第16話 治安が不安?
1056年9月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
「ぴー、ちぃちち」
トリノ城館にある子供部屋の窓下の中庭の木で小鳥たちが仲良しそうに会話をしている。
その声に誘われてジャン=ステラは窓から顔を外にだしてみた。
今日の空気には湿気が少ないみたい。
トリノの町を大きく囲むように広がるアルプスの山々がいつもより近く迫って見える気がする。
“産業革命前で石炭を使っていないから、空気がきれいなのかな”
科学が発達した令和時代よりも文明の利器に恵まれない1000年の方が
ただ「自然環境」とは言えないのが残念。 トリノの高台から見るポー平原は森に覆われており、狼などの危険な動物たちが跋扈しているらしい。
森に入るときだけでなく、町と町を結ぶ街道沿いでも注意する必要があるらしい。
オッドーネのように騎士団を連れて領地巡回をする場合は大人数での移動となるため大丈夫。
でも、商人とかが小人数で旅をする時には脅威となるらしい。
“ちょっと隣町までお買い物に行く” といった事は全くできない。
そして狼よりも危険なのが人間である。
お金を持っている身なりで街道を一人で歩いていたら、森や山で仕事をしている人が襲い掛かってくるとアイモーネ兄ちゃんが教えてくれたっけ。
いやはやヒャッハーな世界だね。さすが暗黒時代の中世ヨーロッパってところかな。
例外は司祭などのキリスト教関係者。
「それはキリスト教が庶民のあいだまで普及し、神を敬っているから?」
ってアイモーネ兄ちゃんに聞いたら、違うんだって。
「司祭という立場で模範的にはそう答えたいところだね。
だけどそうじゃないんだよ、残念なことに」
そういってアイモーネ兄ちゃんは僕に事情をおしえてくれた。
たしかに、キリスト教の教会組織は神に由来した権威をもっており、 実際に司祭などの関係者は貴族に準じた扱いを受けている。
でも、庶民が司教を襲わないのは権威に服しているのではなく、権力に恐れ入っているからなんだって。
司教や司祭といった教会のトップの多くは、教会のある地域の領主を兼ねている事が多くて軍隊も持っているのだそうな。
だから、司教を襲い掛かろうものなら、武力による報復が行われることをみんな知っているのだ。
そっかー。宗教が軍隊をもっているのかー。
司教さんが「騎馬隊、突撃ー」とかいって先陣きって攻めてくるのかな。
怖い世の中だね。
宗教って平和な存在じゃないの?
令和じゃ考えられないよ、 驚きだね。
“いや、まてよ”
日本の戦国時代でもお坊さんが軍隊持っていたし、同じようなものだと言えるのかも。
織田信長が扱いに苦労した比叡山延暦寺や石山本願寺って大名顔負けの軍隊を持っていたよね。
こちらもローマ教皇が統治する「教皇領」がイタリア半島中部を中心に存在していて、実際に戦争に加担しているってアイモーネ兄ちゃんが言っていた。
そう考えれば、似たようなものだね。
納得、なっとく。
「でもね、地元民が見知らぬ人に行う山賊よりも恐ろしいものもあるんですよ」
アイモーネ兄ちゃんが講義を続ける。
でもアイモーネ兄ちゃんが言うには、存在があるとの事。
それは傭兵団。
領主に雇われて戦場に赴き、敵と戦う。
お金や食料が支給される限りは味方。
傭兵団も信用商売らしく滅多に裏切ったりはしないそうです。
もし裏切ると、貴族間に裏切った事が周知されてしまい二度と雇ってもらえないんだってさ。
そんな傭兵団が厄介なのは、どこの貴族にも雇われていない時。
雇い主を探してあっちへふらふら。こっちへふらふら。
傭兵団に資金の余裕があるうちはいいのだけど、食料がなくなったらさぁ大変。
背に腹は変えられぬとばかりに、山賊へとジョブチェンジしちゃうのだそうな。
大人数かつ戦闘に慣れた山賊。
村人のなんちゃって山賊なんて目じゃないほどの脅威だよね。
街道を行く商隊は襲うわ、村は襲うわと大変だそうな。
ちなみに傭兵団もちゃかりしたもので襲うのは、力がなくて報復されなさそうな貴族の領地ばっかりなのだそうだ。
「だから、大領地であるトリノ辺境伯領は比較的安全なんだよ」
「ああ、よかった。 ほっとしたよ」
アイモーネ兄ちゃんの言葉に僕はそっと安堵の息を吐いたのでした。
◇ ◆ ◇
「ジャン=ステラ様、そろそろオッドーネ様との面会の時間ですよ。 執務室へ移動しましょう。 」
子供部屋の窓から外を見つめていた僕に侍女のリータが声をかけてきた。
父オッドーネがトリノに戻ってきてから今日で3日目である。
領地巡回から戻った父オッドーネはだいぶん忙しかったらしい。
翌日は母アデライデと執務室で書類仕事。
翌々日はトリノ在住の貴族たちとの会合と晩さん会を行っていた。
これはローマ皇帝ハインリッヒ3世の寿命が尽きかけている事も関係する。
絶大な権力を誇る皇帝陛下も病には勝てない。
その事を悟ったハインリッヒ3世は後継者を守るための足場固めを始めたのだ。
その一つが皇太子ハインリッヒ4世と、僕の次姉であるベルタとの婚約である。
トリノ辺境伯家は神聖ローマ皇帝の家臣の中でも大きな力を持っている。
イタリア北部に広がるポー平原の西側に勢力を誇るだけでなく、フランスやドイツとイタリアを結ぶ交通の要衝であるアルプス西部を支配下に置いているのだ。
ハインリッヒ3世と4世の勢力基盤はイタリアからみてアルプスの北側。
ドイツ西部を北に向かって流れるライン川の中流にある。
イタリアとは遠く離れているためローマ皇帝の外戚としてトリノ辺境伯が皇帝権力を専断する恐れはないと見たのだと思う。
だからハインリッヒ3世は、彼の死後に婚約を解消されないための措置も行っている。
当時4才だったベルタをドイツにある皇帝の宮殿で養育することにしたのだ。
良い方にとらえれば、将来の夫であるハインリッヒ4世と一緒に過ごす時間を増やすことで仲睦まじい夫婦になる事を期待する、ともいえる。
“いわゆる幼馴染夫婦ってやつだね”
でも、
ハインリッヒ4世を裏切ったら、娘の命はないぞ、と脅しているも同然である。
ハインリッヒ3世の後継者である4世は今だ6才。
いまハインリッヒ3世が崩御すれば、権力争いが起こるのだろう。
だから、今のうちに領地を引き締めておかねば、と父オッドーネは頑張っているのだと思う。
“今日の面会では、お父様を
とちょっと生意気な事を考えながら、執務室へ向かうジャン=ステラなのであった。
——
オッドーネ 2才児に労をねぎらわれるってどうよ?
ジャン=ステラ きにしない、きにしない。
オッドーネ いや。おかしくね?
ジャン=ステラ 前世の年齢もたしたら、あんまり変わらないしね。
オッドーネ そんなもんか?
ジャン=ステラ 世の中、そんなもんだって。
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