第99話 意図せぬ経済戦争(4)ローマ教皇前編

 1062年12月上旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)


「今日の服もとっても素敵ですね。お母様の雰囲気にとっても似合ってます」

「うふふ、ありがとうジャン=ステラ」


 昨日の午後、ローマ教皇からの特使がアルベンガ離宮に到着した。今日はその特使と会うため、お母様と一緒におめかし中。白を基調としたブリオーの服を着ている。ブリオーというのはワンピースの一種で、中世版チュニックといえばなんとなく想像がつくかな。


 お母様のブリオーは床丈のワンピースドレス。腕を振る動作が優雅に見えるよう、振袖ふりそでみたいに袖口が長くなっている。お母様はウエストを紐でしばり、腰骨にベルトを巻くことで腰が細く見えるよう着こなしている。栗色の長い髪と相まってお姫様みたいに素敵。


 僕のブリオーはふくらはぎ丈。男性用ブリオーの袖口は広がっていないけど、その代わり袖口や首回りに金の刺繍がほどこされている。ブリオーに隠れて見えないけど、僕はズボンもはいている。男の子だから着ているのがワンピースだけってのはちょっと恥ずかしいものね。


「会見の準備が整いました」

 お母様の侍女が、会見の場所で特使が待っていることを告げに来たのを合図に、僕たちも会見場へと向かうことにする。


「ジャン=ステラ様、アデライデ様。ご無沙汰しております。イルデブラントでございます。本日は御尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます。本日はローマ教皇からの特使として参りました」


 会見場で待っていたのは助祭枢機卿のイルデブラントである。誰が特使なのかは昨日教えてもらっていたけど、顔を合わせるのは今日が初めて。旅の汚れを落とし、貴人に会うための準備を整えるのに時間がかかるのだって。うん、貴族ってめんどくさいね。あ、僕たちもおめかしに時間をかけてたんだった。


「イルデブラント様、お久しぶりにございます。以前トリノでお会いになって以降、さまざまな事がありましたが、御身にお変わりありませんか。」

 お母様が堅苦しい挨拶をイルデブラントと交わしている横で、僕はニコニコと笑みを浮かべて座っているだけ。


「ジャン=ステラ、あなたも知っているわよね。さまざまな事情により教皇猊下とトリノ辺境伯家は仲がよろしくないの。ですから、あなたは同席するだけで、話してはだめよ」

 事前にお母様から念を押されているから仕方ない。けっして僕が 「やっほー。お久しぶりぃ。元気してた~」とか明るく、けど不躾に挨拶することをお母様が警戒したわけではないのだ。


 実のところ、神聖ローマ帝国の皇帝家とローマ教皇との関係は冷え切っている。当然、次期皇帝ハインリッヒ4世に嫁を送りだしているトリノ辺境伯家との関係も冷めたものにならざるを得ない。


 その原因が、お母様の言葉にある「さまざまな事情」であり、具体的には教皇の位を巡る争いになる。


 イルデブラントがトリノを訪れたのは1057年。もう5年も前になる。その時の教皇はステファヌス9世だったのだが、その5年間でニコラス2世、アレクサンデル2世と代替わりしている。この2回の代替わりはいずれも順調なものではなく、それぞれ対立教皇ベネディクト10世及び、ホノリウス2世と争い、その勝者が教皇位を継承した。


 問題は、誰がどちらの教皇候補に加勢したか、という点にある。


 勝者となったニコラス2世、アレクサンデル2世に加勢し軍隊も動員したのが、トスカーナ辺境伯ゴットフリート3世。一方、敗者であるベネディクト10世とホノリウス2世に加勢したのが皇帝家だったのである。面子を潰された形となった皇帝家としては、現教皇アレクサンデル2世と仲良くすることは出来ず、冷戦状態が今も続いている。


 そのような間柄にもかかわらず、教皇の特使がお母様の元に訪れたのだ。警戒するに越したことはない。


 時候の挨拶のような前話が終わった後、ようやくイルデブラントが本題を切り出した。


「こちらが教皇猊下からの書状となります。お受け取りください」


 くるくると丸められた羊皮紙を受けとったお母様は、手早く封緘の印影を確認する。

「漁をする聖ペトロの印、たしかに確認いたしました」


 教皇の印といえば、漁師の指輪の印影を指す。これはイエス・キリストの最初の弟子であり、初代ローマ教皇となった聖ペトロの職業が漁師だったことに由来する。この逸話を知っていればローマ教皇からの書状であることが一目でわかるのだ。


