第10話 天使の輪
1056年8月下旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
アデライデとアイモーネが僕の持っている知識を見誤っている事がわかったのが昨日。
彼らに対して僕は 「 貴族ではなく平民として生まれ、 農業と畜産を学び、それを子供に教えていた記憶を知識として持っている」 と伝えていた。
誰も1000年後の世界なんて想像できないから、見誤るのは仕方ないよね、と今なら思う。
僕の方だって地図がそんなに危ない知識だったとは理解していなかったよ。 藤堂あかりだった頃を思い返すと、小学校3年生の頃には日本地図が、5年生の頃には世界地図がリビングに貼ってあった。 小学生が知っている事が、 中世ヨーロッパではオーパーツな知識になってしまう。
だから、僕の知識は世界を変えてしまう力を持つ劇薬だ。 地図一つとってもアフリカ南端やアメリカ大陸発見といった大航海時代が数百年早くおきる可能性がある。 今は気づいていないけど、他の知識も多かれ少なかれ世界を改変してしまうだろう。
改変することによって世の中がどうかわるのか。僕には想像がつかない。 将来発見される知識なのだから、歴史の流れを加速するだけと気楽に考えることもできる。
でも、加速によって利益を得る人だけではない。 宗教なんてその最たるもので、現状の維持を至上命題にしていそうで、急な変更には反発するだろう。 異端審問にかけられてしまうかもしれない。
「僕の持っている知識は封印すべきか、それとも公表してしまうべきか。」
あるいは公表するとして、何をどこまで公表するのか。 考えなければならない事は尽きない。
昨日の話し合いでには父のオッドーネがいなかったため、 領地巡回からトリノに戻ってきてから改めて話し合いをすることになった。
それまでの間は現状維持。 アイモーネには引き続きこの世界の常識及び宗教知識を教えてもらうことになった。
“ぴぃ チチチ...”
窓の外で小鳥が鳴いているのが聞こえる。
まだ眠いけど、 そろそろ起きなければ。 朝ごはんを準備する音だろうか、城の使用人たちが歩き回っている音がする。
「ジャン=ステラ、おはよう。 昨日は早く寝ちゃったみたいだけど、元気になった?」
僕と寝室を共有している4歳年上の姉、アデライデは一足早く起きていたみたい。
「アデライデお姉ちゃん、おはよう。 昨日はいろいろ疲れてたけど、今日は元気だよ。ありがとう」
ややこしい事に母と姉は同じ名前である。 公式には母はアデライデ・ディ・トリノで、姉はアデライデ・ディ・サヴォイアと違う。 だけど、家族内で同じ名前が2人いると呼び分けが難しいのでやめてほしいって思う。 でも、そういう名づけをする文化だから仕方ない、かな。 早くこの世界に慣れないとね。
僕の寝室は、トリノ城主の館の2階にある。 2階は城主一族が住む区画である。 玄関にある階段を登ったところが城主である父母の執務室と寝室。 その執務室の入口から左右に伸びる廊下の左側に女性の部屋が、右側に男性の部屋が並んでいる。
僕の寝室といっても、この世界は大部屋での寝起きが普通である。そして、まだ2歳の僕は侍女の世話が必要なこともあり、長姉のアデライデと一緒で女性側の子供部屋が寝室になっている。 去年の秋までは次女のベルタも一緒の部屋にいたのだが、嫁入りしてしまったので部屋がすこし広く感じられる。
ベッドから起き上がると、窓際の椅子にすわった姉が赤褐色の髪に櫛を入れてとかしているのが見えた。 寝起きの頭でぼーっと眺めていたら昔のことを思い出した。
6歳といえば小学校1年生。 藤堂あかりだった頃、学校に行く前に髪をすいていたのは5年生からだったよなー。 1年生の時は男の子と間違われるくらいのショートカットだったし。
そう考えるとアデライデ
窓から差し込む日がアデライデ
「アデライデお姉ちゃん、髪が傷んでいるみたいだよ。 トリートメントはどうしているの?」
「トリートメント? トリートメントってなぁに?」
つい口から出てしまった僕の言葉に返ってきたのは疑問符だった。 アデライデ
“あちゃぁ。 もしかして、またやらかしてしまったかも”
昨日地図でやらかしたばかりなのに、 今日も呼び出しコースになるかもしれない。 そう思うと溜息が出そうになる。
だけど、もう口からでちゃった事だしまぁいいか。 トリートメントが軍事機密だったり、諸侯の勢力地図を塗り替えたりはしないと思う。 だから、いいよね。
「トリートメントっていうのはね、傷んだ髪をケアして、つるつるさらさらにしてくれる化粧品だよ。 今よりもっとうるツヤな髪になって、天使のわっかが浮かび上がるんだよー。 すごいんだよー。」
トリートメントについてとても大雑把に説明してみた。 6歳の子供には難しいかなと、途中から簡単な説明に変えたら、最後はちょっとおまぬけな感じになってしまったけど、まぁいいや。
「ふーん。 で、どうすればいいの?」
アデライデ
「トリートメントしてみる?」
「うん」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
侍女のリータにオリーブオイルとはちみつを少しずつ持ってきてもらうようお願いする。
「本当は卵黄か卵白も使うともっとよくなるけど、今日は簡単なトリートメントにしてみるね」
持ってきてもらったオリーブオイルにはちみつを入れてよく混ぜる。それをアデライデ
「ベタベタするけど大丈夫なの?」
髪を触ったアデライデ
「大丈夫。 すこし時間を置いてから、石けんをつけた布で拭いたら、つるさらヘアに生まれ変わるよー」
こちらの世界に来てから固形石けんを見たことはないが、液体の石けんがある事は確認している。 水を張った
桶に液体せっけんをいれて布を浸す。 みずがぽたぽた落ちないくらいまで絞った後、布で髪の毛を拭いていく。 拭いたらまた石けん水に布を浸し、髪を拭く。 最初に1回手本を見せた後は、アデライデ
“しまった。 トリートメントする前に汚れをおとしておけばよかった”
思ったよりも髪が汚れていたみたいで、桶の水がにごっていく。 それでも、アデライデ
アデライデ
「まぁ、アデライデお嬢様。 髪が輝いておりますよ。 すばらしいですわ」
「本当に? わたしお母さまの部屋に行って鏡で見てくるね。 ジャン=ステラありがとう」
弾んだ声でアデライデ
子供部屋に鏡のような高級品はおいていない。 だから髪先がつるつるになっているのは確認できても、髪全体がどうなっているかアデライデ
アデライデ
ーーーーーー
アデライデ
「ジャン=ステラ、 私の髪にもトリートメントしてくださらない?」
勢いよく開け放たれた扉の向こうには言葉の丁寧さとは裏腹に興奮した面持ちの母アデライデが仁王立ちしていたのだった。
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