第96話 意図せぬ経済戦争(2)トスカーナ編
1062年11月下旬 イタリア北部 フィレンツェ ヴィッラニ商会会頭 ジョバンニ
「おまえたち、この手形は一体なんだ?」
挨拶もそこそこに、我々の面前にある執務机の向こう側からゴットフリート様が質問される。怒ってはいないようだが、顔色は険しい。何か
側仕えが我々に羊皮紙を配っていく。
「拝見します」
中を見るとやはり、小麦の手形だった。隣に居並ぶ商人の手にある羊皮紙も同じく小麦の手形であろう。
「代表してヴィッラニ商会のジョバンニが申し上げます。書状に書かれています通り、小麦を引き渡す事をお約束した手形でございます」
「お前、俺を馬鹿にしているのか。それくらいは分かっておる。なぜお前たちの手形がトリノ辺境伯家から贈られてくる。それと小麦の量だ。37日目の小麦の量の15分の1とは何のことだ、と聞いている」
ゴットフリート様の苛立たし気な大声が執務室に響き渡る。やれやれ、怒りの沸点が低いのも困ったものだ。質問したいことが具体的にあるなら先に言っていただければよいものを。愚痴を零したくなるのをこらえ、努めて笑顔で畏まりつつ謝罪する。
「そこまで頭が回らず申し訳ございません。この手形はトリノ辺境伯家のサルマトリオ男爵にお渡ししました。男爵からトリノ辺境伯様にわたり、さらにゴットフリート様の手に渡ったのだと思われます」
「残りの3人も同じか?」
「はい、その通りでございます」
3人の商人が大きく
「では次。小麦の量だ。トリノ辺境伯は手形全部で馬車500台分だと言っていた。それは確かか?」
ゴットフリート様のお側には計算が得意な者が居られないのだろうか。一晩で計算を終えるのは難しかったらしい。確かに掛け算を37回も行うのは骨の折れる大変な仕事ではある。
いや、それとも正確に答えるか否かを観察されているのだろうか。ここは正しく伝えた方が安全だろう。嘘をついていたことがバレたときの報復が恐ろしすぎる。
私のところが手形2枚で馬車200台。残り3人の手形は合わせて馬車400台分だと私に告げた。
全員あわせて600台分。3人で400台とはいささか少ない気もするが……。まぁよい。こちらにトバッチリが飛んでこなければよいのだ。
「500台はいささか少なく見積もられているかと。ただいま合計しましたところ馬車600台分にはなりそうです」
「そうか……」
ゴットフリート様の顔から険が薄れた。なにやら考えに
「お前たちに聞きたい。なぜトリノ辺境伯は小麦を俺に贈ってきたのだ。ふつうなら貴金属や宝石を贈ってくるものだろう。なぜ小麦なのかお前たちは分かるか?」
たしかに貴族間の代表的な贈物は宝石だろう。我が商会もさまざまな宝石類を納入してきた実績があるため、貴族間の贈り物については理解している。小麦のようなかさ張るばかりで価値の低いものは通常、贈答品に選ばれない。それをよくご存じのはずなのに、なぜ小麦を贈ることを、トリノ辺境伯アデライデ様は決断されたのであろう。
単純に考えるならば、アデライデ様の手元に手形がたくさんあったから。だが、そのように考えるのは浅はかであろう。小麦の手形を直接贈る必要はないからだ。ひと手間増えるが、手形の小麦と等価値の宝石を準備するよう命じればよいだけなのだ。そうすれば小麦を贈るという珍妙な事をする必要もなくなる。
私が考えあぐんでいると、同席していたカルレッティ商会のカルロ会頭が発言した。
「怖れながら申し上げます。そもそもゴットフリート様とトリノ辺境伯家とはあまり仲がよろしくないという前提で考えを述べたいと思います」
「おう、それで構わぬ。トリノのアデライデとは贈物を交わすような仲ではないからな。あながち間違ってはいないだろう」
ゴットフリート様がカルロに続きを促す。私も興味がある。小麦を贈るとはどういう理由なのだろうか。カルロの言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。
「アデライデ様はゴットフリート様が戦争できないように仕掛けているのではないでしょうか」
「なに、どういうことだ。俺が小麦を貰うのだぞ。小麦があれば戦争しやすくなるではないか。逆ではないのか?」
ゴットフリート様の語気が強まる。間違ったことを言うなと、苛立たし気にカルロを
ゴットフリート様は毎年のように戦争している。すこしでも勢力を拡大しようと躍起になっているのだ。近隣諸侯にとっては迷惑であり、脅威でしかない。そのゴットフリート様が戦争しないよう、トリノ辺境伯家が仕掛けるのはありえない話ではない。
だが、ゴットフリート様の言う通り、小麦を贈れば戦争が起きるだろう。戦争対象からトリノ辺境伯家を外すための贈物というのなら、分からなくもない。
