第100話 意図せぬ経済戦争(4)ローマ教皇後編

  1062年12月上旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)



 教皇の特使としてアルベンガ離宮を訪れたイルデブラントの会合で、小麦の手形が悪さをしていた事を教えられた。


 まだ小麦と引き換えてもいないのになぁ。

 なんだか納得いかないけれど、小麦の狂乱物価が起きてしまった事はしかたない。


 イルデブラント、お母様、そして僕の3人の間に流れていた沈黙のとばりを破ったのは、お母様だった。


「起きてしまったことは仕方ないわね。別に私としては、商人がどうなろうと知ったことではないのですが、小麦の高騰が続くようだと教皇猊下はお困りになるのですよね」


 にっこりとほほ笑みながらお母様が明るい声でイルデブラントに言う。


 小麦の値段が上がったからといって、だからどうした。商人が困ろうが私には関係ない。さらには政治的に対立している教皇が困ることは、すなわち皇帝家やトリノ辺境伯家のメリットだともいえる。


 それに対するイルデブラントの答えはこうだ。

「ええ、いくら商人が困ろうとも自業自得だと、教皇猊下も私も思っています」


 キリスト教はお金儲けに寛容ではない。これは次に記す新約聖書の一節にも現れている。


『富める者が天国にはいるのは、難しい。

 それに比べれば、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい 』


 お金儲けは悪徳だと僕に教えてくれたのは従兄いとこのアイモーネお兄ちゃんだった。今はアルプスのフランス側ベレーの司祭をしているはず。元気しているかな。


 お母様とイルデブラントの見解は、商人を切って捨てている所までは同じだが、それ以降は異なる。語調をすこし強めてイルデブラントが続きを話していく。


「しかし、貧しい民や幼子が飢えることは憂慮すべきことではございませんか。敬虔なキリスト教徒であるアデライデ様はキリストの復活祭前に断食されているかと思います。つまりは空腹の苦しみをご存じないとは思えないのです。教皇猊下のためではなく、貧しきもののためにジャン=ステラ様、アデライデ様のお慈悲を賜ることはできないものでしょうか」


 現代で断食と言えばイスラム教徒のラマダンが有名である。日の出から日没まで飲んだり食べたりが禁じられる宗教儀式である。これに似た習慣が実はキリスト教にもあるのだ。


 十字架にかけられ死亡したキリストが3日目に復活した。この奇跡を祝う復活祭(イースター)というお祭りが4月頃にある。このお祭り前の40日間、キリスト教の大人は断食をすることになっている。


 キリスト教にも断食があるとは転生するまで全然しらなかったよ。キリスト教国であるアメリカ人を見ていても断食しているようには見えないんだもの。


「ええ、そうね。空腹は辛いですものね。しかし、だからといって貧民を助けることに普通は繋がりませんわよ。貴族が戦争で亡くなるのと同じで、民が飢えて死ぬのは当然の事ではございませんか。せいあるものにとって死はありふれたこと。そうではありませんか」


「アデライデ様のおっしゃることは真にごもっともです。我々教会も、死は滅びではなく、神の御許である天にされることだと日々教えております。しかし、今回は不作からの飢えではございません。救いの手を差し伸べられるものなら、なんとかしたいと考えるのは間違っておりましょうや」


「いいえ、そのこころざしは素晴らしいものだと思いますわ。しかし、それは貴族である教皇アレクサンデル猊下のお考えなのかしら。教皇といえども、貴族出身者が貧民の事を気にかけるなどにわかには信じられないのですよ」


 お母様は首を振ったあと、イルデブラントの目をじっとのぞき込んでいる。


「いえ、そんな事はありません。教皇猊下は……」


 一方、お母様の視線に気づいたイルデブラントは言葉を途中で詰まらせた。


 お互いの心のうちを探ろうとするお母様とイルデブラントの静かなにらみ合い。先に音を上げたのはイルデブラントであった。


 イルデブラントはお母様から目線を外し、ふうと溜息をついた。


「アデライデ様にはかないませんね。アデライデ様に寄進をお願いする案を考えたのは私です。しかし、一言付け加えさせてください。教皇猊下もこの案に納得はされているのですよ。その証拠が、漁をする聖ペトロの封印を施した書状なのです」


