかし、最終的に決断したのは、僕なのだ。大丈夫、ちゃんと自信をもって説明すれば、お母様も分かってくれる。


「そんな事はありませんよ。それに上手くいかなくてもいいのです。だって僕の目的は新大陸ですから」


 カポルーチェのっぽトポカルボちびに新大陸の事は教えていない。しかし、お母様はヨーロッパのはるか西側に新大陸がある事を知っている。まずはイタリア半島から地中海を抜け、大西洋へと至る航路を手に入れるためだと言ったら、お母様も納得してくれた。


「そうでした。ヨーロッパにない野菜を手にいれるため、西へ西へと進む。それが神に与えられたあなたの使命でしたね」


 え? 使命? 神に与えられた? なんで?


「お母様、神に与えられた使命って何ですか? いつの間に僕、神から使命を与えられたの?」

「神に預言を与えられ、新大陸から野菜を持ち帰るのでしょう? 逆に問いますが、使命でなければ、何なのです。もしや、神が与えし試練なのですか」


 ありゃりゃ? お母様の中で新大陸発見が、使命から試練に変わっちゃった。そもそも使命と試練の違いってなんだっけ。たしかアイモーネお兄ちゃんに以前説明してもらった気がする。


 小首を傾げつつ、アイモーネお兄ちゃんの神学講座を思い出す。


『使命を果たすために、乗り越えないといけない壁が試練なのです』


 懐かしいアイモーネお兄ちゃんの声が僕の頭の中で再生された。お兄ちゃん、元気にしているかなぁ。


 それはさておき、簡単にいうと使命は目的で、試練は手段。僕の目的は、じゃがマヨコーンピザを食べる事。ということは、新大陸発見は目的じゃない。つまり、試練になるのかな? 


「うーん、多分試練?ってことになるんだと思いますけど……」

「ずいぶんと歯切れが悪いわねぇ。どうしたの?」


 新大陸発見が試練と言われれば、そうかもしれない。しかし、じゃがマヨコーンピザを食べることが、神から与えられた僕の使命で本当にいいのかなぁ。食べたいのは僕だから、神から与えられたわけじゃないと思うのだ。そこの所、どうなってるんだろう?


「新大陸発見が試練だとしたら、僕の使命って、美味しい料理が食べたいって事になりませんか。それが神から与えられた使命なのでしょうか? なんだか単なる僕のわがままじゃないかなって」


「神の思し召しを正しく理解できる人間なんていないわよ。あなたも旧約聖書を読んでいるのなら知っているでしょ?」

「まぁ、そうですけど……」


 たしかに旧約聖書の神はひどい。一言で表すなら、やっぱり非道ひどい。一例を挙げるならヨブ記だろうか。


 ーーー

 昔むかーし、ヨブというお金持ちで子だくさんのおじさんがいて、幸せに暮らしてました。


 サタンが神に言いました。

「ヨブは神を深く信仰してるが、それは表面だけさ。不幸になったら神を恨むぜ」

「そんな事はない。俺はヨブを信じる」と神はサタンに答えたからさぁ大変。

 サタン:「じゃあ、試してOK?」

 神:  「ええでぇ」


 ヨブはサタンによって子供を全員殺され、財産を奪われ、病気にされちゃたのです。しかし、ヨブは信仰を捨てなかったので、神はサタンに勝ちました。めでたしめでたし。

 ーーー

 どこがめでたしやねんっちゅうの! ヨブさん、可哀想すぎっ。それ以上に、ヨブさんの子供、可哀想すぎでしょう。


 まぁ、神が与える試練って理不尽なものだって事を如実に表す逸話だよね。


 そんな聖書の話はさておき、お母様の中で僕の使命は「じゃがマヨコーンピザを食べること」に決定したらしい。いやぁ、神様って食いしん坊だったんですねぇ。


 ははは、と乾いた笑いが執務室に響くのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る