第98話 意図せぬ経済戦争(3)ジャン=ステラ後編
1062年11月中旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)
●アルベンガ離宮の場所は近況ノートの地図をご覧ください
地中海を一望できるお城のバルコニーでアデライデお母様と優雅な午後のティータイム。太陽の光を反射する海は眩しく、風が頬を優しく
これで飲み物が白磁のティーカップに入った紅茶だったら英国貴族そのものかも。でも悲しいかな。僕が飲んでいるのは銀色のコップに入った白湯で、お母様はワインのお湯割りを飲んでいる。ちょっと優雅さに欠けている。
仕方ないじゃん。周りの人に聞いてみたけど紅茶もコーヒーもないんだもの。
お茶請けもクッキーではなく、ホスチアという薄くてぺらっぺらの小麦粉焼き。僕の記憶の中で一番近いのが、有馬温泉名物の炭酸せんべい。ただし全く甘くない。あるいは、風月堂のゴーフルの皮。転生してから8年も経つから慣れたけど、なんとも味気ないおやつだよね。
お茶を楽しんでいたお母様と僕のところに、離宮の食糧係からの訴えが上がってきた。
「大宴会をするには、小麦が不足しております」
サルマトリオ男爵を破滅させた後、お母様と僕は地中海に面したアルベンガ離宮に居を移した。そして転居したら、領民を交えた大宴会を開くのがお約束らしい。
大領地を統治する伯爵以上の貴族たちは、領地を巡回しつつ政治を執り行っている。そのため、多くの家臣を引き連れて移動するのだが、城には家臣全員分の屋敷や部屋を準備できないらしい。
「全員が泊まれる場所が城にないのはどうしてなのですか?」
移動することが前提なのだから、最初から全員分の住居や部屋を準備しておけばいいのに。
「家臣全員が収容できるような大きな城館を作るのは大変なのよ。お金も労力もかかるもの」
アデライデお母様は続ける。
「それにね、領主がいるときは人が大勢いるかもしれないけど、それ以外の時は人が少なくなるでしょう。少ない人数で城を守る事を考えると、小さな城じゃないといけないのよ」
どうやら、皇帝家を含め、これが神聖ローマ帝国の統治方法らしい。
では、城からあぶれた家臣たちはどこに滞在するのかと言えば、その領地の家にホームステイするらしい。身分に合わせて商家や富豪から、ちょっと裕福なだけの一般家庭にまで分散して宿泊するのだとか。
「家臣を住まわせてくれた者たちを慰労するため、贅を極めた宴会を開きます」
離宮に引っ越してきて早々、お母様は宣言した。普段食べられないような食事を提供することで、平民と貴族とが隔絶された所で生きている事を知らしめるという意義もあるみたい。
「平民にとって貴族は憧れの存在でないといけないのです。それが統治を容易にする手段の一つなのです」
と僕の筆頭家臣であるラウルも教えてくれる。理屈がよくわからないけど、そんなものなのかな。
それはさておき、小麦が足りないのは大問題らしい。
平民が食べるのは基本的に大麦パン。貧しいものになると、馬の飼料であるライ麦を混ぜた混合パンである。つまり、小麦粉100%のパンは贅沢の極みであるらしい。
うん、びっくりだね。小麦って贅沢品だったのか……
そうは言っても小麦は各地で大量に作られている。見たこともない贅沢品というよりも、日々の生活を豊かにするためとか、お祝いの日に食べる贅沢品って感じなのかもしれない。日本人に例えるなら、魚沼産コシヒカリとか、国産小麦っていうくらいの貴重性なのかな。いつものスーパーに並んではいるけれど、値段が2倍とか3倍とかする。お金がもったいないから普段は手に取ることはない。贅沢は敵なのです。
そのような事はさておき、大宴会を催すためには小麦が必要となる。だけど心配は無用である。むしろグッドタイミング。なぜならお母様も僕も小麦の手形をたくさん持っているのだもの。
「お母様、丁度いい機会なので、小麦の手形を使っちゃいましょう」
「そうね。離宮に一番近い商人って誰だったかしら」
お母様とのお茶会を中断し執務室に戻り手形の振出人、つまり小麦を提供する義務を負っている商人を調べることにした。
「近いところだと、サボナ、ジェノバ、ニースの商人の手形があるわね」
「じゃあ、一番近いサボナにしましょうか」
お母様が手形を振り出した商人を手早く確認し、その結果を僕に教えてくれた。
サボナは、アルベンガ離宮から船で一日の距離にある地中海の交易町である。北イタリアの半島西側にはジェノバとピサという大都市が商業の覇権争いをしており、全ての交易町はどちらかの支配下に置かれている。サボナも例外ではなく、ジェノバに従属している。
「サボナ商人の手形はこの3枚ね」
お母様が羊皮紙を3枚、執務机の上に広げた。中身を確認すると
「お母様、3枚分ということは馬車300台分ですが、大宴会とはいえちょっと多すぎませんか?」
