第38話 愁いを払う玉箒

1057年2月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ アデライデ・ディ・トリノ


夫であり、トリノ辺境伯の共同統治者でもあったオッドーネが亡くなってから10日はたったでしょうか。


トリノで一番大きなサン・ジョバンニ大聖堂の地下に亡骸なきがらを納めて以降、私の心は闇に囚われていました。 


その闇の名は復讐。

喜怒哀楽といった全ての感情を黒一色に塗り替えてしまう漆黒の炎が私の心を覆っています。


悔しい事ですが、オッドーネを暗殺した犯人は取り逃してしまいました。

夫を守れず、あまつさえ犯人を捕まえられなかった騎馬隊の副官をなじってしまったのは仕方ない事でしょう。


しかし、実行犯は捉えられませんでしたが、暗殺を命令した者は分かっているのです。

正面から糾弾できるような証拠はありませんが、状況から明らかといっていいでしょう。


暗殺を教唆したのは、トスカーナ辺境伯ゴットフリート3世で間違いありません。

先代の神聖ローマ皇帝に2度も反乱を起こした男であり、今まで何度も暗殺疑惑が流れているのです。


その中でも、元トスカーナ辺境伯ボニファーチオを暗殺した手口が、夫オッドーネを暗殺した方法と同じなのです。


報復対象を見つけた私の心で復讐の炎が燃え盛っていました。

それはもう盛大に。 

私もその炎に心を委ねていました。


どうやったらゴットフリート3世に復讐できるのかしら。

復讐できるのならば、この身が滅びてしまっても構わないのです。


トリノ辺境伯家は北イタリアで大きな勢力を誇ってはいます。

しかし、トスカーナ辺境伯は神聖ローマ帝国内で最も大きな領土の一つなのです。

トリノの2倍以上の軍を動かすことができるため、征伐するのは無理でしょう。



“どうすれば報復できるのか、どうやったら復讐できるのか”

脳裏で繰り返されるのは、この言葉ばかり。


その暗い情念を抱えたまま、久しぶりに子供たちと会食をしました。

もちろん、心の闇を子供たちに悟られないよう、平静を装っていました。



私と一緒に昼食の席を囲むのは幼い子供たちばかり。

一番年上で九歳のピエトロを筆頭に、5人の幼い笑顔に心が傷みます。


「こんな可愛い子供たちから父親を奪った男を許すことは出来ない」と復讐心がかき立てられる一方、「復讐にこの子たちを巻き込んでもよいのだろうか」と疑念も浮かびます。


私は復讐を優先するべきなのでしょうか……


『もし俺がこのまま死んでしまったら、ジャン=ステラを頼るといい』

亡くなる直前、オッドーネが言っていた言葉が脳裏に浮かびました。


子供たちの中で一番幼く、いまだ二歳のジャン=ステラ。

しかし、前世の記憶という形で神から預言を賜っているジャン=ステラ。


“そうね、オッドーネの言葉に従い、ジャン=ステラに頼ってみましょう”


世間では「歴史が変わる瞬間」というものがあると聞きます。


成人しているならともかく、たった二歳の幼児に頼るだなんて。

他の貴族家に知れたら笑われ、後ろ指をさされてしまうことでしょう。


オッドーネの言葉がなければ、自分の矜持プライドを守る事を優先し、ジャン=ステラに頼らなかったことでしょう。


しかし、私が頼ると決めたことによって私の心と、そして家族の未来が救われました。

この時こそが、トリノ辺境伯の歴史が明るいものに変わった瞬間だったと私は確信しております。


◆ ◆ ◆ 


昼食の後はジャン=ステラと二人っきりの話し合いでした。


私の執務室で可愛い顔のジャン=ステラと向かいます。

オッドーネが亡くなる前は “ぷくぷくのほっぺを突っついてみたいわ”などという、たわいのない情念が浮かんできたものでした。 

しかし、今の私は復讐の念に囚われているのです。 

ジャン=ステラに申し訳ないと思いながらも、厳しい言葉を投げかけてしまいました。


「早速なのですが、お願いがあります。

 2才のあなたにお願いするのは忍びないのだけど、こんな母を赦してください。

 先に謝っておくわ。

 暗殺を命じた者に復讐するわよ」


私の言葉に顔が引きっていたジャン=ステラでしたが、話し合いの間ずっと真摯しんしに対応くださいました。

愚痴と言うにはおこがましい、私の怨念のこもった言葉を終始親身に耳を傾けてくださっただけでなく、復讐の方法もいくつか考えてくださいました。


そのうちの一つは、富を増やすための技術でした。

畑を深く耕す事の違いを滔々とうとうと説明くださいました。

たしかにトリノ辺境伯領に導入すれば、国力は伸びるでしょう。

ですが、ゴットフリート3世は技術を盗んで国力を上げようなどとは思わないでしょう。

彼ならば侵略と略奪という手っ取り早い道を選ぶにちがいありませんから。


ですが、内容は問題ではないのです。

私と一緒に考えて、同じ立場で悩んでくれる人がいる事が重要なのでした。

私に対するジャン=ステラの姿勢は、私が一人きりではないのだと、言葉以上に語って聞かせてくださいました。


オッドーネが亡くなり、私は孤独だったのだと、ようやく気づきました。

この世に一人ぽつんと残されてしまったと勘違いし、心が闇に覆われていたのです。


悩みを打ち明け、たくさんお話をする。

復讐という課題は全く解決していませんが、それが問題ではなかったのです。

ジャン=ステラは心の闇を吹き飛ばす一陣の風となってくださいました。



小さいお口から紡がれる難しい言葉の数々。

今の私には、心を清めてくれる音楽のように聞こえます。


「ふふふ」

気づくと私は声をあげて笑っていました。


笑ったのは何日ぶりかしら。


ありがとう、ジャン=ステラ。

大好きよ。



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