第95話 意図せぬ経済戦争(1)商人編

  1062年11月下旬 イタリア北部 フィレンツェ ヴィッラニ商会会頭 ジョバンニ


 雲一つない青空がフィレンツェの町を覆う朝、私は馬車に揺られてフィレンツェ城のゴットフリート3世の下へと向かっている。


 昨日、日の暮れた頃にお城からの使者が来られたのだ。


「翌日の朝、城に来い。ゴットフリート様がお呼びである」


 お貴族様からの連絡はいつだって唐突なものだ。城に出入りできる商人として街で勢威をふるってはいても、軍を率いるお貴族様の命令に逆らうことはできない。


 いや、村を数か所治める程度の男爵相手なら少しは強く出ることはできるかもしれない。しかし、今回は相手が悪い。フィレンツェのあるトスカーナを治めるゴットフリート3世なのだ。


 8年前にゴットフリート様は、先代トスカーナ辺境伯夫人ベアトリクス様の後添あとぞえとしてドイツからイタリアへやって来られた。領主が代替わりする時は平民に対する締め付けが弱まるもの。そう期待した我々フィレンツェの商人は、自治権を拡張としようと交渉を申し出たのだ。そうしたらいきなりフィレンツェの街はゴットフリート様の軍隊によって蹂躙された。


 ああ、ドイツ人のなんと野蛮な事か。人の言葉を話してはいても、会話はできないらしい。それ以降、フィレンツェの平民はお貴族様からの命令を一方的に飲まされるだけの存在となってしまった。


 今日はどのような無理難題を飲まされることになるのか。胃のあたりがキリキリ痛い。



 ◇  ◆  ◇


 城の待合室には、フィレンツェの商人が1人、そしてピサの商人が2人並んで待っていた。


 フィレンツェはアルノ川の中流に位置し、ピサはアルノ川の河口に築かれた街である。アルノ川によって繋がっている2つの街は、商売上の交流も盛んである。


「やあ、みなさん。ごきげんよう。あなた方もゴットフリート様に呼び出されたのですか」

「ジョバンニさん、ごきげんよう。ええ、我ら3人とも昨晩、急に呼び出されたのです。しかも用件も告げられませんでした。ジョバンニさんは何かご存じで?」


 3人を代表して返答したのはフィレンツェの大店、カルレッティ商会のカルロ会頭だった。残りの2人も頷きつつ、私の様子をうかがっている。


「いえいえ、私も皆さんと同じです。昨日急に呼び出されました。用件は聞いておりません。ですが、この面子が同時に呼び出されたということは、なんとなく想像がつくのでは?」


 私が3人をぐるりと見渡す。

「ええ、そうですね。悪い予感が当たりそうです」


 全員の口から一斉にため息がでた。


 ここに集まった商会の共通点といえば、サルマトリオ男爵にだまされた事が真っ先に思いつく。


 男爵に小麦を貸しつけ、その2倍の量を来年受け取る。この条件だけを見れば、我々商会側の方が有利であった。もちろん、男爵が来年きちんと小麦を返済してくれなければ意味がない。


 この点、我々は抜かりはなかった。いや、抜かりのないつもりだった。返済されない場合、男爵家の家財だけではなく男爵位まで譲り渡すとの条件を付けたのだ。これ以上の条件はなかっただろう。


 ただ、男爵側にこの条件をつけたため、商会側にも同様の条件を飲む必要があった。つまり小麦を引き渡せなかった場合、商会の家財を明け渡す事となったのだ。これ自身、特に問題がないはずだった。先に商会側が小麦を渡さなければ、そもそも取引が成立しないのだ。この条件は無意味だとも言える。ただし、引き渡す小麦の量が少なければ、だ。


 そう。予想外だったのはその小麦の量。


 1日目は1粒、2日目はその倍。3日目はさらに倍。10日後でも手のひらに乗るくらいの量でしかない。


 そのため「37日目の小麦の量の15分の1」と聞いても量が想像できなかった。計算もすぐにはできない。ただ、イタリア各地で御用商人を務める面々が嬉々として契約していたのだ。大した量はないと勝手に思い込んでいた。


「いやぁ、いい取引ができましたなぁ」

「そうですなぁ、これほど簡単に男爵様と太い繋がりが持てるだなんて夢のようですな」

「それどころか最近、勢威を伸ばしてきたトリノ辺境伯様ともよしみを結べたのです。この調子でトリノの特産品を扱わせてもらえないかと期待が膨らみますなぁ」

「そうそう。我が商会にも運が向いてきたというもの」


 この世の春とでもいわんばかりに談笑する商人たち。こんな会話を聞かされては契約を尻込みしているわけにはいかなかった。我が商会も嬉々として契約に応じてしまったのだ。その量、なんと手形10枚分。ピサやジェノバの商人には枚数で負けたが、ヴェネチアには勝ったなどと祝杯をあげ、喜びを分かち合った。


 その熱狂的な雰囲気を打ち砕いたのは、トリノ辺境伯家4男であるアオスタ伯ジャン=ステラ様の無邪気な一言であった。


「商会の人たちってとってもお金持ちなんだね。あの手形1枚で小麦馬車100台分くらいの小麦なのに、奪い合うように契約してくれたってサルマトリオ男爵から聞いたよ。みんな、すごいね!」


 商人が集まっていた修道院の広場が一瞬で静まり返った。いや、凍り付いた。1枚あたり馬車100台分の手形? 


 静寂に驚いたジャン=ステラ様が不思議そうな声をあげる。

「あれ、どうしたの? ま、いっか。男爵に協力してくれてありがとうね」

 そう言った後、建物の中へと入っていかれた。


 伯爵位にあるような上級貴族が平民に感謝の意を述べる驚きの事実も頭に入ってこなかった。馬車100台分という言葉が脳裏をぐるぐると駆け回る。


 ジャン=ステラ様を見送った後、商人同士のひそひそ話が始まる。

「本当か?」「だれか計算していたか?」「いやぁ、かけ算は苦手でして……」


 かけ算を37回も間違える事なく行うなぞ神業としか言いようがない。それでも計算すべきであった。ああ、愚かなり。周りの雰囲気に流されてしまうとは、実に愚かであった。


 契約の取り消しを男爵様にお願いしても無駄であろう。なにせ小麦の手形は男爵様の手を離れ、トリノ辺境伯アデライデ様の手にあるのだ。


 我が商会が持つ手形は10枚。集めなければならない小麦は馬車千台分にもなる。他の商会も同じように大量の小麦を集めることになろう。


「まずいことになった」

 小麦の相場が急騰する。ヘタをすると価格が2倍にも3倍にもなるだろう。急いで小麦を買い集める必要がある。集められなければ商会の家財が取られてしまう。この身の破滅が待っている。


「いや、まてよ。これはのし上がるチャンスかもしれないぞ」

 先に買い占めることができれば、ライバルの商会を潰すことができそうだ。


 ピンチとチャンスは同じコインの裏表。これは兵ではなく小麦をつかった戦争だ。敵はイタリア全土の商会たち。相手にとって不足はない。


 心と体が熱くなっていくのを感じる。俄然やる気がでてきた。出立の準備を急がねばならぬ。


● 付録 商会が男爵から受け取った手形 


ヴィッラーニ商会にサルマトリオ男爵は下に記す量の小麦を1063年8月以降に渡すことを約束する。


小麦の量:

37日目の小麦の量の15分の2

なお1日目の量を小麦1粒。2日目以降は前日の倍量とする。


この約定を違たがえし場合、サルマトリオ男爵の爵位、あるいは家財を明け渡すものとす。


アルベルト・ディ・サルマトリオ (男爵印)

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