暗雲

第30話 暗殺の影

1057年1月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ オッドーネ・ディ・サヴォイア


「また雪が降ってきそうだな」


20騎の騎馬隊が街道を進んでいく。

その中央すこし後ろを進むオッドーネが空を見上げて一人つぶやいた。


空は厚い灰色の雲に覆われている。 

いますぐ雪が降り始めてもおかしくない雲行きだ。


そして、オッドーネが騎乗している馬の吐く息が白くたなびいている。

もちろん、自分の息も白い。


同じくらい寒かった昨日よりもはっきりと白く見えるから、そろそろ雪が降ってくるだろう。

オッドーネはそう判断したのだ。


湿度が高いほど吐く息の白さは増していく。

そんな理屈はしらなくても、アルプスのふもとで育ったオッドーネにとっては当たり前の事なのだ。


「次の広場で小休止をとる。 その後はトリノまで休憩なしだ」

オッドーネに並んで馬を歩ませる副官にそう伝える。


「はっ」

小気味よく短く返事をした副官が、隊員達に伝えて回るため、前方へと馬を走らせた。


それを見送りながら、オッドーネは自分の家族に思いを馳せる。

“早く、アデライデや子供たちの顔をみたいものだな”


トリノ辺境伯であるオッドーネは、年明け早々から精力的に領内を巡回しており、あまり家族との時間を持てていない。


昨年、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世が亡くなった。

君主が代替りすると、その領地は多かれ少なかれ混乱するものだ。


だから今こそ内乱が発生した場合に備えておかなければならない。

食料の備蓄を多くせよ、武具の手入れを怠るな、城壁は壊れていないかと、村々を指導してまわっている。


それは分かってはいても、冬の巡回は辛い。

単純に寒いのだ。

すでに手足の指先がしびれていて、感覚がなくなっている。


地道に巡回する事が領地を守り、ひいては家族を守ることに繋がるから、と自分に言い聞かせなければやってられない。


小休止をして体を温めたら、あとはトリノに戻るだけ。

オッドーネの心は既に家族の元に飛んでいた。


きっと隊員たちも同じだったであろう。

かじかんだ体を温めたい。 そしてはやく家に帰りたい。


この油断が、すこし後の悲劇へと繋がった。


    ◇    ◆    ◇


「安全確認、その後急いで焚火をたけ」


副官の号令で隊員たちが一斉に馬を降りた。

そして、広場の端々へと散っていく。


オッドーネ一行は、これまでに何度となく使ってきた街道沿いの広場に到着した。


この広場はあまり広くない。

しかし、薪をとる森に面しており、そして川が近くを流れており水を使うことができる。


そのため、商人たちが使う姿もよく見られる。

しかし、今は冬。

広場にいるのはオッドーネの騎馬隊だけである。


人気のない広場を、常日頃の訓練通り、不審な点がないか隊員たちが見回りをする。


オッドーネと少数の護衛たちは馬に乗ったまま。

安全が確認されるのを待っている。


広場の周囲には雪が積もっている。

だから、隊員達は森に向かう足跡がないか広場の周囲を確認してまわるだけでよい。


もちろん足跡があれば、その先に不審者がいないかを確認しなければならない。

しかし、雪の上に足跡は残っていない。


それを確認した隊員たちが戻ってくる。


「人影なし。足跡なし。安全確認おわりました」


復命する大きな声が広場に響きわたった。


ただ、隊員達は気づくべきだったのだ。

人の気配に敏感なウサギなどの小動物の足跡もなかった事に。


携行していた薪に、これまた携行していた火種を使って焚火をおこそうと隊員たちが動き出した。


オッドーネを護衛する者たちはその作業を見守っている。


“まだ火はつかないのか”

“早く体を温めたい”


無意識にそう思っているのだろう。

護衛達の目は薪に火をつける隊員たちの動きを追い続けている。


「ブンッ」


かすかな重低音がオッドーネの耳に届いた。

聞きなれたその音は、矢を放ったクロスボウの弦の音。


“なぜ、弦の音が聞こえるのか”


そう思う間もなく背中に衝撃が走った。


「ボフッ」


鈍い音がする。

そうか、矢が突き刺さったか。


「オッドーネ様!」


護衛達が慌ててオッドーネを囲む。

だがもう遅い。


「あっちだ。あっちから矢が飛んできた」


護衛の一人が森の奥を指し示す。

その先には白い人影が一つ。川の方へと逃げていく。


「追え、追うんだ。決して逃がすな」

副官が絶叫しつつ、隊員に下知をだす。


オッドーネは背中に熱い感覚が広がっていくのを感じている。

不思議と痛みは感じない。


「オッドーネ様。今、矢を抜きます」

「ああ、任せる」


不幸中の幸いか、矢と一緒に矢じりも簡単に抜けた。


“新調したスケールアーマーが少しは役に立ったかな”

そんな事が脳裏に浮かぶ。


だが、安穏とはしていられない。

抜いた矢じりは黒く光っている。

毒が何重にも塗られていたのであろう。


毒が体にまわったら動けなくなる。

傷口を洗ったら、トリノに戻ろう。


アデライデ、君の顔をもう一度見れるだろうか

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る