第32話 滅亡の危機

1057年2月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ


寒い日が続いている。

分厚い雲が空一面を覆っており、昼でも部屋の中が薄暗い。


“僕の心と一緒だなぁ”


父オッドーネが暗殺されてから1週間はたっただろうか。


その亡骸はトリノで一番荘厳な建物であるサン・ジョバンニ大聖堂の地下に安置されている。


葬儀では誰もが皆、泣いていた。


もうオッドーネと話すことは出来ない。


「オッドーネ様は天国への扉の前であなた方を待っています。

 ですから、少しの間だけ、お別れしましょう」


新約聖書によると、この世界が終わる日、神が人の罪を裁く。

人々は死んだ者も含めて、裁きの日が来るのを天国への扉の前でずっと待っているのだそうだ。


“死んだらまた会えるのですよ”

葬儀を執り行ってくれた司教が教えてくれた。


親しいものが亡くなった人の心の痛みを和らげるための言葉。

嘆き悲しむ心を少しでも癒し、明日へと再び歩み始めるよう、神を使って訴えている。


死者が天国の扉の前で本当に待っているのか、待っていないのか。

それは残された者にとって関係のない話。

信じる事で救われる人々もいるんだろう。


司教の説教を聞いた後、母アデライデや兄姉達の顔は少し元気になっていた。


けれども僕はそれを信じることはできない。

頭を空っぽにして受け止められたら、少しは心が晴れるのかもしれない。


しかし前世の記憶がそれを邪魔する。


クリスマスやハローウィーンは友達と一緒に楽しんだ。

正月には初詣に行くし、子供の頃は3月3日の桃の節句も祝ってもらった。

法事の日には、お経をあげるためにお坊さんが家を訪れていた。


神様仏様は身近な行事と結びついて存在していた。

だが漠然と死んだら無に帰るって思ってたのだと思う。


それに前世の知識があるって事は、少なくとも僕には前世が存在したって事だよね。


まだ仏教の輪廻転生の方が信じられる。


うじうじ、うだうだしていた僕の心の霧を一刀両断したのは母アデライデの冷たい一言だった。


「暗殺を命じた者に復讐するわよ」


    ◇    ◆    ◇


家族一緒の昼食が終わった後、母アデライデに執務室に来るように言われた。


「ジャン=ステラ、この後、私の執務室に来てもらえるかしら。

 あなたとお話したいことがあるの」


にこやかな顔で母アデライデがそう言った。

うーん、にこやかと言うよりも、晴れやかとか、爽やかといった感じかな。


アデライデはオッドーネの葬式からずっと塞ぎこんで、暗い顔をしていた。

葬儀が終わってもう1週間が経つ。

心の整理が終わったのかな。


さすが大人だよね。

僕はいまだ胃の辺り重い石が入っているんじゃないかって位、こころが晴れない。


“すごいなぁ”

そう思いながら、アデライデへ返事をした。


「ええ、わかりました。 僕だけですか。 アイモーネお兄ちゃんは? 」

「そうね、人払いをして2人っきりで話がしたいのよ」


これまでも人払いをした執務室で話すことはよくあった。

それでも、母アデライデと2人で話すことはなく、オッドーネかアイモーネがいつも同席していた。


今年31才になるアイモーネは父方の従兄で、トリノ宮廷の司祭を務めてくれている。

オッドーネが死んだ今、成人している親族の男衆はアイモーネただ一人。


僕の教育係でもあるので、人払いの場でも僕と一緒にいるのが常だった。


“あれ? いつもと違う?”


