第91話 夢と現実

 1062年11月中旬 イタリア北部 カノッサ城 マティルデ・ディ・カノッサ(17才)


 お城の窓から外を眺める。小さな城下町と広々としたポー平原。青い空をV字になって飛んでいる鳥も見える。


「私も空が飛べたらいいのに。そうしたら城を抜け出せるのに……」



 おかしいわよね。私ってばトスカーナ辺境伯のはずなのにカノッサ城から出してもらえない。抜け出そうとしても、お母さまの再婚相手であるゴットフリート3世の配下たちが見張っている。


「あなたも変だと思わない?」


 窓際に置いてあるステラベアに今日も話しかける。


「ちょっと馬に乗って城を抜け出してみたり、使用人に変装して脱出しただけなのに。ひどいわよね」


 話し相手はクマの縫いぐるみ。5年前にジャン=ステラからもらった私の大切な宝物。


「うん、僕もひどいと思うよ。次に抜け出すときはクレオパトラをまねして絨毯にくるまって使用人に運んでもらうのはどうかな?」

 ステラベアは話してくれないから、私が代わりにステラベアの腕を動かし声をだす。



 こんな一人遊びを侍女のヴィオラには見せられない。お人形遊びなんて小さい子供のすることだって怒られちゃう。いえ、この間は怒られなかったわね。これみよがしに盛大な溜息ためいきをつかれたっけ。


「マティルデ姫様は婚約者もおられる17歳なんですよ。はぁぁ……」


 溜息をつきたいのは私の方よ。先祖代々のお城とはいえ幽閉されているのですもの。それに婚約者とはいえゴットフリート4世って最っ低な男じゃない。私よりも5歳年上なのに、宴席ではいつもオドオドしていて私と目を合わせて話すこともできない。義父ゴットフリート3世の顔色ばかりをうかがって、後ろを金魚のふんみたいにくっ付いて歩いてる。背中ががっていて風采ふうさいもあがらない。溜息どころか、本気で泣けてくる。


 ゴットフリート3世の血筋を残すために結婚しろってお母さまから命令されていなかったら、誰があんな男と結婚なんてするものですか。あぁ、女性が自由に結婚相手を選べるような楽園がどこかにないかしら。


 何度目かの溜息が口から漏れた頃、部屋に侍女のヴィオラがやってきた。


「マティルデ姫様、ご機嫌はいかがですか?」

「いつも通り最低よ。ねえ、なにか楽しい事はないかしら」

「今日はお手紙をお持ちしました」

「ふーん、誰からかしら」


 ヴィオラが机の上にそっと手紙を置く。それを見ながら興味なさげに返事を返す。


 実権はないけれど私はトスカーナ辺境伯。各地の貴族や商人達から日常的に手紙が届く。手紙を受け取ったら返事を出さなければならないから、正直あまり嬉しくない。


 例外があるとすればジャン=ステラだけ。あの子からの手紙はいつもわくわくする。いつも珍妙な事をしでかして驚かせてくれるし、突拍子もない行動にはらはらさせられる。天使の輪っかができるトリートメントも贈ってくれるし、ステラベアみたいに私の心を慰めるプレゼントも贈ってくれる。


 2か月前に届いた手紙には、お母さまに騙されてアオスタ伯爵になっちゃったって書かれてた。伯爵になりたくない人がいるだなんて考えたこともなかった。でも。うーん。たしかに私も自由になれるなら辺境伯なんていらないわ。案外似たもの同士かもね。


「あ~あ、ジャン=ステラが婚約者だったらよかったのに」

 何度そう思ったことか。ジャン=ステラが私よりも年上ならそんな未来図もあったのかもしれない。家柄も釣り合っているし、四男坊なので婿にとることもできる。


 でも現実は甘くない。あのゴットフリート4世が私の婚約者。苦味ばかりの現実に押しつぶされてしまいそう。


 ジャン=ステラは半年に一度くらい手紙をくれるから、今度手紙が届くのは4か月も先のはず。侍女のヴィオラが持ってきた手紙はジャン=ステラからではないだろう。


 あー、いやだいやだ。城からも現実からも抜け出したい。


「マティルデ姫様」

「なによっ」


 手紙を無視して外を眺めていたらヴィオラに呼びかけられた。私は気持ちが落ち込んでいるのよ、見てわからないの? 手紙を読むような気分じゃないの。不快な気持ちを言葉に乗せてヴィオラに叩きつけた。


 それなのに、ヴィオラは全く怯まない。くすくす笑いながら柔らかい声で続きを話す。


「ジャン=ステラ様からのお手紙ですよ」

「もう、それを早く言ってよね!」


 ジャン=ステラ、その名前だけで心が跳ねる。私の鬱屈うっくつを爽やかな風が吹き飛ばす。今回の手紙には一体何が書かれているのだろう。

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