第92話 真・白馬の王子様
1062年11月下旬 イタリア北部 カノッサ城 マティルデ・ディ・カノッサ(17才)
ジャン=ステラからの手紙をそっと手に持つ。くるくると丸められた羊皮紙に、赤い
「マティルデ姫様はまだ執務に携わっておりませんから」 とは侍女のヴィオラの言葉。
でも、絶対、多分それだけじゃない。私が権力を握ろうとするのを義父のゴットフリート3世は恐れてるんだわ。私だってもう17歳だもの。ヴィオラの言葉を鵜呑みにするほど子供じゃないんですからね。
でも、今はそんな事はどうだっていい。大きく深呼吸をして気持ちを切り替えよう。ジャン=ステラからの手紙だもの。きっと私をうきうき気分にさせてくれる。
だというのに、ジャン=ステラ。どうしていつもいつも私の期待を裏切るのよっ!
いいえ、怒ってないわ。驚くやらあきれるやら。それから恥ずかくて顔から火がでそうになって、もう一度驚いた。最後は
「ねえ、ヴィオラ。あなたはジャン=ステラの噂って聞いている? 神の怒りを代行したという噂なんだけど」
「はい、聞いたことがありますわ。神授の聖剣を使って雷を召喚し、神に
そっか、ヴィオラは知っていたんだ。しかし私にとっては初耳だった。
「そんな噂が流れていたのに、どうして私に教えてくれなかったの? 私がジャン=ステラの事を気に入っているってヴィオラは知っているでしょ?」
「ええ、もちろん存じ上げていますとも。マティルデ姫様が小さい男の子にお熱をあげていること、よーく存じ上げておりますよ」
「お、お熱なんて上げてないんだからねっ。単なるお気に入りなの、お気に入りっ」
「はいはい、そうですわね。そういう事にしておきましょう」
「だって私には婚約者がいるんだもの……」
最後の言葉は聞き取れないほど小さい声だったと思う。ジャン=ステラに惹かれているのは間違いない。自分でも自覚している。なのに、気があることをヴィオラから指摘されたのが恥ずかしくて、とっさに否定してしまった。そして自分の気持ちを否定した自分に嫌悪してしまう。
脳裏に浮かぶ2人の顔。一人は大っ嫌いな婚約者、5歳年上のゴットフリート4世。もう一人は可愛い顔をした9歳年下のジャン=ステラ。ジャン=ステラに会ったのは6年前の1回きりなので、本当は顔もあまり覚えていない。それにもかかわらず、やけにクッキリと顔が思い浮かぶのはなぜだろう。
沈み込んでしまった私を気遣ってか、ヴィオラが努めて明るく声をかけてくる。
「ジャン=ステラ様の噂を広めないよう、ゴットフリート様から仰せつかっているのですよ。神の名を
「そうなんだ。だから私に話してくれてなかったのね。それなのに今、噂のことを話してしまって大丈夫なの? お
「大丈夫ですよ、マティルデ姫様。そのお手紙で真相が分かりましたもの」
ジャン=ステラからの手紙には、傭兵への尋問中に偶然雷が落ちてきたのだと書いてある。噂を広めているのはアデライデ様で、トリノ辺境伯家の安全を高めるためらしい。たしかに神授の聖剣を持っていて、神罰である雷を落とせる人がいる領土に攻め込みたくはないわよね。だれだって地獄ではなく天国に行きたいもの。
「そうよね、ジャン=ステラ本人が神の怒りとは関係ないって言っているもの。 って、ヴィオラはどうして中身を知っているの」
「それはもちろん、先に中身を拝読したからですよ。ゴットフリート様から手紙の中身を先に読み、害のないものだけをお渡しするよう命令されていることはマティルデ姫様もご存知でしょう?」
「ええ、それは知っているわ。知っているけど、ジャン=ステラの手紙って特別じゃない。ほら、生理のこととか、
トリートメントといい生理用品といい、ジャン=ステラはなぜか女性の事情にとても詳しい。私の知る殿方とは全く違う。彼らは馬上槍試合に使う槍が素晴らしいだとか、自分の馬の方が大きいだとか、私には理解できない事で張り合ってばかりいる。女性への気遣いはマナーとして教わっているみたいだけど、髪のつやの事には指先ほどの関心も持っていないらしく、天使の輪を殿方から褒められたことはない。ましてや、ぬいぐるみなんて頭のどこにも入っていないだろう。ステラベアはこんなに可愛いのに。
かといって医者や薬師とも違う。生理は病気で悪い事だと言うし、ましてや経血の処理まで心を配ってくれる事はない。清潔にしておかないとだめだと言い、リネンの生理用品や石けんを届けてくれるのはジャン=ステラだけ。
ーーー ジャン=ステラって実は女の子なのかな?
