鳳翼下の雛
第9話 地図
1056年8月下旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
8月も終わりが見えてきた。 朝は少し涼しかったが、日中はまだまだ汗ばむ陽気が支配している。
父オッドーネと母アデライデにジャン=ステラが知識を持って生まれてきた事を打ち明けてから1週間が経った。 どのような知識を持っているのか興味深く二人に聞かれたため、次のように答えた。
貴族ではなく平民として生まれ、 農業と畜産を学び、それを子供に教えていた記憶を知識として持っている
この回答にオッドーネとアデライデの二人は、すごく微妙な顔になった。
預言者なのにキリスト教に関する知識はなさそうであり、彼らがイメージする平民は無知で野卑な存在なのだろう。
千年後の先進国である一般日本人の知識をなめてもらっちゃ困る、と主張したい所であるが、モノ作りができるわけでもなし。 知識だけで何ができるという。 今ジャン=ステラとして生きている中世ヨーロッパという場所での常識がないのだから、二人に反論することもできない。
結局、1000年も未来の知識だという事は言い出せなかった。
ジャン=ステラの頭が良いことをオッドーネとアデライデは分かっていたので、まずは現世の常識について学ぶことで3人は合意した。
◇
「夕方には雨かもしれないな。 」
ジャン=ステラは黒い雲が広がっている東の空を見てつぶやいた。
今日から従兄アイモーネから中世ヨーロッパ世界の常識を学ぶことになった。 今年で丁度30歳のアイモーネはアルプス山脈のフランスに位置するベレーで司祭を務めている。 2歳のジャン=ステラが自分よりも優秀だとアデライデやオッドーネに報告するだけあって、年齢だけで人を判断しない謙虚な人柄である。
まだまだ暑さの残る昼下がりの中庭にアイモーネが歩いてくるのが見えた。
「アイモーネ兄ちゃん、こっちこっちー」
日陰のベンチで待っていたジャン=ステラは立ち上がって手を振った。
「今日も暑いね。 早速勉強を始めようか。」
と言いながらアイモーネがベンチに座る。
勉強するといっても、この時代に教科書は存在しないし、ノートもない。 正確には紙はあるのだが、高価すぎて子供の勉強に使える代物ではないのだ。 だから地面が黒板替わりで、 基本暗記するしかないのだ。
今日教えてもらうのは、母が後継者であるトリノ辺境伯家と父が後継者であるサヴォイア家についてである。
「まずは、君の母上であるアデライデ様の辺境伯家から始めよう」
優しい口調でアイモーネの授業が始まった。 教会のミサで鍛えられているのか耳に心地よく響いてくる。
トリノ辺境伯家。 アルプス山脈の南側に広がるポー平原の西側およそ3分の1を支配する家である。 トリノとは支配地の中心にある町の名前であり、家の名前の由来でもある。 このトリノ辺境伯家は100年くらい前から神聖ローマ皇帝を主君としている。 ただし、神聖ローマ皇帝の直轄地はドイツにあるため、アルプス山脈に隔てられたイタリアの領主に対する締め付けは弱いのだそうな。 だから大きな権限が与えられている証として辺境伯を名乗っている。
父のサヴォイア家は簡単に言ってしまうと、山の民を束ねる山賊の親分みたいな存在。 イタリアとフランスの境目のアルプス山脈に住む人々を束ねている。 山ばかりで人口は少ないものの領地が広いため、サヴォイア伯、モーリエンヌ伯、アオスタ伯と3つも伯爵位をもっている。 祖父の時代まではローヌ川を支配していたアルル王家に仕えていたのだが、今から23年前の1032年に後継者がいなかったアルル王の跡を神聖ローマ皇帝が引き継いだ。 それ以降サヴォイア家は皇帝の家臣となった新参者である。
サヴォイア家の4男であったオッドーネは、今から10年前の1046年にトリノ辺境伯の跡取り娘であったアデライデに婿入りした。 結婚当時はオッドーネの兄アメーデオがサヴォイア家の当主だったのだが、後継者が相次いでなくなったため、1052年に父オッドーネがサヴォイア家を継ぐことになった。
ジャン=ステラの顔を覗き込みながらアイモーネは言った。
「理解できた?」
「アイモーネお兄ちゃん、理解しなければいけない事が多すぎて覚えきれないよー 」
