第93話 髭公ゴットフリート3世の半生

  1062年11月下旬 イタリア北部 フィレンツェ ゴットフリート3世(57才)


 フィレンツェの町を強く冷たい風が吹き抜ける。イタリア中部の盆地に位置するフィレンツェの夏は暑く、冬は寒い。その冬がもう間近に迫っている。


 城の物見台から盆地に広がる畑地を見る。数週間前まで忙しく働いていた農民の姿が今日は見えない。本格的な冬が到来する前に無事、今年も小麦の作付けが終わったようだ。


 次の日曜日、教会を訪れた時に豊作を神に祈っておこう。小麦がなければ兵を養えぬからな。


 物見台から降りて執務室へ戻ろうとした時、一際強く風が吹く。冷えた体が寒さに震えた。


「昔は寒さなぞ感じなかったものだがな」


 指折り数えてみると57歳。俺も年老いたという事であろう。自嘲とともに吐き出した息が白かった。自慢であった髭にも白いものが混ざっている。


 若かった頃は燃えたぎるような野心を抱えて生きていた。俺こそがこの世で一番優れている。つまり俺こそが神聖ローマ皇帝に相応ふさわしい。


 俺は公爵であったが、その地位に満足できなかった。自分の上に立つ存在が許せなかった。だから先代の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世に3度、反旗をひるがえした。


 ハインリッヒ3世陛下は強かった。陛下も勇敢だったが、彼の率いるドイツ東方の兵はそれ以上だった。死を恐れず我が陣に突撃してくる化け物ぞろい。まるで歯が立たなかった。


 陛下に2度負けて領地を取り上げられた俺は、イタリアへと落ち延びトスカーナ辺境伯となった。ドイツとイタリアの間には天嶮てんけんアルプス山脈が横たわっている。


「いかな陛下とてイタリアまで大軍を動員できまいて」


 そう、俺は油断していたのだな。


 イタリア人は戦に弱かった。いや、俺がドイツからイタリアに連れてきた家臣団が強かった。俺は中部イタリアにおいて瞬く間に勢力を伸ばせた事で増長した。皇帝陛下恐れるに足りず、と。


 ローマに勢力を伸ばし、西方教会を押さえた。あとは健康問題を抱える皇帝陛下が崩御すれば、俺を阻むものはいない。俺はイタリア王を所望した。


 だが、怒った陛下は大軍を率いてアルプスを超えてやってきた。怖くて震えた。死を恐れぬドイツ兵の突撃が怖い。化け物みたいに強い陛下に俺が勝てるわけがない。


 反乱もこれで3度目なのだ。


「今後こそ殺される」


 戦う前から俺の心は折れていた。恐怖が俺を支配する。恥も外聞もなく、俺は妻子を捨てて逃げた。


 幸い逃亡生活は1年に満たなかった。イタリア遠征の無理が祟ったのか、陛下がドイツに戻ってほどなくして崩御した。


 陛下さえいなければ俺に戦で勝てる奴はいない。


「俺の天下がやってきた! イタリア王に俺はなる!」

 喜び勇んでイタリアはトスカーナに戻ってきたが、迎えてくれたのは冷たい視線。妻子を残して逃亡した俺の権威は見事なまでに失墜していたのだ。



 その日から8年。兵は当てにならぬとからめ手を多用した。 実の弟を教皇位にのぼらせた。油断があれば当主を暗殺し、傭兵を送り秘密裡に領地を荒らしまわった。


 この戦略はイタリア南部では功を奏し、フェルモ伯爵、次いでスポレート公に就任できた。北部でも先代のトリノ辺境伯を毒牙にかけ、今も領地荒らしを継続している。今やイタリアで俺に比肩できるものはだれもいない。


「だが、足りない」


 足りないのだ。何もかも足りない。


 戦わずにイタリアから逃げた事で失墜した権威はいまも回復しておらず、教皇にした実弟ステファヌス9世も1年で暗殺されてしまった。 現教皇アレクサンデル2世を擁立したのは俺だが、イタリア王への就任はやんわりと断られてしまった。


 名分も不足している。 そして時間も俺の味方をしてくれない。


 先代ハインリッヒ3世崩御の後、ドイツ王ハインリッヒ4世がイタリア王を兼任している。幼かったハインリッヒ4世も今や12歳。成人して親政を始めるまであと3年しかない。幼い事を理由に退位を迫れなくなってきた。


 力でも劣っている。


 イタリアで無類の強さを誇る俺も、野蛮なドイツ兵に勝てるとは思えない。アルプスの天嶮てんけんを利用して防ぎたい所だが、北西の峠道をトリノ辺境伯に押さえられている。トリノ辺境伯を味方に引き込もうにも、ハインリッヒ4世の妻はトリノ辺境伯の娘である。考えるだけ無駄であろう。排除するしかない。


 しかし先代のトリノ辺境伯を毒牙にかけ、今も領地荒らしを継続しているにもかかわらず、弱体化の様相を見せないのだ。逆に、アデライデ・ディ・トリノの統治下で勢力を強めている。


「八方ふさがりだな、これは」


 乾いた笑いが口から漏れる。改めて考えを纏めてみると、イタリア王になる糸口も掴めない。


 ああ、何か切っ掛けはないものか。


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