ゴットフリート様の威圧に負けることなく、カルロは理路整然と説明する。
「小麦が少量ならゴットフリート様のおっしゃる通りでございます。しかし今回は馬車600台分という大量の小麦でございます。これは兵士1万人が半年間で食べる量に相当します」
馬車1台の小麦は、兵士100人ひと月分にあたる。それが600台あれば半年間、1万人にパンを与えられるだろう。
「ああ。貰った小麦の分だけ、俺は戦争に没頭できるというわけだ。違うか?」
「いいえ、違います。数字の上では間違っていませんが、現実は異なります」
「わからん、俺に分かるように説明しろ」
ゴットフリート様は理解できぬとばかりに首を横に振り、追加の説明を促す。その目が怖い。私なら震えあがって、声が出なくなっていたかもしれない。
カルロはゴットフリート様に臆することなく説明を続けていく。
「ゴットフリート様は小麦の価格が高騰していることをご存じでしょうか」
例年であれば12月も近い時期、小麦価格は一年の中でも少し安い時期にあたる。それが、今年は例年の2倍以上の値がついている。まさに異常事態だと言って良い。
「その原因は怖れながらトスカーナ辺境伯アデライデ様にあります」
トスカーナ辺境伯アデライデの手元に、小麦の手形が多数あること。その量は馬車4万台分はあると推測されるとカルロが説明した。
「4万台だと ! 」
ゴットフリート様が驚きの声をあげました。
驚くのも無理はありません。小麦が4万台あれば、33万の兵士に1年間、パンを与えられるのです。生半可な量ではありません。
「今のところ、アデライデ様から小麦の引き渡しを命じる連絡は受けておりません。しかし、いつ御用命があっても困らないよう、イタリア全土で小麦を買っております。これが小麦価格高騰の理由です」
ゴットフリート様の反論と、カルロの詳述が繰り返されます。お互いの声が大きくなっていくのは議論が白熱しているからでしょう。
「小麦が高いことはわかった。だからといってなぜ戦争できなくなるのだ? 小麦なぞ戦場で徴発すればいいだけの事。値段なぞ関係なかろう」
「小麦が高く売れるとなると、農村から売り出す小麦の量が増えます。当然売った量だけ農村の小麦は減ります。つまり軍が徴発できる小麦の量が減るのです」
「その場合は、平民が貯めていた分を強奪すれば良いではないか。あるいは敵の領地で全て奪いつくせばよい。俺は何度もそうしてきたぞ」
自信たっぷりにゴットフリート様が言い放ちました。
ゴットフリート様に攻められる領地は災難だな。フィレンツェがトスカーナ辺境伯庇護下にある事は幸いでした。私はそう思わずにいられません。そんな私の思いを余所に、カルロが再び反論します。
「常ならば、それでも良かったでしょう。今回はイタリア全土で小麦不足が発生します。つまり、ゴットフリート様が攻め入った土地でも小麦は足りないのです。無理やり徴発すれば、飢饉になります。それを恐れた平民たちは各地で反乱を起こすでしょう」
「うーむ」
カルロの言葉に反論できなくなったゴットフリート様が髭を撫でつつ考えてはじめました。言葉は理解できたものの、感情が納得していないようです。
「カルロよ。それならば、俺はどうすれば良いというのだ?」
「戦争をお
ゴットフリート様がカルロへと質問されました。しかしカルロの回答は思いもがけなかったようで、ゴットフリート様の顔が渋いものへと変わっていきました。
「戦を控えた方が良いのはわかった。だが、なぜ小麦に引き換えてはいかんのだ」
「ゴットフリート様が小麦を引き換えれば、その分小麦価格が上がります」
「それがどうした。値段が上がったとしても、戦場で徴発しなければ問題なかろうて」
「いえ、徴発がなくても村々の小麦が減ります。すると飢える平民が増えるのです。それを緩和するためにも、引き換えをお控えいただきますようお願い申し上げます」
最後まで言い終わったカルロは膝をつき、低く
重い沈黙が執務室を支配しました。小さな音を出すことも
ややあってゴットフリート様は声を出しました。
「……いいだろう。カルロ、お前の思惑に乗ってやろう」
「御英断にございます」
カルロが言葉短くゴットフリート様の判断を讃えました。私もゴットフリート様のお言葉にほっと胸を撫でおろします。
決断された後、ゴットフリート様の行動は素早いものでした。さすがは神聖ローマ帝国内で並び立つ者がない武勇の将なだけあります。頭を一振りしたゴットフリート様は声色も明るく我らに命じられました。
「だがな、俺はトリノ辺境伯家に返礼をせねばならんのだ。貰いっぱなしでは帝国内で悪評を買ってしまうからな」
トリノ辺境伯アデライデ様は2人の娘を、ドイツ王ハインリッヒ4世とシュヴァーベン大公ルドルフへと嫁がせています。ゴットフリート様の悪評を流す事は造作もない事。互いに
