第94話 理解に苦しむアデライデの行状
1062年11月下旬 イタリア北部 フィレンツェ ゴットフリート3世(57才)
執務室の窓から見える空が赤く染まり始めている。
「もう夕方か」
室内が薄暗くなり、羊皮紙の字が
最近お気に入りは義娘のマティルデから送られてきた蒸留ワイン。アルコールがきついため、トスカーナ産のワインで割って飲むのが最近の習慣になっている。
棚のボトルに手を伸ばそうとした頃合いに、家宰が書状の束が乗った盆を手に執務室へ入ってきた。
「もう少し早く持ってくればよいものを」
ワインはお預けだな、と心の中だけでため息と愚痴をこぼす。今日は一日机の前で書類仕事だったのだ。目が疲れ、もう書類を見たくはない。だが、普段ならばこのような時間に仕事を増やす家宰ではない。何か重要な案件であろう。そう思い返し、努めて平静を装い声をかける。
「どうした、夕方にお前が仕事を持ってくるとは珍しいな。なにか問題でも起きたのか?」
「ゴットフリート様、失礼いたします。トリノ辺境伯アデライデ様から書状が届いております」
「なにっ トリノのアデライデからだと」
思わず大きな声が出てしまった。
これまでトリノから俺宛てに書状が届いた事はなかった。俺の存在を無視するかのように、トスカーナ辺境伯宛ての書状はいつも義娘のマティルデに宛てられていた。
「トリノ辺境伯のアデライデ。俺は本当にいけ好かぬ。名前を聞くのも不愉快だ」
俺と義娘のマティルデは2人ともトスカ―ナ辺境伯である。だがトスカーナ辺境伯の正統はマティルデにあって、俺にはない。マティルデの実母ベアトリーチェの再婚相手であるから一時的に辺境伯の地位に就いているに過ぎない。
俺に正統性がない事をあざ笑うため、アデライデは俺に書状を寄越さなかったのだろう。俺はそう判断している。
だというのに、そのトリノ辺境伯から俺への書状だと? 一体どういう風の吹き回しなのだ。
「やはり、2か月前の事件が原因なのだろうな」
2か月前、俺が雇いトリノ領内を荒らさせた傭兵隊が捕まった。その際、手
ジャコモの事は俺もよく知っている。戦闘はさほど強くないが口の硬さだけは定評があった。だからこそこれまで何度も雇い、南イタリアで敵領地略奪を命じてきたのだ。
そのジャコモが俺の名を出した。一体どのような尋問をすればジャコモが口を割るのかと探りを入れるのは当然であろう。その結果は「神の怒りにふれ雷に打たれた」という訳の分からないものであった。
馬鹿な話を持ってくるな、と思わず報告者を怒鳴りつけたものだ。底意地の悪いアデライデが意図的に流している
事実、事件のしばらく後、トスカーナの村々に多数の吟遊詩人が訪れたと報告が上がってきた。軽快なリズムに合わせて流された歌詞は、報告を上回る酷い
ーーー
昼なお明るく光る星
そのお導きにより聖なる御子が地上に降り立った
神に与えられし知識を使いこの世を導く聖なる御子
キリストの教えを守る地に繫栄をもたらす尊き御子
その生誕を讃えたまえ
御子が手にするは神から授かりし聖なる
御子の
それは神の御意思に逆らうものと心得よ
聖剣から発せられし神の怒りが必ずその身を焦がすであろう
ーーー
御子とはトリノ辺境伯の4男ジャン=ステラであり、いかずちを操る聖剣セイデンキも実在する。そして御子であるジャン=ステラを攻撃した傭兵隊は神の怒りに触れ、雷に打たれたのだと、吟遊詩人は熱弁を振るっていた。
「トリノ領内を荒らしまわったのだから、その報復の一部なのだろうが……」
このような噂を流したアデライデの意図を掴みかねていた。たしかに俺は腹が立ったし、トリノ辺境伯家の権威向上に役立つだろう。しかし、トスカーナ辺境伯領の統治にさしたる影響はないのだ。治安が悪くなるわけでもないし、収穫が落ちるわけではない。
「アデライデは一体何を考えているのやら」
俺はそのような事を思い返しながら、書状の束を家宰から受け取る。
封蝋をした主書状が一つ。それに封をしていない副書状が10通ほど。
羊皮紙に書かれ封蝋が施された主書状。その封蝋に推された印璽を確認する。左半分に鷲、右に城塔が施された印章はトリノ辺境伯が
書状の送り主を確認した後、手早く封蝋を破り内容を確認する。羊皮紙に書かれている文字は大きく、言葉数は少なかった。
ーーー
トスカーナ辺境伯 ゴットフリート・ディ・アルデンヌ殿
あなたのお陰で大儲けしましたのよ。
馬車500台分ほどの小麦をおすそ分けしますわ。
詳しくは副書状をご覧くださいませ。
トリノ辺境伯 アデライデ・ディ・トリノ
ーーー
一体何だ、この書状は。書いてある事はわかるが、意図がまったく掴めぬ。俺は傭兵に領内を荒させたのだぞ。それがなぜ俺のおかげで大儲けした事になるのだ。単なる嫌味か?
それにしても、おすそ分けが馬車500台の小麦?さっぱり分からん。通常の贈り物なら貴金属や宝石類のはずだ。かさ張るだけでさして価値のない小麦を、貴族に対する贈物にしてどうするというのだ。
アデライデは昔から俺には理解できぬ女だったが、さらに磨きがかかってきたとでもいうのだろうか。
まあ、いい。副書状を見ろというのだから、まずは読んでから考えよう。
ーーー 一枚目の書状 ーーー
この書状を携えてきた者にヴィッラーニ商会は下に記す量の小麦を即日渡すことを約束する。
小麦の量:
37日目の小麦の量の15分の1
なお1日目の量を小麦1粒。2日目以降は前日の倍量とする。
この約定を
フィレンツェ所属 ヴィッラーニ商会 コジモ(商会印)
ーーー
なんだこれは。小麦の手形か?
ヴィッラーニ商会は、ここフィレンツェの商売を牛耳る大商会である。その大商会の手形がなぜトリノ辺境伯から送られてくるのか、理解できない。
さらに理解できないのが小麦の量だ。多いのか少ないのかさっぱりわからぬ。
2つ目3つ目の副書状を開いてみたが、内容はほぼ同じ。小麦の量と商会名は違っているが、引き渡しを約束する手形である事には違いない。
手形を引き請けているのは、フィレンツェのヴィッラーニ商会とヴェッキオ商会。そしてピサのカエターニ商会とグアランディ商会。いずれもトスカーナ領内の大商人が経営する商会である。
「訳が分からぬ……」
まあいい、悩んでも仕方あるまい。もらえる物なら貰っておこう。詳しくは商人どもに話を聞けばよいだろう。
書状に書かれている商会を明日の朝、呼び出すよう家宰に命じ、俺は蒸留ワインの入ったグラスを傾けた。
ーーー
次話は、「意図せぬ経済戦争」を予定しています。
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