第14話 母アデライデの忙しくも幸せな日々

1056年9月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ アデライデ・ディ・トリノ



カラーン カラーン

聖ジョヴァンニ教会の鐘が遠くで鳴る音が聞こえてきた。



「アデライデ様、そろそろ休憩になさいませんか。朝からずっと働きづめですよ」

部屋で待機していた侍女が私に声をかけてきた。


「そうね、すこし休憩しようかしら」

「いつものようにぶどう酒をお飲みになられますか」

再び侍女から声をかけられた。

「いいえ、まだ片づけないといけない羊皮紙が残っているから、白湯さゆをお願い」



私が父から相続したトリノ辺境伯領に加え、5年前に夫オッドーネが相続したアルプス西側の3つの伯爵領も統治しなければならないため、執務にかかる時間はとても長い。


今も早急に処理しなければならない羊皮紙の束が机上に積まれている。


普段ならこれほど仕事を貯めないアデライデなのだが、ここ1週間ほどは執務が滞っていた。 


“それもこれもジャン=ステラが作ったトリートメントのせいだわ”


36才の6児の母とお世辞にも若いとはいえないアデライデだが、トリートメントで髪をくだけで10年は若返ったような髪が戻ってきたのだ。


髪だけではなく、身も心も全て若返った気になり、最近怠っていた肌の手入れに加え、ジャン=ステラや娘と一緒に侍女を相手のファッションショーに時間を費やしてしまったのだ。


久しぶりに結婚前の無邪気で若かった頃に戻ったような気分に浸ることができた時間はそれはそれはとても楽しいものだった。


そう、私の結婚生活は甘いものというよりも、試練の連続だった気がする。


一度目の結婚は結婚早々に夫が戦場で疫病に倒れ、帰らぬ人になった。


二度目の結婚も3年で夫に先立たれた。 子供にも恵まれなかった。


今の夫、オッドーネとは三度目の結婚で幸いにも6人の子供に恵まれた。 今は日々幸せではあるが、広大な領地を治める責務は、無邪気であった少女時代を忘れさせるには十分なくらい重いものであったのだ。


だから、トリートメント騒動によって先代トリノ辺境伯だったお父様がご存命だった頃の責任を感じる事のない幸せな日々を沢山思い出すことができて嬉しかったのだ。


実際にアデライデの心はすこしぽかぽかと温かい気がしている。 口元もすこし緩んでいるきがする。


ささいな事かもしれないが、いま私はとても幸せなのだと思う。


“ジャン=ステラに感謝しなくてはね”

ありがとう、と心の中でつぶやいてみた。



「アデライデ様、おまたせしました」

白湯さゆが入ったガラスのコップが机に置かれた。


「ありがとう」

返事をしてから白湯を一口飲んだ。


心に加えおなかもすこしぽかぽか温かくなった。


空っぽになったガラスのコップを見ていると、ジャン=ステラが言っていた言葉が思い返された。


「トリノ特産のガラス細工の器にトリートメントを入れて売り出したらどうですか。 トリノの新しい特産品になりますよ」


売れるかはともかく、貴族社会での社交には使えそうよね。


本当に面白い事を考えつく子だ、と我が息子ながら思う。

前世の記憶があるらしいからただの2才ではない事は理解している。


だが2才でなかったとして、仮に私と同じ36才だったとしても、私はトリートメントなんて思いつかないだろう。 

さらにそれを特産品にしようなんて考えは決して浮かばないだろう。


「預言者ねぇ」

小さな声で呟いてみる。


ジャン=ステラの両脇に手をいれて、「高い高~い」と持ち上げるとすごく怖がっていたっけ。

「ひっ」と小さな叫び声を上げて、顔が引きっていたことを覚えている。



他の子供たちは、それこそ8才の長男ピエトロでさえ「高い高ーい」されるときゃっきゃと声を上げて喜んでいるのに。


それに、馬のおもちゃや木剣で遊ぶようなこともしないし、庭を駆け回る事もない。 もちろん女の子のような人形遊びもしない。


本当に不思議な子。


“前世の記憶があると、見た目は子供でも頭脳は大人ってことかしら”


今日はやけにジャン=ステラの事が思い浮かぶ。

末の子供は一番可愛いというし、預言者うんぬんは置いておいても、どうしても気になってしまう。


“もし私が記憶をもったまま体が小さくなったらどうなるかしら”


私は少し想像してみた。

ちいさくなった自分。 手も体も小さくなり、視点が大分低くなる。体重も軽くなり力も弱くなった私。


椅子に座るだけでも一苦労するし、扉が重くて部屋から外に出られなくなりそう。


“ずいぶん不便そうね” というのが私の感想。

ジャン=ステラも苦労しているのかしら。


………


「アデライデ様、 そろそろ執務に戻りませんか?」

私の執務の補佐をしてくれている執事のパトリツィオから声がかかった。


その言葉で我に返った。

ずいぶんと長い間物思いにふけっていたみたい。


机の上には相変わらず羊皮紙の山。 


こどもの頃、勉強がいやで部屋から逃げ出したように、執務からも逃げ出せればいいのに。


ふぅっと溜息がでた。


もちろん解ってはいる。 勉強から逃げても怒られるだけだが、執務から逃げ出す事はできない。


今やるか後でやるかの違いでしかない。

そして後回しにしすぎると、領地が荒れたり反乱を起こされたりしてより一層手間がかかるのだ。

いまだ長男ピエトロでも8才にすぎない。

領地の継承者が幼い今、領地を不穏にさせるわけにはいかない。


「そうね、残りの羊皮紙もちゃちゃっと片づけてしまいましょう あなたたちも引き続き知恵を貸してくださいね」

執事のパトリツィオと夫の縁者であるアイモーネ司祭にそう声をかけた。



そういえば、ジャン=ステラはこうも言っていたわね。

「これはトリノの特産品を作るための商品開発だから、仕事なんです。けっして楽しくはしゃいでいるわけではないのです」


たしかにその通りだ、と甘言に釣られて1週間もトリートメントに費やしてしまったのはちょっとやりすぎだったと今なら思う。


よしんば商品開発が仕事だったとしても、処理しないといけない羊皮紙の束が減ってくれることはないのだから。


ーーーーー


お茶やコーヒーは未だヨーロッパに届いていません。

そのため、貴族階級はアルコール度数の低いワインや果汁を飲んでいたようです。


また、白湯は結構なぜいたく品です。お湯を沸かさないといけないから。


生水を飲むと衛生上危険な事は経験上しられていたため、庶民はぶどうの搾りかすから作ったまずいワインや大麦から作ったビールなどを飲んでいたようです。


当然、貧民は生水です。


とはいっても、主人公のいるトリノはアルプス山系の上流部に位置しているため水質はよいです。

それに、帝政ローマ時代にポー川流域は本土に編成されましたので、上水道、下水道が整備されていたと想像しています。

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