「やはり、イルデブラント様の発案だったのですね。さすがクリュニー会の薫陶を受けた元修道士と言うべきかしら」

 ふふふ、とお母様が上品に微笑んだ。


 クリュニー会というのは、フランスのクリュニーを拠点とする修道院の一大会派である。所属する修道院は100を超え、修道士も2000人を上回ると教えてもらった。このクリュニー会は皇帝・王・貴族が教会に関わることを忌避きひする一方、貧民救済に力を入れている。貧民出身のイルデブラントにとっては魅力的な教えだったことであろう。お母様は、イルデブラントの出自とクリュニー会との関係を知っており、小麦の寄進の発案者が教皇ではなくイルデブラントだと見抜いたみたいだ。


「ご慧眼、恐れ入ります。私自身が貧しい出自であることを卑下するつもりはありませんが、その苦しかった暮らしぶりを未だ覚えております。キリストの教えに従い、少しでも彼らの暮らしぶりに貢献できればいい。そう思い教皇に直訴した結果が、今回の特使なのです」


「私の政治的立場では、教皇アレクサンデル猊下に直接寄進することは難しいのです。しかし……」

 そこでお母様は言葉を区切った。イルデブラントはお母様をジッと見つめ、次の言葉を待っている。


「イルデブラント様、あなたを支持することならできますわ」

「と言われますと?」


「そうですね。クリュニー修道会を通しての寄進ならいかがでしょう。寄進した後なら、小麦がローマに流れても、それは言い訳が立ちますものね」

「ありがとうございます。これでローマの貧民も救われるでしょう」


 イルデブラントがお母様に礼を述べる。その言葉が終わるのを待っていたお母様が寄進の条件を話した。


「これでイルデブラント様の顔も立つことでしょう。ただし、私どもにも利益があるよう取り計っていただきたいものですわ」

「それはもちろんですとも。して、どのようなことをお望みでしょうか」

「一つ目はジャン=ステラのことです」


 そういってお母様は僕の方を見た。ついでイルデブラントの視線も僕に向く。


 え、僕? 2人の視線をまともに受けた僕はキョロキョロと2人の顔を交互に眺めた。


「ジャン=ステラ様のことですか?」

「セイデンキのことは聞き及んでいるかと思います」

「はい、もちろんですとも。神より授かりし聖剣のことはローマでも噂になっております」

「では、当然ですが異端審問官が動いていることもご存知ですよね」

「……」


 異端審問官という言葉を聞いたイルデブラントから表情が消え失せた。


「教皇猊下の周りにそのようなお方がおられると聞き及んでいます。神の怒りを自在にあやつるなど不遜極まりないと主張されているのですよね」

「……」

「その方は、イルデブラント様、あなたの政敵だとか」

「……」


 にっこりと微笑むお母様に対し、沈黙を続けるイルデブラント。


「まぁ。そんなに警戒なさらなくてもよろしいのですよ。イルデブラント様がジャン=ステラを擁護する側に回っていることは聞き及んでおります。一つ目のお願いというのは簡単なことです。失脚をなさらないでくださいね。そのために今後も影ながら応援いたします」


「……その程度でよろしければ。私も失脚したくはありませんからね」


 警戒していることを露わにしつつ、イルデブラントが硬い声色で、しかし微笑みを作って返答した。


 イルデブラントの政敵は昔ながらの聖職者らしい。神父の妻帯をよしとし、聖職売買によって財産を築いているのだとか。クリュニー会の理念を実現するためにも失脚するわけにいかないだろう。後ほどお母様が教えてくれた。


「ええ、こちらとしてもこのような形でイルデブラント様とご縁ができて嬉しいかぎりです。2つめの条件についてお話ししてもよろしいかしら」

 にっこりわらったお母様が2つ目の条件を切り出そうとする。それに対し、イルデブラントは無言で首を縦に振り、お母様に先を促した。


「そんなに警戒なさらなくてもよろしくてよ、イルデブラント様」

 コロコロとお母様が、イルデブラントに笑いかける。


 えー、お母様。そんな風に言われたら逆に警戒しちゃいますよ。逆効果ですって。そんな僕の思いとは裏腹に、お母様はにこやかに先を続ける


「簡単なことですわ。小麦を寄進するのではなく、小麦手形を寄進したいと思うのです」


 ん? どういうことなのかな。教皇が求めているのは小麦の寄進だったはずだよね。わざわざ2つ目の条件として小麦手形のことを持ち出すような意味があるのかしら。


 意図がわからないのは僕だけなのかな、と思いイルデブラントの方を見た。しかしイルデブラントもわからないらしい。少し首を傾げてお母様の次の言葉を待っている。


 そんなイルデブラントを気にすることなく、お母さまが僕に話しかけてくる。

「あら、ジャン=ステラも分からないのかしら?」


 え、ここで僕に話をふってくるの?