そう思ったのは僕だけじゃなかったみたいで、アイモーネが一瞬だけアデライデの方を見た。


アデライデはアイモーネに対して、小さく頷いた。

それに対し、アイモーネも小さく頷き返し、いつも通りのすまし顔にもどった。


“うーん、この一瞬で通じるような内容なのかな”


まぁ、内容については執務室にいったらわかるから、なんでもいいか。


一方、アイモーネと違って納得いっていないのが、姉と兄たちであった。


「ジャン=ステラばっかりずるい」


今年6才になるアデライデねえの“ずるい”をきっかけに、兄達がぶーぶー文句を言い始める。


「そうだよ、僕だってお母さまと秘密の話がしたい」

「僕もだよ。 いっつもジャン=ステラばかりじゃん」

「ぼくもお母さまにぎゅっとしてほしい」


長男ピエトロ(9才)、次男アメーデオ(7才)、三男オッドーネ(4才)が次々とアデライデに訴えた。


母と話がしたいだなんて、かわいい事を言うよね。

姉も兄たちも全員まだ反抗期を迎えていないから、親にとっては可愛い盛りにちがいない。


ちょっと心がほっこりした。

まぁ、2才の僕に言われたくはないだろうけどさ。


というか、母にとって僕はかわいくない子供なのかもしれない。

親にとって末っ子が一番可愛いってよく言われる。

それなのに一番かわいげがないのが、末っ子の僕。


“可愛げがない子供でごめんね”

心の中でアデライデにちょこっとだけ謝っておく。

意図して可愛げなくしているわけではないんだよ。

前世の記憶があるから、うまく甘えられないだけなんだ。



そんな事を考えている間も母と姉兄たちとの会話は続いている。


「もちろん、あなたたちともお話したいと思っているのよ。

 小さい子から順番だから、お兄ちゃんたちは明日まで待っていてね」


そんな姉と兄たちに母アデライデはやさしく微笑みながら、一人ずつ順に抱きしめていった。


「うん、わかったわ」

「僕、一番のお兄ちゃんだから最後かぁ。 でも待つよ」


アデライデねえとピエトロにいがニコニコ顔でうれしそう。

アメーデオにいとオッドーネもにいは、 “早く早く” っとハグの順番を待っている。


家族の微笑ましい一場面だよね。

うんうん。


そう思っていたけど、何か違和感があった。

なんだろう?


母アデライデの顔が苦しそうに歪んでいるのだ。

今にも泣き出しそうになっている。


それを子供たちに悟られないよう頑張って笑顔を取り繕っている。


それが僕の感じた違和感の正体だった。


幸せな家族だったら、子供を抱きしめるときに辛くはないはず。


じゃあ、母アデライデはなぜ悲しそうなのか。


もちろん、父オッドーネが亡くなったのだから、それは悲しいはずだ。

だが、先ほどまで母アデライデはいつもの笑顔だった。


なぜだろう。

そう考えた次の瞬間、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。


“そうか、トリノ辺境伯家は滅亡の危機に直面しているんだ”


トリノ辺境伯家の跡取りは全員、すごく幼いのだ。

一番年上の長男ピエトロでも9才に過ぎない。

日本だった小学4年生である。

騎士見習いをしているとはいえ、戦場に立てるのはまだ5年は先だろう。


アイモーネは成人しているが、彼は父方サヴォイア家に属している。

そのため、アデライデ直属のトリノ辺境伯の軍を束ねる正当性がない。

また、宗教指導者に向いた融和な見た目の通り、荒事には向かないだろう。


父オッドーネ亡き今、トリノ辺境伯家の軍を束ね、戦場に赴く者がいないのだ。


だから母アデライデが戦場に立つ心算つもりなのだろう。

若いころは騎士に混じって馬上槍試合にも出たと言っていた。

今でも城の倉庫に母専用の鎧が残っている。


オッドーネが生きていた1か月前までは、再び鎧に手を通す事になるとは全く思っていなかっただろう。


アデライデは僕を含め子供たちを守るため、トリノ辺境伯家を滅ぼさないため、馬に乗って戦場を駆け回るのだろう。


「女は弱し、されど母は強し」

そんなことわざがある。


母になったからといって強くなるわけではない。

ただ、子供を守るためには強くなるしか方法がないのだ。


その悲壮な覚悟が、子供たちを抱きしめた時、ついアデライデの顔にでてしまったのだろう。


でもね、お母さまだけを矢面に立たせるわけにはいかない。

あんな辛そうなお母さまを見ているだけなんて僕にはできないよ。


“僕はお母さまのために、何ができるのだろう”

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