 印影を確認したお母様は羊皮紙の印蝋を開き、書状を読む。読み進めるうちに、お母様の顔が苦虫を噛み潰したように歪んでいく。不愉快な内容だったのだろう。そして僕に書状を渡してくれた。


「ジャン=ステラ、あなたも読みなさい。あなたの考えを聞かせてほしいわ」


 あれれ? 僕には黙っておくように言っていませんでしたか?まったく、すぐに言うことが変わるんだから。


 そういう愚痴はこぼさないよう、素直に「はい、お母様」と返事をし、受け取った書状を読む。


 教皇の書状を一文で要約すると「ローマにも小麦を寄進してほしい」であった。


 僕はマティルデお姉ちゃんに小麦の手形をお裾分けをした。お母様はゴットフリート3世以外にも、ミラノ大司教をはじめとする教会に手形を寄進している。当然、寄進したのは皇帝派に属する教会だけであり、教皇派の教会には寄進していない。でも、これって当然だよね、だって派閥が違うんだもの。そのため小麦が欲しいと言われても、お門違いだとしか言いようがない。


 読み終わった僕は、書状をお母様に返す。そして、イルデブラントが前にいないていで、僕の考えを述べていく。きっと、お母様にも考えがあるのだろう。


「お母様、書状をお返ししますね」

「それで、中身をジャン=ステラはどう思いましたか。率直な意見を聞かせてくださる?」

「はい、いささか虫が良すぎるお願いだと思います。皇帝派の教会に寄進したからといって、教皇派の教会に寄進するいわれはないでしょう。それに寄進しろとだけいって、トリノ辺境伯家へのメリットが書かれていません。お母様が敬虔なキリスト教徒であると知られているとはいえ、図々ずうずうしいと思います」

「まぁ、本当に率直ね。ふふふ。それでも、教皇位を巡る争いの事を知っているなら普通はそう思うわよね」


 僕の意見に対し、お母様は優雅さを保ったまま首を縦に振って肯定する。そして、居住まいを正し、改めてイルデブラントに正対した。


「イルデブラント様、お聞きの通り、普通ならば受け入れる事のできないお話です。それにもかかわらず教皇の懐刀として名高いイルデブラント様が特使として来られた。そこに隠された意図がおありですね。それをお話しいただけますか」

「御明察の通りです、アデライデ様。話が早くて私も大変助かります。教皇からの書状に記されていない事情をお話ししたいと思います」


 イルデブラントは頭を少し下げる事で、お母様に敬意を表した後、ローマ市の状況について語り始めた。


「ローマの民は飢えております。ここ10日ほどで市場から小麦がほぼ消え失せました。教皇庁の者の調べによると、ピサ、トスカーナ、ジェノバの商人たちが買い漁り、ローマから持ち出してしまったらしいのです」


 イルデブラントによると、ローマにおいて小麦の価格が1か月前の5倍以上に高騰しているらしい。しかも5倍の値を払っても、入手しづらいのだとか。そもそもローマ市中から小麦が消え失せているのなら、手に入れられないのも当然である。


 結果として、お金を持っている貴族や聖職者はともかく、貧しいローマ市民達が飢えに瀕しているらしい。現在はライ麦や大麦で作ったパンとおかゆで凌いでいるのだが、そのライ麦や大麦の価格も上がっているとの事。


 それはそうだよね、これまで小麦を食べていた平民たちが急にライ麦や大麦を買い始めたのだもの。需要が増えれば値段は上がるのは当然のことわりに過ぎない。


 それでも、僕は思う。貧しい平民にとって食料品の物価上昇は辛いだろうなぁ。イルデブラントの話を聞いていた僕に、悲しい気持ちが押し寄せてくる。ひもじいってつらいこと。いらいらして心がすさんでしまうもの。


