第60話 お母さま苦渋の決断

1057年9月上旬 イタリア北部 トリノ トリノ城館 ジャン=ステラ


「トリノ辺境伯家は、神聖ローマ帝国皇帝の家臣であり続けます」

お母さまの宣言に僕は困惑の色を隠せない。


トリノ辺境伯は、神聖ローマ帝国の一諸侯、つまり皇帝の家臣だよね?


僕にとって当たり前の事実だけどお母さまは悔しそうだし、イルデブラント助祭は喜んでいる。


残念ながら、僕の理解が及んでいない。

イルデブラントがいる前で質問するのは悔しいけど、このまま退室を許してしまっては良くない気がする。


「お母さま、トリノ辺境伯家は皇帝に従っているはずですよね?」

「もちろんそうよ、ジャン=ステラ」

「だったら、どうして家臣であり続ける宣言する必要があるのですか」


お母さまはイルデブラントの方をちらと見た。

答えるべきか逡巡しゅんじゅんしているのだろう。


一拍の後、溜息をついたアデライデは、答える事に決めたらしい。


「そうね。ジャン=ステラは摂政見習いですものね。知っておいた方がよいかしら。

それに、イルデブラント様もジャン=ステラを見定めたいでしょうから」


最後のセリフを言い終える頃、アデライデに茶目っ気のあるいつもの笑顔が戻ってきていた。


(この笑顔だけでも、質問した甲斐があったね)


「ジャン=ステラ、あなたは現在の皇帝がどなたか知っていますか?」

「現在は空位ですが、ハインリッヒ4世陛下が次代の皇帝ですよね」

「そうね。ドイツ王であるハインリッヒ4世陛下が皇帝に最も近い位置にいるのは間違いないわ。でもね、確実ではないの」



神聖ローマ皇帝に就任するためには3つの条件をクリアする必要がある。

一つ、ドイツ王であること。

一つ、イタリア王であること。

そして、ローマにて教皇猊下から皇帝に任命されること。


ハインリッヒ4世はこのうちドイツ王しかクリアしていない。

さらに、彼がドイツ王である事を認めない勢力が2つ台頭してきている。


ドイツ北方沿岸地帯を治めるザクセン大公と、ドイツ南方のシュヴァーベン大公。


彼らは、皇后アグネスと若干7才のハインリッヒ4世に軍を指揮する能力がないと見て、好き勝手行動している。


そんな彼らに対し、皇后アグネスは懐柔を試みているが、情勢は芳しくないらしい。


ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを皇女マティルデ(9才)の婚約者とし、皇帝家に取り込もうとしたが、逆に乗っ取られそうな勢いなのだとか。