紙が高価であるこの時代、 教科書もなければ、メモするためのノートもない。覚えようとしても覚えられるわけはない。
「大丈夫、これから何度も耳にする話だから、その度に少しずつ覚えていけるよ」
優しく微笑むアイモーネにジャン=ステラは質問をする。
「ポー平原にサヴォイア、モーリエンヌ、アオスタと沢山地名がでてきたでしょ。 それぞれがどのあたりなのか教えてほしいな」
黒板なんてないのでジャン=ステラは地面にイタリアの地図を描く。 ボールを蹴る直前の足がイタリア半島で、ボールがシチリア島。あとは脛の辺りにサルディーニャ島とコルシカ島を描く。 膝の付け根あたりにアルプス山地を表す三角形を描いていく。
一方、ジャン=ステラが描く地図を見ていたアイモーネの表情は驚きの色に染まっていった。古今東西、地図というものは軍事機密である。 アイモーネもローマの教皇庁で一度地図を見せてもらったことはあるが、自分で地図を描けるほどには覚えていない。 ただ、特徴的だったから覚えていたイタリア半島の形が、ジャン=ステラによって地面に再現されている。
ジャン=ステラが地図を描き終わるのを待った後、アイモーネは問いかけた。
「ジャン=ステラ、君はいったいどこでこの地図を見たんだい?」
“しまった、まったやってしまったかも ”
そう問われたジャン=ステラは一瞬だけ驚きを表情に浮かべたのち、大きく息を吐いた。 世界地図なんて小学校で配られる地図帳にも載っていたし、 世界地図や日本地図のポスターなんか100円ショップで売っている程度の認識でしかない。 無意識にそう考えていたけど、地図ってやばい情報だったらしい。
「あのね、アイモーネお兄ちゃん、母上の執務室で見せてもらったんだよ、きっと」
「きっと ? 」
「うん、 きっと。 だって地図がありそうなのは、執務室だけだもん」
「きっと、ねぇ」
疑わしそうにこちらを眺めるアイモーネを傍目に、一緒に執務室に行ってくれるようジャン=ステラはお願いした。
“ なんだか怒られる未来しか想像できないよー ”
地面の地図を丹念に消した後、2人はアデライデの執務室へと歩いていくのであった。
◇
1056年8月下旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ トリノ辺境伯 アデライデ・ディ・トリノ
執務室の大きな机には木札が積み重なっている。 先日トリノに滞在した客人達への対応で滞った事務処理がまだ片付いていないのだ。
「オッドーネは字の読み書きも計算も苦手だから仕方ないとはいえ、ちょっとは手伝ってほしいものだわ」
領地を
アデライデは食料や武器といった物資の手配、それに伴う人員確保といった事務処理と外交折衝を担当する。 そして夫のオッドーネの役割は軍関係全般と領内を巡回して役人の不正摘発と裁判といった腕っぷしが幅を利かす仕事を担当している。
お互いの役割を理解しているアデライデも普段なら愚痴をこぼす事などないのだが、ここ数年はいろいろな事がありすぎた。 オッドーネがサヴォイア家を相続して伯爵家3つ分も領地が大きくなって統治が大変になった事もある。 しかしそれ以上に外交に割かれる手間暇が多く増えたのだ。 昨年12月には当時4歳の次女ベルタが神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世の後継者であるハインリッヒ4世と婚約し、ドイツの皇居へと連れていかれた。
これだけでも大変なのに、ジャン=ステラの預言者騒動である。 外交に関してオッドーネはほとんど頼りにならない。 サヴォイア家の4男と貴族家当主を継承すると思っていなかったオッドーネは、 上位貴族の婚姻関係や親疎といった外交関係に疎いのである。 だったら事務処理だけでも手伝ってほしいものだとアデライデは思って溜息をついた。
「飲み物を持ってきてもらえるかしら。 そうね、ぶどうジュースをお願い」
気分転換を図ろうと、両手を上に挙げて伸びをしたアデライデは側仕えに飲み物を持ってきてくれるよう頼んだ。 当時のヨーロッパには未だ茶を嗜むという文化は入ってきていない。 そのため貴族の飲み物といえば、果汁かワインかビールであった。 まだ仕事が残っているアデライデはアルコールを飲むことを控えたのだ。