「教皇のおひざ元であるローマにおいて、民が飢える事に教皇猊下は大変憂いておられるのです」

 イルデブラントが憂い顔で首を横にする。


「そんなに酷い状況なのでしたら……」

 小麦を分けてあげましょう、と僕が提案しかけた言葉をお母さまが止める。


「イルデブラント様、ローマは大変酷い状況にあるのですね。教皇猊下のおつらい立場も理解いたしますわ。

 なにせ、ローマ市で暴動が発生しては猊下の威信も揺らぎますもの。ローマを追われたホノリウス様も未だ教皇位を諦めておられないご様子。足元が盤石でない事を悟らせたくはありませんわよね」


 ホノリウスというのは対立教皇。現教皇アレクサンデル2世と教皇位を争ったあげく、ゴットフリート3世の軍隊によってローマを追われた人である。しかし、まだ皇帝家の援助は続いており、虎視眈々とアレクサンデル2世の追い落としを狙っているのだ。


 イルデブラントはお母様の皮肉に顔色一つ変えることがなかった。そして、一言ひとこと、殊更ことさらゆっくりとした口調でイルデブラントが特使として派遣された理由を明かしていく。


「お察しの通りです。そのため形に残る書状に弱みを書き記せず、特使として私が参った次第です。ただ、ホノリウス様がローマに戻られることはありませんよ」


 イルデブラントは口角をあげて微笑みつつ、自信満々に言い切った。ホノリウスが教皇位につくことはない、と。


 ホノリウスを教皇位へけようと強力に推していたのは、皇太后であり摂政を務めるアグネスであった。あった、と過去形なのは、アグネスが徐々に権力の座から退きつつあるからだ。現在、皇帝家で権勢を振るっているのは、ケルン大司教のアンノ2世である。そして彼は教皇位を巡る争いから身を遠ざけている。結果として、アグネスが権力から遠ざかった分だけ、対立教皇ホノリウスへの援助は減っている。イルブラントは、今後援助が先細りになるホノリウスの復権はありえないと言っているわけだ。


「なるほど。教皇位を巡る争いについてはイルデブラント様がおっしゃる通りかもしれません。しかし、なぜトリノ辺境伯家に援助を頼むのですか。そもそも原因は、ピサ、フィレンツェ、そしてジェノバの商人達が小麦を買い占めた事なのでしょう。まずは商人を絞めるか、あるいはピサとフィレンツェを治めているトスカーナ辺境伯ゴットフリート様にお願いするのが筋ではありませんか」


 お母様は、それでもトリノ辺境伯家に援助を頼むのは筋違いであると主張する。そもそも教皇アレクサンデルを軍事面で支えているトスカーナ辺境伯ゴットフリート3世に頼むべきだと言い募る。


 しかしイルデブラントにとっては、お母様が主張した内容は想定内だったようだ。驚くこともなく柔和な笑みを浮かべつつ、トリノ辺境伯家にお願いしに来た理由を述べていく。


「もちろん、商人たちと話をしました。ゴットフリート様ともお話しいたしました。しかしながららちがあかなかったのですよ。商人どもは自分たちの商店が潰れるかどうかの瀬戸際なのだと主張し、一片たりとも譲歩する気配を見せませんでした。そして、ゴットフリート様に至っては、農村部から都市部への小麦の移動を禁じておりました」


 ローマだけでなく、トスカーナ辺境伯領でも小麦価格が高騰していることを、イルデブラントが教えてくれた。最初は一部の商人が小麦の買い占めに走ったようだ。それを見ていた他の商人達も、今後の値上がりを期待して買い占めに走ったらしい。その結果、市場でも売り渋りが発生し、値段がうなぎのぼりに高くなっていったとのこと。


 その状況下で、ゴットフリート3世は農村部から都市部への小麦移動を禁止した。これは商人たちが軍事力を使って農村から小麦を強奪するのを防ぐためである。


「え、商人が軍隊を持っているの?」

「ジャン=ステラ、一体なにを当たり前の事言っているのですか。軍を持っていなくてどうして商売ができるのです?道中も安全ではないのですよ」


 おもわず声にだしてしまった僕の疑問に、お母様があきれ顔で答えてくれる。


 驚いた。驚きだよね。商人が軍隊を持っているなんて。


 いや、よくよく考えてみれば当然なのかもしれない。山に山賊がいて、海に海賊がいる。日本みたいに安全じゃないんだね。あぁ、中世とはなんと酷い世界なんだろう。かつて水と安全は無料ただ同然といわれていた日本が恋しいな。気づかず僕は深い溜息をこぼしていた。