そう考えた事もある。でも違うわよね。女性だからといってトリートメントを作れないし、生理に詳しいわけではない。お母さまとヴィオラも、ジャン=ステラが教えてくれる知識に感心していたもの。
「ジャン=ステラ様って不思議なお方ですよね。どうして女性特有の病である生理のことをあれほど詳しくご存知なのでしょう。お若いにもかかわらず多くの知識をもっておられるのは、やはり神から知識を授かったのではないかと、私のような者は考えてしまいますわ」
そうよねぇ。教皇様をはじめとするローマ教会の方々はだんまりを決め込んでいるけど、ジャン=ステラが預言者であってもいい気がする。事実、コンスタンティノープルの東方教会は非公式に預言者扱いをしていて、司教をトリノに派遣していると、助祭枢機卿のイルデブラント様が教えてくれた。
けれどもジャン=ステラが預言者でもそうでなくても私にはどちらでも構わない。
「マティルデ姫様、ジャン=ステラ様からの贈物はどうされますか」
トリートメントのおすそ分けが欲しいのか、ヴィオラが期待のこもった顔で私に問いかけてくる。
ジャン=ステラはいつも手紙と一緒に贈物を届けてくれる。そして今回は臨時収入があったからといつも以上に大量の贈物を届けてくれた。
トリートメント、リネンに石けん、そして蒸留ワイン。これらいつもの品に加え、なぜか小麦が荷車200台分。私が領内を移動する時に使う荷車が30台ぐらい。200台というのは、半端な量ではないわよね。
そして、ピンクうさぎの縫いぐるみが一匹。私は白や茶色、黒のウサギしか見たことがないけど、ピンク色のウサギもいるのね。知らなかったわ。可愛い色をしているし、今度、家臣たちに捕まえてきてもらおうかしらね。
「蒸留ワインはいつも通り全部お
「ゴットフリート様は蒸留ワインを大変お気に召しておられますから、大変喜ばれると思いますよ」
そうね。お義父様だけでなく、息子のゴットフリート4世もそろって蒸留ワイン好き。なのに蒸留ワインを作っているのはトリノ辺境伯だけだから入手が難しく、思うように飲めないと愚痴をこぼしているらしい。
ーー もしかして、ジャン=ステラとの手紙交換が許可されているのは、このワインのお陰?
私への贈物になぜお義父様あての蒸留ワインが混ざっているのかと思っていたけど、そういう事か。お義父様とトリノ辺境伯家とは仲が良いとは言い難い。先代神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世の時から険悪だったらしいから、根は深いのだろう。そのため、トリノ辺境伯家のジャン=ステラと私が仲良く交流を持つ事を、お義父様が
今までだって事前に読まれているのですもの、ジャン=ステラからの手紙が無事届いている方が不思議だったのだと、気づいた。つまり、お義父様はお酒に負けていたのね。
そう気づいたら、思わず笑みが零れていた。
ーー 私のジャン=ステラの勝ちね!
「小麦の方はいかがいたしましょう」
「沢山あっても私一人では食べられないもの。どうでもいいわ。うーん、でもそうね。小麦に引き換えておいてもらえるかしら。もうすぐ
「マティルデ姫様のご厚情に感謝いたします」
私がトリートメントをあげると言うと、ヴィオラは喜色を隠そうともせず笑ったあと、深々としたお辞儀を返してきた。よっぽど欲しかったみたいね。そのあとすぐ、ヴィオラは贈物を仕分けするといそいそと退室していったもの。
部屋の中には私一人。ようやく一人になれた。一人になってジャン=ステラからの手紙、その最後の一文をじっくりと考えたかったのだ。
「おねえちゃんの白馬の王子さまになりたいジャン=ステラより」
王子って王様の子供ってことよね。ジャン=ステラが王子様ということは、アデライデ様をイタリア王にでも
ふーふー。深呼吸して頭を冷やし、もう一度考え直しましょう。明るい未来がきっとあるはず。
私が王女だったら、ジャン=ステラが王子様になれるわよね。つまりお義父様をイタリア王にする見返りに私と結婚したいってことかしら? うん、これなら
お義父様はイタリア王になろうと画策しては何度も失敗している。王座が見返りならば私とジャン=ステラの結婚も許してくれるに違いないわ。こんな方法、よく思いついたわね。 ジャン=ステラ、すごい!
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