ぶどうジュースを飲んでいると、来客を告げる呼び鈴がなった。
「今日は来客の予定はなかったはずだけど、どなたかしら」
「アイモーネ様が至急のお目通りを願っております」
アデライデの問いかけに、側仕えが答えた。
今日、アイモーネにはジャン=ステラの教育をお願いしていたはずだ。 だとしたら、きっと、ジャン=ステラの事で何かあったに違いない。 忙しいときに限って問題は発生するものだと、これまでの経験が教えてくれる。
「
そう心の中でつぶやくアデライデであったが、きっと大事になるんだろうなと表情には諦めの色が濃く混ざっている。
「入ってもらってちょうだい」
◇
「お忙しい中、時間をとっていただきありがとうございます」
執務室の扉をくぐったアイモーネと挨拶を交わした。 司祭である立場は伊達ではなく、 その折り目正しい礼儀は見ている方も清々しくなる。 アイモーネの後ろからジャン=ステラもちょこちょこと足を動かしながら一緒に入ってくる。 執務机前のソファーセットに腰掛けるように促したアデライデは、二人の分のぶどうジュースを側仕えにお願いした。
今日も暑かったからのどが渇いていたのだろう。 二人ともおいしそうにぶどうジュースを飲み干した。 それを見計らっていたアデライデは、本日の用向きをアイモーネに聞いた。
「予約もない急な面会でしたが、何かあったのですか」
「はい、そのことなのですが...... 人払いをおねがいできますか」
アイモーネは目配せでジャン=ステラの事を指し、 アデライデに人払いをお願いした。
やはり、ジャン=ステラに関する話でしたか。 予想をしていたアデライデは、側仕えと護衛に執務室からでるよう指示をだした。
執務室の扉が閉まるのを待って、アイモーネは真面目な口調で問いかけた。
「私がジャン=ステラ様の教育をするにあたり、伺ったことの確認から始めたいと思います。 アデライデ様はジャン=ステラ様が知識を持って生まれてきたとおっしゃっていました。 この事は間違いありませんか。」
「ええ、その通りだわ」
アデライデはジャン=ステラの方を見ながらアイモーネの質問に簡潔に答えた。
「私はその知識というのは、普通の貴族が持つ教養程度だと思っていました。 以前にもお伝えしたように、 ジャン=ステラ様の話し方はとても論理的で地頭の優秀さは到底私の及ぶところではありません。 それでも、ジャン=ステラ様が私の知らない知識をご存じだとは思っていなかったのです。」
「アイモーネ、 私はあなたが聖職者としてこれまで研鑽を積んできたことを知っています。その期間は決して短いものではありませんし、私が知らない知識を多く持っていることをしっています。 そのあなたの知らない事をジャン=ステラが知っているというのですか? 」
「はい、そうです。 さきほど中庭でトリノ辺境伯家とサヴォイア家の話をしました。その話の中でトリノがどこか、アオスタはどこにあるのかという地理の話がでたのです。」
アイモーネは先ほど中庭であった出来事を簡潔に話し、ジャン=ステラがイタリアの地図を描いたことを伝えた。
「ジャン=ステラ様はイタリア半島の地図を地面に描かれました。 ご存じの通り、地図は軍事機密に関わるため秘匿される情報のはずです。 それをさりげない態度、 つまり知っていて当たり前の知識として私に披露されました。 」
アイモーネは地図を見たのは一度だけ。 教皇庁で特別に短い間だけ見せていただいたのだという。
「この1点からでも、ジャン=ステラ様が私の及びもつかない知識を多数持っていることが窺えます。それにも関わらず、 その知識の機密性、重要性というものをご理解されていないご様子。 これはとても危うい事です。 ジャン=ステラ様の御身だけではなく、 トリノ辺境伯家、サヴォイア家を危うくする可能性がございます。」
話し終えたアイモーネはふぅっと息をつき、意見を伺いたいというようにアデライデを見る。
「アイモーネの懸念は妥当なものですね。ですがその前にジャン=ステラに聞きたいわ」
アデライデはアイモーネの意見に同意しつつも、ジャン=ステラに質問を投げかけた。
「ジャン=ステラ、 アイモーネの話は本当ですか? イタリアの地図を描けるだけの知識をもっているのですか」
