第33話 憎しみの心と母のお願い
1057年2月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
「それでは、私の執務室に行きましょう」
「はい、お母さま」
昼食を終えた僕は、母アデライデと一緒に城館の執務室へと向かった。
一緒といっても、僕は侍女のリータに抱かれての移動なんだけどね。
執務室へと続く廊下は凍えちゃうほど寒くて、ぎゅっとリータにしがみつく。
リータの温もりが僕に安らぎを運んでくれる。
そこでふと、気づく。
そういえば、母アデライデに抱っこしてもらった事ってあったっけ?
それどころか、手をつないで歩いたこともなかった気がする。
貴族社会って、母子が手をつないで歩くなんてしないみたい。
ちょっと寂しいけど、そういう文化なんだろうね。
“でもね、お貴族様の子供たちってそれで満足しているの?”
前世と合わせたら30才を越える僕はよいとしても、アデライデ
こっちの世界はスキンシップが少なすぎると僕は思うよ。
そんな事を考えていたら、執務室に到着した。
「アデライデ様、ジャン=ステラ様、 どうぞお入りください」
そういって母の側仕えがドアを開けてくれる。
執務室から暖かい空気が廊下にあふれ出てきて、僕を出迎えてくれた。
「リータ、ありがとう。もう降ろしてくれていいよ。重くなかった?」
「いいえ、ジャン=ステラ様はとてもお軽いですから。 」
ここまで僕を運んでくれたリータに感謝の言葉を述べる。
それに対して、リータも微笑みを返してくれた。
「それじゃ、僕はお母さまとお話があるから、終わるまで待っていてね」
「畏まりました。それでは、お呼びがあるまで別室にて控えておりますね」
綺麗に一礼してリータは執務室の外へと出ていった。
母の方も人払いを命じていた。
「ジャン=ステラと2人きりで話をします。 みんな執務室から出ていってちょうだい」
その声に従い、母の側仕えと侍女たち、そして護衛たちも執務室を出ていく。
「ぎぃーー ドン」
ドアが閉まるのを待ち構えていたかのように、それまで凛としていた母の態度が崩れた。
「ふぅ」
アデライデの小さな溜息が僕の耳に届く。
溜息とともに、肩ががっくりと落ち、アデライデの体から力が抜けていったみたい。
昼食後に姉や兄たちを抱きしめていた時と同じく、優しい笑顔なんだけど、今にも泣き出しそうな雰囲気。
お父様が亡くなってから今日までの間、ずっと心が張りつめていたんだろうな。
それが、すこし緩んで、心の奥底に封じこめていた感情が表にでてきただけ。
「こんなだらしない姿を見せてしまってごめんなさいね。」
アデライデが弱弱しい口調で話し始めた。
オッドーネが亡くなってから苦しかったと、その心情を語ってくれた。
「オッドーネ様が亡くなってしまって、それから色々あったでしょう。
今日まで頑張ってきたけど、もうだめなの。
これまでは、オッドーネ様が私の愚痴をなんでも聞いてくれて、私の心を受け止めてくれいたわ。
でも、あの人が亡くなってしまって。
亡くなってしまった事ももちろんすごく辛いのよ。
もうこの世で再び会う事ができないのは、心を引き裂かれる思いがするわ。
それに、領主の仕事も増えてしまうし、軍を率いる者がいなくなったトリノ辺境伯家や子供たちの将来も心配。
だけど、心を開いて話すことができる人がいない事が、こんなに苦しい事だったなんて知らなかったわ。
私にとってオッドーネ様が、唯一心を取り繕う事なく話すことができたお方だったの。
思ったこと、感じたことを感情のままに吐露する事が出来なくなって。
溜まった感情が、私の心をかき乱し、いまにも暴れだしそうなの。
残された私がしっかりしなくては。 もう私しかいないんだもの。
そう自分に言い聞かせてはいるのだけど、限界が近いと自覚してるわ。
昼食を採っていた時、あなたも気づいていたでしょ。
私が泣きそうだった事を。」
うん、 お母さま。 僕も気づいていたよ。
姉や兄達を抱きしめていた時、顔が苦しそうに歪み、泣き出しそうになっていた事を。
それに、話を聞いてくれる人の大切さも知っている。
友達に自分の辛かった事、悲しかった事を話すだけで、心が軽くなる。
どんな苦しい事があっても、聞いてもらえるだけでもうちょっと頑張ろう、そう思えるくらいだ。