「そうねぇ。宴会の参加人数が千人だったとしても1台分も要らないはずよ」
トリノでさえ城壁内の人口は2000人くらいしかいない。アルベンガにはもともと数百人しか住んでいないのだ。その近郊の人口を合わせたとしても1000人を超えることはなさそうだ。
宴会料理に必要な小麦が1人1kgだったとしても1000人分で1トン、すなわち馬車一台分ぐらいにしかならない。馬車300台分というのはいくらなんでも多すぎる。
「じゃあ、手形1枚だけを小麦に替えましょうか?」
1枚でも馬車100台分。多すぎるけど、1枚ずつしか引き換えられないから仕方ないよね。
しかし、お母様の考えは僕とは違った。
「せっかくなので3枚とも小麦に替えちゃいましょうよ。3枚減っても手形はまだまだたくさんあるもの。今引き換えなかったら、残った手形を使う機会なんて巡ってこないわよ」
たしかにお母様の言う通りではある。あちこちの貴族や教会に手形のお裾分けをしたものの、まだ手元に150枚以上残っている。150枚のうち、たった3枚ですら使えないようでは、残りを使うような機会はずっと訪れなくなさそうだ。
しかしながら馬車300台分もの小麦を貰っても消費できないし、さほど広くない離宮では保管場所にも困りそうなのだ。お母様は残り299台分の小麦をどのように扱うつもりなのだろう。
「お母様、3枚使うのはよいとしても、引き換えた小麦をどうするのです? 屋外に置いておくわけにもいきませんよね。雨が降ってきても困りますし、虫やネズミが寄ってこないようにしなければなりませんよ」
大切な食料である小麦を虫やネズミたちの餌にするのはもったいなさすぎる。僕は貴族の子供だから、平民の実情をよくは知らない。けれども、平民というのは基本的に飢えているものなのだ。
農学部で習った食糧事情の歴史を思い出す。日本の農村部では、1970年までおなか一杯食べられない人たちの方が多かったのだ。ましてや11世紀のイタリアである。食料事情がよくなくて当然。大量の小麦を無駄にしてしまっては良心が痛いどころの話ではない。
「あらいやだわ、ジャン=ステラ。別に小麦にこだわる必要はなくてよ」
にっこり笑ったお母様が、やさしく僕を諭してくれる。
大宴会に必要なのは小麦だけではない。お肉に野菜、果物やワインも必要になる。調理には燃料も必要だし、できた料理を盛るための食器も大量に必要となる。お母様は小麦の代わりに他の品物を納入させれば良いと提案する。
「たしかにそうですね。うっかりしてました」
「あらら、ジャン=ステラよりも私の方がいいアイデアを出せるだなんて思ってもみなかったわ」
「いえいえ、お母様。僕を買いかぶりすぎですよ」
預言者だの何のと言われてはいるけど、僕だって普通の人間だもの。万能超人じゃないのです。
それはさておき、言われてみればたしかにそうだ。手形に小麦と書かれていても、僕たちが納得するのなら小麦にこだわる必要はない。同じ価値分の商品が貰えるのなら僕に損はないもの。むしろ、場所もとらないから好都合。
あとは、これを商人たちが納得してくれるかどうか。小麦の方がいいって言う商人がいるかもしれない。しかし大丈夫だろう。ここ神聖ローマ帝国では金貨も銅貨も流通していない。あるのは銀貨だけ。基本的に物々交換の世の中なのだ。商品交換を拒むことはないだろう。
「まずは手形に書かれたサボナの商人を呼び出すことにしましょう。小麦を何と交換するかはその場で話せばいいわね」
ーーー
ア:アデライデ・ディ・トリノ
ジ:ジャン=ステラ
ジ:ねえ、お母様。この大宴会を機に、ナイフやフォーク、スプーンを普及させてもいいですか?
ア:あら、私たち家族はみんな使っているじゃない。私たちだけではだめなの?
ジ:宴会の時、料理を手づかみでくちゃくちゃ食べているのを見ていたくないんです
ア:うーん(考え中)
ジ:だめ?
ア:そうね。フォークとスプーンはいいわ。だけどナイフはだめ。
ジ:武器としても使えて危ないから?
ア:宴会のお肉を切って取り分けるのは、
ジ:はーい。(これで手づかみ野蛮人から一歩脱出できたよ!)
※ お箸を使いこなすことはジャン=ステラちゃんしかできず、家族にすら使ってもらえませんでした(涙)
そして、ピエトロお兄ちゃんとアメーデオお兄ちゃんにフォークとナイフは不評です。「手づかみの方が食べやすいのに……」と愚痴をこぼしています。
ーーー
当時の人口推定値を載せておきます
イタリア人口推定 (AD1000年)
5.5万 パレルモ
4.5万 ヴェネツィア
3.5万 ローマ
3万 ミラノ
3万 ナポリ
1.5万 ジェノバ
9000 ピサ
2000 トリノ
トリノの人口、少ないですねー
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