「はい、 大まかなイタリアの地図を描くことができますし、ヨーロッパやアジアの地図も書けます。 ただ、地名とかはわかりません。 そのため、海岸線の形や山脈の知識があるといった方が正しいと思います。 」
ちょっと困ったような表情でアデライデの表情を窺いながら、 イタリアの地図を把握している事をジャン=ステラはアデライデに伝えた。
「そう。 やはり本当だったのね」
とアデライデがつぶやいた。
その後少しの間、沈黙が支配した。 アデライデとアイモーネはジャン=ステラの方を見つめている。
2人の目には、 ジャン=ステラが少し
「そうですね。 地図だったら、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全体やアフリカ、アジアの地図も書けます。 他にもきっとアイモーネお兄ちゃんどころか、きっと誰も知らない知識が僕の頭には詰まっています。 」
『預言者』
その言葉がアデライデの頭をよぎった。きっとアイモーネの頭にも浮かんでいるだろう。
◇
1056年8月下旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
目の前の2人、アデライデとアイモーネの表情が固まったまま動かない。
「これって預言者って事になるのかな、アイモーネお兄ちゃん? 」
驚きで引きつった顔になっているアイモーネに落ち着いた声でジャン=ステラが問いかけた。
「そ、そうですね」
「トリノ辺境伯家やサヴォイア家にも迷惑がかかるかな?」
「そ、そうですね」
「アイモーネお兄ちゃんは僕が怖い?」
「そ、そうですね」
「おなかがへった?」
「そ、そうですね」
だめだ。 アイモーネお兄ちゃんがフリーズしてる。
それではと、アデライデに向き合った。
「母上。 預言者だったら...... 僕は捨てられちゃう?」
自分の声がすこし震えているのがわかった。 なぜか自分の声が遠くで鳴っているように聞こえる。
本当はこんなことを聞きたくなかった。 兄姉達とは違う一風変わった子、というだけならよかった。 前世の知識なんてなかったら、 恐怖が混ざった目で母親から見られる事もなかったんだろうなぁ。 前世の知識の事がばれてしまったら、こうなってしまうんじゃないかという想像はしてたよ。だけど、実際に目の前で繰り広げられると、こころが
アデライデの答えによっては家を追い出されたり、あるいは異端審問にかけられたりするのだろうか。 想像したくないような近未来が頭をよぎる。
僕の問いかけに、驚きの表情で固まっていたアデライデの表情が動き、大きな声をあげた。
「そんなわけないでしょう! あなたはオッドーネとの間に生まれた私の大切な息子です。 」
そう言うなりアデライデは立ち上がり、僕をぎゅっと強く抱きしめ、決意を語ってくれた。
「トリノ辺境伯家の名に懸けてあなたを守るわ。 オッドーネだってサヴォイア家の名に懸けてあなたを守ってくれるはずです。 誰が何と言おうとあなたを捨てたり、引き渡すような事はしません。」
「ありがとう、おかあさん。 ぼくとってもうれしいよ」
頬を涙が伝うのが分かった。
ここまでアデライデの事をどこかで警戒していたんだと思う。だから母上と呼んでいた。 その距離が縮まった事で素直におかあさんと呼ぶことができた。 この事がジャン=ステラにはとても嬉しかった。 転生して2年間、はじめてこの世に生まれてきて良かった、と思えた。
——
ジ : ジャン=ステラ
アデ: アデライデ
アイ: アイモーネ
ジ : 地球が丸いことを知ってる?
アデ: え、地球が丸いなんて。 そんなわけないでしょう?
そんな事を言っていると異端審問にかけられちゃうわよ。
アイ: いいえ、アデライデ様。
地球が丸い事は古代ギリシア時代から知られています
アデ: そうなの。 知らなかったわ。
ジ : ざーんねん。驚かせたかったのに。
アイ: 私はホッとしたよ。
ジ : じゃあ、ご期待に応えてもっと驚きの事実を
アデ: どきどき
ジ : ヨーロッパを西へ西へ進むと新大陸がありまーす
アイ: まじまんじ!?
ジ : まじ卍 www
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