「お母様、僕にもわかりません。小麦手形を寄進しても、手形で引き換えた小麦を渡しても同じことではないのですか?」

「いいえ、全く違うのですよ、ジャン=ステラ」


 お母様がイルデブラントと僕に説明してくれた。


 僕たちの手元にたくさんの手形がある。しかし、本当に手形が小麦と引き換えられるかというと心もとないらしい。小麦が高騰しているのもあるが、商人が引き換えを拒否してくる可能性があるのだとか。


「辺境伯相手に対抗できる商人がいるのですか?」


 という疑問にお母様が答えてくれた。


「ここアルベンガ離宮にほど近いサボナならトリノ辺境伯家に対抗することはできないでしょうね」

 手形を引き換えないという不義理をしたら、攻め滅ぼされますもの、と事もなげにお母様は言う。


「ですが、ジェノバやピサ、フィレンツェならどうでしょう。ジェノバの城壁は堅固ですし、ピサやフィレンツェはトスカーナ辺境伯領です」

 トリノ辺境伯の軍事力をもってしても強要することはできないのが現実である。ままならないものよね、とお母様がすこし残念そうな口調で告げてくる。


「そこで、教皇猊下の出番なのです。手形を小麦、あるいは等価な品物との交換を教皇猊下が歓迎するという形をとれば、商人たちも無下むげに断れない、そう思いませんか?」


 満面の笑みのお母様に対して、イルデブラントは顔が引きっていた。お母様をすごいと誉めるべきか、がめついと嘆くべきか。ま、僕にとってはどっちでもいいや。


 教会が手形の引き換えを手伝ってくれる事で円滑に事が進むというなら、悪い事ではないだろう。


 話し合いを進めた結果、手形を引き換える事で得られる小麦や品物の10%をクリュニー会に寄進することになった。10%というのはいわゆる「10分の1税」というやつ。収入の10%を教会に寄進しましょうというキリストの教えに基づく。これによって、皇帝家からの追求をかわすのだとか。


 同じ目的で皇帝家にも10%分をお裾分けして批判を封じ込める。そして5%をイルデブラントの取り分ということで合意がとれた。ただしイルデブラントの5%は表に出さない裏金とすることもあわせて決められた。5%はさすがに多すぎると、イルデブラントは最初、固辞していた。しかし、ぱぱっと寄進しちゃえばいいのよ、とお母様に諭され、最終的には受け取る事になった。教皇の側近が僕の味方になってくれるのなら、5%の賄賂くらい安い買い物なのだろう。


 そしてここが一番重要なこと。一月に開催するアルベンガ離宮の大宴会に手形の商人たちを招く事になった。もちろん単に招くわけではない。イルデブラントが宴会の場において、手形の10分の1が教会に寄進される事を明らかにする。原資を提供する商人に謝意を述べる事により、手形を引き換えざるを得ない状況へと持ち込むのだとか。お母様とイルデブラントは結構ノリノリで計画を練っていた。


 トリノ辺境伯を敵に回すことはできても、宗教は敵に回せないよね。退路を断たれた商人たちはどうするんだろう、と他人事ながら僕は心配するよ。


 ちなみに、商人たちに謝意を述べるというお母様の提案をイルデブラントは嫌がるかと僕は思っていた。しかしお金儲けに邁進する商人を快く思っていなかったらしく、イルデブラントは2つ返事で引き受けていた。


 ローマ市中から小麦がなくなったのも商人のせいだもんね。きっとイルデブラントも鬱憤がたまっていたんだろうな。


 商人たちの未来に幸あらんことを、僕は願っておこうと思います。



 ーーー

 あとがき


 皆様のお陰様で無事100話目を掲載することができました。


 予定ではあと50話~100話で第一部「新大陸」が終わります。ずいぶん幅が広いのは、主人公周りの人物をどこまで深掘りするかに関わるからですが、そこまでお付き合いいただけましたら幸いです。


 ちなみに第二部は「神聖でありローマでもある帝国(仮題)」を構想しています。ヴォルテールの神聖ローマ帝国評「神聖でもなければローマでもなく、そもそも帝国でもない」を意識したものであることは世界史好きな方にはピンときたかとおもいます。


 それはさておきまずは第一部を完結させたいと思います。つきましては皆様にお願いがあります。まだフォローされていない方、評価の星を押されていない方がおられましたら、100話目のご祝儀としてぜひ評価いただきますようお願いいたします。著者のやる気に繋がりますので、続きを読みたいと少しでも思われる方はぜひぜひお願いいたします。

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