 なお、商人たちは自分たちが組織した軍隊をつかって商品を守っているだけではない。相手が弱いとみると商人は押し売りならぬ、押し買いをするのだ。軍事力を背景にして、相場より各段に安い値段で小麦を買うといったことをしかねない。これって商取引を装っているだけで、実際は強奪である。だから、ゴットフリート3世は小麦の移動を禁止したわけだ。


「でも、小麦の移動を禁止したら、さらに小麦は高くなってしまうでしょう」

「ええ、ジャン=ステラ様のおっしゃる通りです。ピサやフィレンツェでも小麦はローマ以上の値段になっています。しかし、状況は異なります。ローマと違ってピサやフィレンツェには小麦があるのです。なにせ、ローマなどの都市で買い付けた小麦は、ピサやフィレンツェに運び込まれているのですから」


 同じ価格高騰でも違いはあるのだと、イルデブラントが力説してくる。ローマはそもそも小麦がない。一方、ピサやフィレンツェに小麦自体はある。ただし小麦があっても売ってくれないのだと。


「イルデブラント様、話がみえませんわ。ピサやフィレンツェに小麦があるのでしたら、やはりゴットフリート様にお願いするのが筋ではなくて?」

「いえいえ、今回の場合、商人が小麦の買い占めてる原因を解消する方がよろしいかと思うのです。アデライデ様になにか心当たりはございませんか?」


 イルデブラントがお母様と僕の表情をうかがうよう、真正面から視線を合わせようとしてくる。


「さあ、何かありましたか?ジャン=ステラには心当たりがありますか」

「いいえ、僕にもありません」

 お母様は眉をひそめるが、心当たりはないみたい。お母様と一緒で、僕にもない。


 もしかして小麦手形の事かな、と一瞬頭を過った。しかし、お母様も僕も、まだ一度も手形を小麦に引き換えていないのだ。つまり、僕たちは小麦を集めてはいない。それに今年のトリノ辺境伯領は小麦が豊作だったと聞いている。むしろ小麦価格は低かったんじゃないかな。


 小麦、こむぎ、こむぎ。手形以外で小麦の話題が最近あった気がする。お母様となにか話したはず。


「あ、お母様。そういえば、大宴会を行うには小麦が不足しているって、食糧係が言っていましたよね。あれって、小麦価格と関係しているのかもしれません。小麦の値段が上がったから備蓄がへっちゃったのかも」

「たしかにそうねぇ。小麦だけが不足するのは不思議だと思っていたのよ。あとで食糧係を問い詰めないといけないかしら。ジャン=ステラもそう思わなくて?」


 目の前のイルデブラントを無視して、食糧係の事で盛り上がろうとしていたら、驚いた顔をしたイルデブラントから横やりが入った。


「ジャン=ステラ様、アデライデ様、すこしお待ちください。話が横道にそれてはいませんでしょうか。今は食糧係の不正ではなく、買い占めの原因についてお聞きしたいのです」

「イルデブラント様、そうは言われても私どもに心当たりはないのですよ。ね、ジャン=ステラ」

「ええ、お母様。さきほど言いましたが僕にも心当たりはないのです」


 イルデブラントの言い分が理解できないと、お母様と顔を見合わせる。一体なにが言いたいのかな?奥歯にものが挟まったような言い方をされても困ってしまう。言いたいことがあるならさっさと言ってよね。