「そこでだ、お前ら商人に命じる。この手形と引き換えに、同価値の品物を用意せよ。半分は俺のもの。もう半分はトリノ辺境伯家の返礼だ。そのことをよく考えて品物を選べよ。お前らとの話はこれで終わりだ。下がってよし。」
ゴットフリート様の有無を言わせぬ命令の後、会合の終わりが
会合自体はつつがなく終わりましたが、我がヴィッラニ商会に新たな存続の危機が訪れました。城から商会への帰り道、なんども溜息を零しました。
「大量に買い集めてしまった小麦、どうしましょう」
1062年11月下旬 イタリア北部 フィレンツェ トスカーナ辺境伯ゴットフリート3世
商人達と小麦手形について話し合った会合の翌日、義娘のマティルデから手紙と贈物が届いた。
マティルデからの贈物はトリノ産の蒸留ワインと相場が決まっている。俺がアルコール分の強い酒を好んでいることを知っているのだ。そろそろストックが乏しくなってきたところだったのでありがたい。
「1本を執務室に残し、あとは酒蔵に持っていけ。くれぐれも慎重に扱うんだぞ」
執事に蒸留ワインを片づけるよう命じる。
机上に残された1本の蒸留ワインを眺めていると口の中が湿ってくる。
「今日の晩は久しぶりにたくさん飲める」
自然と笑みが零れてきた。
義娘のマティルデはトリノ辺境伯家の小僧、ジャン=ステラと仲がいいのだ。ワインだけでなくトリートメントなどの品々を互いに交換しあっている。
トスカーナ辺境伯家とトリノ辺境伯家は仲が悪い。その例外が、マティルデとジャン=ステラなのだ。2人の交流を妨害することも考えたが、そうなると蒸留ワインの入手が難しくなる。
ジャン=ステラは8歳のガキに過ぎない。ガキに目くじらを立てる必要もないだろう。今のところ目こぼしをしているが、当然変な動きをしたら即禁止である。決して蒸留ワインの魔力に囚われてるわけではないのだ。
「さて、手紙の内容は何だろうな」
どうせ碌なものではあるまいて。縫いぐるみだとかトリートメントだとか理解に苦しむ内容が並んでいることだろう。気が進まないが、読まない訳にはいかないと、丸められた羊皮紙の封蝋を解く。
読み進めると、頭の痛い事が書かれていた。
「トリノ辺境伯家はお義父様のイタリア王就任を後押ししてくれるみたいです」
そんな事があるわけない。諸侯の情勢を少し考えてみたら分かる事。現イタリア王位に就いているハインリッヒ4世はトリノ辺境伯アデライデの婿だぞ。何を寝ぼけたことを言っているのだ。
義娘の教育を
とはいえ何事にも限度がある。この話に乗ったら俺は皇帝家から敵認定されかねない。
おれがイタリア王を狙っていた5年前とは情勢が違うのだ。幼かったドイツ王ハインリッヒ4世もあと1か月で13歳。あと2年で成人となり、親政を開始するだろう。今、イタリア王に名乗りを挙げたら親政と同時に攻められかねない。それはごめん被る。
「返信の手紙は慎重に書かねばなるまいな」
自分の弱点を
手紙の続きを読もうと目線を机上の羊皮紙に戻した。
「ジャン=ステラから小麦の手形をたくさんもらいました。馬車200台分もあるのよ。すごいでしょ。私にはちょっと多すぎるからお義父様に半分あげます。フィレンツェの大きな商会に命じたから、あとで受け取ってくださいませ☆彡」
「あんっのバカ娘がっ」
おもわず手紙を握りつぶしてしまった。
小麦の高騰を抑えるため、手形を小麦に交換しないと商会に伝えたのは昨日の事。俺の面目を潰してどうしようというのだ。
八つ当たりだとはわかってはいる。商会との会合の内容をマティルデは知らないのだ。だが八つ当たりだとは分かっていても腹が立つ。
ああ、人生ままならない。
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ジ:ジャン=ステラ
ア:アデライデ
ジ: お母様はどうして手形をおすそわけしたの?
ア: トリノは豊作だったから、小麦の保管場所が足りなかったのよ
ジ: 手形は腐らないし、手元に置いておいてもよかったのでは?
ア: それは名目よ。儲け過ぎたら近隣諸侯の嫉妬が怖いもの
ジ: 教会に手形を寄進したのも同じですか?
ア: 教会を通じて、飢えに苦しむ貧しい平民を救うために決まっているじゃない
ジ: 本音は?
ア: 派手な噂を流したでしょう? あなたの安全を買ったのよ、異端認定されないようにね。
ジ: 残った手形はどうするのですか?
ア: あなたと私が20枚ずつ使い、残りは新大陸発見に使いましょう
ジ: やったー! これでピザに一歩近づくよ☆
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