第17話 トリートメントは切り札なの?


 1056年9月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ オッドーネ・ディ・サヴォイア


「オッドーネ様、 そろそろジャン=ステラと話し合いをする時間ですよ。 その前に一息つきませんか?」

 妻のアデライデが私に声をかけてきた。


「もうそんな時間か。話し合いの前に確認しておきたいこともあるから、何か飲みながらすこし話をしようか」

 羊皮紙から顔をあげ、こちらに微笑みかけているアデライデを見ながら答える。

 そして凝った肩をほぐすため腕をぐるぐるまわしながら側仕えに白湯を持ってくるようにいった。


 机の上には羊皮紙と木簡の山がそれぞれ2つできている。片方は処理済みでもう片方は未処理の書類。


 3日前、領地巡回から帰還して以降、精力的に執務をこなしているつもりだったが、まだまだ終わりが見えてこない。もともと頭を働かすよりも体を動かす方が得意なオッドーネにとって書類処理は苦手な仕事である。


ーー  苦手な事から逃げ出すことのできた子供時代が懐かしいな


 大領地を治める貴族として尊崇のまなざしを受ける代償と割り切って、頑張るしかないと頭は理解している。 理解はしていても逃げ出したくなるのは仕方ない。しかし、今は時期が悪い。


 神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世が病の床に付き、いつ死ぬともしれない状態である。たった6才でしかないハインリッヒ4世が後を継いだ後、内紛が起こる可能性は高い。内紛によって国力が低下したら神聖ローマ帝国東方の諸国、ポーランドやボヘミアが攻め入ってくることだろう。


「ふぅ。 君の顔を見ながら白湯を飲むと疲れが飛んでいくよ。 それにしても美しくなったね、アデライデ」

「まあ、オッドーネ様ったら」


 側仕えから受け取った白湯を飲みつつ、本題に入る前の他愛のない話をはじめる。


「いや、ほんとうに綺麗になったよ。 それがジャン=ステラが作ったというトリートメントの効果なのかい?」

「ええ、そうなんです。 髪を綺麗でつやつやにしてくれるんです。 これを使うと天使の輪が出てくるんですよ」

「天使の輪とはなんだい? 神の御使みつかいである天使と何か関係するのかな」


 天使の輪とはすこし物騒だな、とオッドーネは思う。できるだけ不安が顔に出ないよう、明るい口調でアデライデに問いかけた。


 権威と権力を合わせ持つ宗教と関わる事は慎重に扱う必要があるのだ。それも、神の御使みつかいいたる天使などが出てきては警戒をするのが当然だと思う。


 しかし、その懸念を払拭するようにアデライデはコロコロを笑いながら答えてくれた。


「私の髪を見てくださいな。 頭を一周するように光っている部分がありますよね。」


 そう言われたオッドーネはアデライデの髪をじーっと見た。たしかに頭頂部付近の髪が光を反射して明るくなっている。


 何かが違うとは思っていたが、言葉にしてもらって初めて気づいた。たしかに、光の帯が頭を一周しているように見える。


「これが天使の頭上に浮かぶ光輪のように見えるので、『天使の輪』っていうのだそうです。」

「なるほど、なるほど。神の祝福を受けたように美しい髪という意味もこめられているのかな?」


 私が言った「祝福」という言葉に反応したのか、アデライデの顔にすこしの間驚きの表情が混じったあと、顔を引き締めたのがわかった。


「さあ、それはどうかしら。 ジャン=ステラに聞いてみないことにはわかりません。

 でも、神の祝福、という言葉は慎重に扱う必要がありますね。」


 長年連れ添った夫婦の阿吽の呼吸ってやつだろう。少しの会話でアデライデと共通の認識を構築できた事にオッドーネは喜びを感じた。



「そうだね。言質をとられて弱みを握られないように行動しないとね。最近の教皇はしょっちゅう破門破門とうるさいからね。」

「あなた、それもちょっと言葉がすぎますよ。」


 アデライデがまたコロコロと声をあげて笑っている。


 そんなアデライデを見ながらオッドーネは数か月前の事を思い返す。領地巡回の前はこれほど楽しそうに笑っていなかったな、と。


 トリートメントによって、他の貴族の追随を許さないほど髪が綺麗になった事で、自分に自信がついたのかもしれない。騎士にとって他人よりも腕っぷしが強かったり馬上での槍さばきが巧みである事は、名声を得るために大変重要な事である。女性にとって美貌というのは同じものなのかもしれない。 そうオッドーネは思うのであった。


 場も温まったことだしそろそろ本題を話そうと、オッドーネは姿勢を正してアデライデに話しはじめた。本題とは、いま話題にのぼっていたトリートメントについてである。


 このトリートメントの有効性の確認、はアデライデとの会話で明かになっている。では、商品の価値としてどうみればよいのであろう。たとえば貴族への贈答用として使えるのだろうか。美というものが女性にとって重要なものであるなら、各領地で軍務以外を担っている女性貴族に対して優位に事を運ぶための材料にも使えるはずだとオッドーネの直感が訴えているのだ。