このような状況下で、親ハインリッヒ4世だった教皇ウィクトル2世が亡くなったのだ。

皇帝家が没落し、帝位が他に移る可能性が出てきているといっていい。



では、だれの手に移るのか。


「ゴットフリート3世が帝位に挑むのだと、ここに居られるイルデブラント様が伝えてくださったのよ」


ゴットフリート3世の方針は次の通りと、お母さまが説明してくれた。



ゴットフリート3世はトスカーナ辺境伯に加え、先日中部イタリアのスポレート公の爵位も手に入れている。

既にイタリアに並ぶ者のない大勢力となっているのだ。

ゴットフリート3世の実弟である新教皇ステファヌス9世が、イタリア王位を与えるのも時間の問題だろう。


ドイツ王になるのもそれほど難しいとは思えない。

ゴットフリート3世は10年前まで上ロートリンゲン大公であったし、ザクセン大公とは何代にもわたって縁戚関係を結んでいる。

ハッキリ言ってしまえば、イタリアよりもドイツの方に地縁があるのだ。

血縁、地縁、軍事力と3つ揃っていれば、ドイツ諸侯からの反発は弱いものとなるだろう。


そして最後は、実弟である教皇からローマ皇帝に戴冠してもらえれば新王朝の誕生だ。



「いえいえ、私はゴットフリート様から何も伺っていませんよ」


すかさずイルデブラントは、お母さまの言葉を否定する。


それに対しお母さまは、声を挙げて笑った。

「ほほほ。たしかに、イルデブラント様は明言していませんでしたわね。

ほのめかし、贈物で透かし脅かし、言質を取ろうと試みる。

さすがは、教皇の懐刀ですわね」


「いえいえ、平民・・上がりの非才な身にありますれば、ご容赦くださいませ、アデライデ様」

「ご謙遜も過ぎると嫌味になりますよ、イルデブラント様」


一幅の絵画のように、アデライデとイルデブラントが仲良く笑いあう姿がそこにあった。

ただ、2人とも目が笑っていないのが玉にきずだけどね。



そっか、お母さまがイルデブラントを紹介してくれたけど、「平民出身」っていうのは、あざけりだったのか。


農民から成りあがった太閤秀吉さんみたいに、称賛だと僕は勘違いしていたよ。

お母さま、そして今の僕のような貴族階級からすれば、イルデブラント助祭の存在は脅威と感じてもおかしくないのか。

うん、一つ賢くなった。というか貴族社会、めんどくさい。


しかし、ここまで説明してもらったのに、先ほどの言葉、

「トリノ辺境伯家は、神聖ローマ帝国皇帝の家臣であり続けます」

の意味がわからない。


意味というか、トリノ辺境伯家は今後どうするの?

これも聞いてもいいのかな。


「お母さま、神聖ローマ皇帝位を巡る争いを説明下さりありがとうございます。

でも僕、まだどういう事かわからないんです」


おや?という表情を浮かべた二人が、同時に僕の顔を覗き込んできた。


「そうねぇ。ジャン=ステラに国際情勢は難しかったかしら」

「たしかに、そのようですね」


納得しあうお母さまとイルデブラント。

僕を出しにして、2人の息が揃ったかんじ。

対立するよりも仲良くしてくれる方がうれしいけど、できない子扱いされた身としてはちょっと悲しいな。



「イルデブラント様の前で言うことではないのでしょうが、ジャン=ステラには直截ちょくせつに言わないと理解できなそうですね」

「私の事はお構いなく、どうぞお話しください」

「それでは失礼しますね」


イルデブラントとの会話を切り上げたお母さまが、僕に向き直って解説してくれた。


「ジャン=ステラ。私たちトリノ辺境伯家はゴットフリート3世に敵対しない事に決めたのです。

イタリア王、そして神聖ローマ帝国を目指すとしても邪魔はしないと。

そして、ここが重要なのですが、もしゴットフリート3世が神聖ローマ帝国皇帝に就任したら、臣下の礼を取ると宣言したのですよ」

「だから、お母さまは苦悶の表情を浮かべていたのですね」

「そういう事になるかしらね」



僕への説明を終えたお母さまは、改めてイルデブラントに向き直って語りかけた。


「イルデブラント様。この通りジャン=ステラは3歳児にしてはとても賢いですが、人智を超える存在ではありません。その点、ご理解いただけたかしら」


「ええ、頭の回転も早く、素直なお方とお見受けしました。

ただ、貴族の矜持をお持ちでないのではないか、その点が気になりますね」


イルデブラントの「貴族の矜持」という言葉に反応し、お母さまの目線が鋭くなった。

それに気づいたイルデブラントは、謝罪とともに言葉を続けた。


「いえ、良くない言い方でした。アデライデ様、ジャン=ステラ様には謝罪申し上げます。

言い換えるとすれば、平民に対する感情が通常の貴族と異なるのではないかと、感じたのです」


「あら、それはジャン=ステラは城外に出たことがないから、でしょうか。

まだ平民と接した事がないからイメージが湧かないのでしょう」


アデライデの説明に対して、首を横に振りながらイルデブラントは反駁はんばくの言葉を口にした。


「これまで私は幼い貴族の方々とも接する機会が多数ありました。

幼くてもやはり、貴族の子女は貴族なのです」


イルデブラントは姿勢をただした後、改めて僕と向かい合った。

これまでと違い、イルデブラントは緊張を顔に貼り付けながら、僕に質問を投げかけた。


「ジャン=ステラ様。あなたにとっては、貴族も平民も同じ存在なのでしょうか」

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