 お母様も僕と同じことを思ったみたいで、イルデブラントに直接質問を返していた。


「このような話し方をされるという事は、イルデブラント様には心当たりがおありなのですよね。それを教えていただけますか」


 困ったような表情をしたイルデブラントが、一応という形で僕たちに念をおしてきた。

「本当にお二方には心当たりがおありでない、と」

「ええ、その通りです」


 しつこいね。分からないものは分からないというのに。


 イルデブラントは、小さく溜息をつきつつ愚痴を零す。

「私の方からは申し上げにくかったので、察していただきたかったのですが」


 いや、そんなの知らないって。特使として来たのなら早く役目を果たしてほしいな。


 やや躊躇いがちにイルデブラントが小麦高騰の原因について話し始める。


「商人達が小麦を買い占めた理由、それはトリノ辺境伯家がお持ちの小麦の手形が原因なのですよ」


 いやいやいや、それはないでしょう。だってまだ小麦に引き換えていないんだもの


「お言葉ですが、僕たちはまだ小麦に引き換えていませんよ。それなのに原因と言われるのは納得行きません。ねぇ、お母様」

「ええ、そうよねジャン=ステラ」


 僕とお母様の呼吸はピッタリ。うんうんと頷きあった。


「いえ、持っているだけで商人には影響を及ぼすのです。小麦との引き換え要求がいつ来るのかと怯えているのです」

「そんな大げさなぁ」


 それはないでしょ。いくらなんでも誇張しすぎでしょう。ついつい言葉が出てしまったが、イルデブラントはそれを否定する。


「いえいえ、計算がお得意なジャン=ステラ様ならご存じの通り、全て合わせて馬車何万台分の小麦を買い集めなければならないのです。主な都市の市場いちばから小麦がなくなるのも当然ではありませんか」

「でも僕たちはまだ小麦に引き換えるようお願いもしていませんよ」

「たしかにその通りです。それでも小麦と引き換えなければならない可能性があるだけで、小麦は買い占められてしまっているのです。なにせ、小麦を供出できなければ商会の家財を明け渡さなければならないと、手形には書かれているのです。万が一の可能性を考えれば、商会も必死になろうというもの」


「うーん、そういうものなのかなぁ」

 まだ納得が行かず、半信半疑のまま僕は生返事を返す。家財の引き渡しってとりあえず書いておいたけど、そんな非道な事をするつもりは毛頭なかったのだ。


「ええ。さらに手形と関係ない商人たちも、儲けるチャンス到来とばかりに小麦を買い占めはじめました。全商人が小麦を買い漁っているため、小麦の高騰に拍車がかかっているのです」

 はぁ、と溜息をつきつつ、イルデブラントが説明を終える。


「ねえ、イルデブラント。手形が原因というのはわかったよ。でも商人がみんなで小麦を買い漁るのまで僕たちのせいだというのは、ひどすぎない?」

「ジャン=ステラ様、私はトリノ辺境伯家のせいだとは一言も申しておりません。ただ発端が手形だと申しているのです。そして高騰を確実にした出来事がございます。3週間ほどまえ、手形の件でサボナの商人を呼び出しましたよね。この話が北イタリアの商業都市に伝わるやすぐに、さらなる小麦の高騰が発生したのです」


 イルデブラントが言っているのは、11月中旬の出来事だろう。大宴会の小麦が足りなかったから、手形を使おうとサボナの商人を呼び出した。その呼び出しが切っ掛けとなり、小麦を買い占めなければ商会が潰される、乗っ取られると商人たちが狂乱の渦に巻き込まれたのだとか。



「えーーー。小麦だけ大量にあってもしかたないから、お肉とか違うものを納入してもらうつもりだったんだけどなぁ」

 そう僕が零した言葉をイルデブラントが拾った。

「ジャン=ステラ様の思惑がそうだったとしても、相手に伝わらなければ意味はありません」

 すこし呆れ気味に、イルデブラントが首を横にふった。



 イルデブラントの首振りを機に、僕たち3人の間にしばし沈黙の時間が過ぎ去っていった。


●あとがき●


ーーー手形の書状(再掲)ーーー

 この書状を携えてきた者にヴィッラーニ商会は下に記す量の小麦を即日渡すことを約束する。


 小麦の量:

 37日目の小麦の量の15分の1


 なお1日目の量を小麦1粒。2日目以降は前日の倍量とする。



 この約定をたがえし場合、ヴィッラーニ商会の家財を明け渡すものとす。


 フィレンツェ所属 ヴィッラーニ商会 コジモ(商会印) 


 ーーー


たしかに「家財を明け渡す」と書いてあります。いかにトリノ辺境伯家が強大な軍事力を持っているとはいえ、領外の商人の家財を没収する事は難しそうなのですが、いったい商人は何に怯えているのでしょうね。

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