「そのトリートメントについて事前に話しておきたいと思っている。 きみはトリートメントにどのような価値があると思っているのか教えてほしい。」


 アデライデの回答は、オッドーネの直感が正しい事を裏付けるものであった。


 天使の輪は少し離れた場所でも見えるし、装飾品の輝きとも異なる身体自身の輝きである。だから、装飾品とも競合する事もない。そして、アデライデの知る限りジャン=ステラのトリートメントでしかその効果を得られない。


「ですから、本音を言えば他の方に教えたくないほどですわ」


 本当に他の貴族に教えたくはないのだろう。独占したいけど独占できなくて残念だという実感のこもった声でアデライデは話を締めくくった。


「私としても私のアデライデだけが美しいという事にとても興味が惹かれるところだね。でも、アデライデ。 君も知っているように周りの状況が悪すぎる。皇帝陛下が亡くなられたら、内紛が起こる可能性が高い。だから、少しでもトリノ辺境伯家が有利になるための手駒を確保しておきたいんだ」


「ええ、わかっているわ。」

 アデライデが私の手をとり、やさしい声でそう答えてくれた。


「ありがとう」

 オッドーネは感謝の感情をにじませた短い返事を返した。


 私よりも外交手腕に長けているアデライデの事である。 神聖ローマ帝国をめぐる危うい情勢を的確に把握しているにちがいない。


 神聖ローマ皇帝であるザーリア家の本領があるドイツとトリノはアルプス山脈という天険の要害で隔てられている。隔てられてはいてもドイツの内紛とは無縁ではいられないのだ。実際にトリノがあるイタリア北部も内紛の火種はくすぶっている。


 たとえばトリノ南東方向にある地中海に面した商業都市ジェノバが独立の気運を示している。ジェノバはエステ伯爵家の領地として神聖ローマ帝国に属してはいるのだが、商業に長けた在地貴族達が実権を握っており、既にエステ家の支配を脱している。そのため既に半分独立状態であるのだが、ハインリッヒ3世が亡くなり帝権が揺らぐとどのように動くかは分からない。

 

 彼らジェノバにとって重要なのはいかに儲けられるかである。帝国の内紛には関わりたくないし、ましてやドイツの東側から攻めてくる敵国なんて相手にしたいわけがない。ジェノバにとっての敵国とは、地中海を挟んで対面に位置するアフリカ沿岸のイスラム諸国であり、商売敵であるピサなのである。


 もし彼らが神聖ローマ帝国から離脱した場合、帝国の面子を保つために制裁を課すことになるだろう。その時、大きく影響をうけるのがトリノ辺境伯領となる。トリノ辺境伯は地中海沿岸の産物をジェノバからの輸入に頼っているのだ。ジェノバへの制裁なんてできることならしたくないが、トリノ辺境伯家に決定権はない。だから、制裁を発動せざるを得なかった場合に備える必要があるのだ。


 たとえば輸出入のう回路の整備が挙げられる。これについては既に着手している。トリノ辺境伯家の離宮がある地中海の町、アルベンガとトリノ間の道の整備を数年前から行っている。


 ただ、それだけでは受け身に回らざるをえない。ジェノバが和解したくなるような条件、具体的には彼らにとって商売上うま味があるような交易品がほしいのである。トリノの特産品としては、ローマ時代からガラス細工が有名である。 しかしその技術は既に北イタリアに伝播しており、近年ではヴェネチアの方が有名だったりする。だからガラス細工の訴求効果はあまり高くない。


 トリノと交易したくなるような特産品がぜひとも必要とされている。とはいっても、特産品なんてそう簡単に生まれるものではない。望めば産まれるほど簡単だったら、どの領地だって苦労はしていないだろう。そんな所に、現れたのがこのトリートメントである。


 伯爵や公爵といった上位貴族の女性こそが欲しがるであろうトリートメント。美を追求するに欠かせない品だとわかれば、ジェノバの商人たちも食いついてくるであろう。


 だからこそオッドーネにとってこれは神の導きかと思うほどに良いタイミングなのであった。



「それでは、トリートメントをトリノの新しい特産品とする方向でジャン=ステラと話し合いをすることにする」

「はい、トリノ辺境伯家の繁栄のため、一緒にがんばりましょう」



 ーーー

 ジャン=ステラ   たかがトリートメントでそんな大げさな

 オッドーネ     いやいや、すごい品だぞ、これは

 アデライデ     そうですよ。美しいは正義なのです

 オッドーネ     ジャン=ステラも女性を口説くような歳になったらわかるぞ

 アデライデ     あなたが女性だったらこの気持ちがわかるのにね

 ジャン=ステラ   (僕、もとは女性だったけど、ついていけない…) 

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