“そうか。 お母さまは、心を開いて話す相手がいなくなってしまったんだ”
それは、とても辛い事だろう
僕は優しく頷き、涙が零れ落ちつつあるアデライデに先を促した。
「家族の前だけじゃないわ。
家臣たちの前でも気を付けないと、涙が零れ落ちそうになるの。
あぁ、オッドーネ様が生きていたらよかったのに。
そう考えないでは居られない。
残されたものは苦しいわね。 」
その通りだ。
亡くなった者は天国の扉の前で待っていればいい。
しかし、残されたものは苦しくても精一杯、日々を生きなければならない。
自分の事だけではなく、子供たちの事まで心配しなければならない。
「そう考えていた時、オッドーネ様が亡くなる間際に言われた言葉を思い出したの
『もし俺がこのまま死んでしまったら、ジャン=ステラを頼るといい』
だからね、ジャン=ステラ。
あなたを頼ってもいいかしら」
父オッドーネの言葉が重い。
僕を信頼してもらえてたのは正直、嬉しい。
でも、頼られたからといって、僕に何ができるのだろう。
「でも、僕はまだ2才ですよ」
「ええ、知っているわ。 そして、前世で生きた知識があることも」
「たしかに、前世もあわせたら30才を越えますけど…」
正確には31歳。 それでも、肉体は幼児でしかない。
外は危ないからと、城から外にも出たこともない。
アデライデは言葉を続ける。
「一番のお願いは、私の話を聞いてもらいたいの。
今もそうだけど、聞いてもらって、それを受け止めてもらえるだけでも嬉しいのよ」
たしかに、聞くだけでなら、僕でも出来そう。
お母さまの役に立てるなら。 そう思い了承する
「お母さま、話を聞くだけなら、いくらでも聞きますよ。
僕ができるのはそれくらいですからね。」
すこしでもアデライデの心が軽くなれば。
そう願わずにはいられない。
「ありがとう、ジャン=ステラ。
その事だけでも、生きる希望が湧いて出るわ」
アデライデから自然な笑みがこぼれ出たように感じた。
だから、僕も笑顔を返す。
「どういたしまして。」
「それでね、ジャン=ステラにもう一つお願いがあるの」
「お母さまの頼みですもの。 僕が出来る事ならなんでもOKです」
アデライデの話はまだ続きがあったみたいだ。
「OK? 了承してくれたってことかしら」
言葉の意味が分らなかったみたいで、アデライデが小首をかしげる。
その仕草がちょっと可笑しくて、可愛らしい。
先ほどまでの泣きそうな顔とは比べ物にならない。
「まあ、いいわ。お願いしたい事はね、あなたの知識と知恵を貸してほしいのよ」
肉体を使った仕事は無理だけど、頭を使うだけなら、僕にもできる。
せっかく前世の知識があるのだから、それをお母さまのために使ってあげたい。
そう思い、僕は気軽に返事をした。
「もちろんですよ、お母さま。
といっても、どれだけ役に立つのか分かりませんが、頑張りますね」
藤堂あかりとして生きた前世の記憶で役立ちそうなものと言えば、小学校から大学院までの授業で習った知識だとおもう。
だけど、そのほとんどは知識だけで、実践を伴っていない。
いうなれば、机上の空論ってものである。
実践した事といえば、バイトや教育実習先でお手伝いした牧場経営とか、馬や牛といった家畜の飼育や出産のお手伝いくらい。
城から外に出してもらえない僕にとっては役立ちそうにない。
でも、僕がやる気を見せることでお母さまが元気になるならそれで良いいのです。
お母さまのお願いに快く応じる事を伝えたら、お母さまの笑顔に凄味が加わった。
か細い感じだったアデライデの目に、強い意思の力が戻ってきたみたいだ。
「ジャン=ステラ、本当にありがとう。 心から感謝するわ。
そして早速なのですが、お願いがあります。
2才のあなたにお願いするのは忍びないのだけど、こんな母を赦してください。
先に謝っておくわ。」
あれ?
どうしたのかな。
お母さまの顔がだんだん般若みたいになってきた。
それに、言葉とちがって、ぜんぜん申し訳なさそうじゃないんですけど?
「暗殺を命じた者に復讐するわよ」
心が凍えるような一言がアデライデから発せられた。
ただし、それは一瞬で、すぐ後にはいくぶん柔和な顔に戻っていた。
「だから、あなたの知識と智慧を貸してください」
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