第7話 婚約の約束

1056年8月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ


トリノの夏にしては珍しく雲が多めの空の下、城の客館の玄関先に荷物を満載した馬車が何台も停まっている。城館に滞在していた貴族達がカノッサ城へと向けて出発するのである。


玄関扉の両脇には侍女や執事といった使用人たちが並び、その前には城の主である父オッドーネや母アデライデ、そして兄姉たちと一緒に僕もお見送りのために並んでいる。


「マティルデお姉ちゃん、また会おうねー」

馬車の窓から顔をのぞかせるマティルデ姉ちゃんに大きく振って別れの挨拶を交わす。結局ジャン=ステラがマティルデと話す事ができたのは中庭での一回だけ。あの邂逅かいこうの後、マティルデを監視する目が厳しくなったみたいで、中庭に出てくることもなかった。


「マティルデお姉ちゃんともう一度お話がしたかったな。」

ちょっとがっかり気分でつぶやいた僕の頭を母アデライデは優しくなでてくれた。


最後尾の馬車が城門から出たあと、オッドーネは大きな声でねぎらいの言葉を紡ぎ、次いで解散するようにいった。

「教皇猊下及び、トスカーナ辺境伯、そして多くの同行貴族たちの滞在を無事に終えることができた。みなの献身に感謝する。」


使用人達は一礼した後、それぞれの仕事へと戻っていった。


「我々も館に入ろう」

オッドーネの呼びかけに従い、僕の家族達は玄関を入り、玄関ホール奥の階段を2階へと進んでいく。階段を登りきると左右に長い廊下が広がっている。階段に一番近い部屋が父母の執務室。右側が男性の部屋で左側は女性の部屋が連なっている。


階段の上には歩哨が2人立っていて、不審者が2階に上がってくるのを防いでいる。歩哨の間を小走りで抜けた3人の兄、ピエトロ、アメーデオ、オッドーネが廊下右側にある子供部屋へと消えていった。そして長姉のアデライデは左側に進んでいく。


「あれ、姉の名前と母の名前をまちがってない?」

僕も最初はそう思った。


すこしややこしいのだが、母と長姉の名前はアデライデと同じである。


「えー、区別つかなくない?」 と僕も思う。思ったのだけど正式名称はちょっと違うのだ。


母はアデライデ・ディ・トリノ。つまりトリノ家のアデライデ。


一方の姉はアデライデ・ディ・サヴォイア。サヴォイア家のアデライデ、という事になる。


正式な名称は違うといっても家庭内で同じ名前だと不便じゃないのかな。

そう思っていたけど、実際にはそれほど困っていない。


「同じ『アデライデ』でもどちらの事を話しているか間違えるわけないだろう?」

とは父オッドーネの言である。


たしかに、言われれば納得する。

小学校の同じクラスに私、藤堂あかり以外に「あかり」ちゃんがもう一人いた。

仲が良い友達が「あかりー」って呼んでいたら、それが私なのか、それとももう一人のあかりちゃんを呼んだのかは、みんな分かったもの。



それはさておき、僕は侍女リータといつも一緒にいるため、女性側の子供部屋で暮らしている。

だからアデライデねえと同じ方向、廊下を左側に向かおうとしたらオッドーネに止められた。


「ジャン=ステラ、すこし話したいことがあるから執務室に来てくれるかい?」


両親と一緒に執務室に入ると、アデライデは護衛と側仕えの人払いをした。執務室の扉が閉まり、両親と僕の3人しかいない事を確認したアデライデはおもむろに話し始めた。


「ジャン=ステラ、お客様が滞在していた間、寂しくなかった?」

「僕、寂しくなかったよ。アイモーネ兄ちゃんも忙しかったみたいだけど、マティルデお姉ちゃんとお友達になれて嬉しかったもん」

優しい声で問いかけるアデライデに対して、僕はとくに寂しいことはなく、逆に楽しいイベントがあった事を伝えた。


アデライデは「そう、よかったわね」と言った後、オッドーネに目くばせをして、すこし居住まいを正した。オッドーネは背筋を伸ばし、「おほん」と一つ咳ばらいをした。何やら難しい話が始まりそうな雰囲気を感じ、僕もちょっと引き締まった顔になった。


「そうかしこまらなくてもいいぞ。実はなジャン=ステラの婚約者が決まった。お相手は、我々の主君である神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世の末娘のユーディット様だ。」

そういえば、そんな話をマティルデから聞いたなぁ、と思い出しながらフムフムと耳を傾ける。 


「ジャン=ステラ、君と同じく1054年の夏の生まれでまだ2歳でしかない。だから正式な婚約は10才になった頃に行うことになった。 おいおい、ちゃんと聞いているかい?」

婚約っていわれてもいまいちピンとこないし、さらにそれが2歳の子供どうしの婚約でしょ。自分の事とはいえ、おままごとみたいだなーと考えていたので、なんの驚きも感慨もなかった。それが他人事として聞いているように見えたらしく、オッドーネから注意されてしまった。


「ちゃんと聞いていますよ、お父様。でも2歳どうしの婚約ですし、婚約ではなく、婚約の約束なんでしょう? 10歳になるまで8年もあります。本当に婚約できるかも分からないんじゃないですか? 」

僕は口から出るに任せて、適当に言いつくろった。 どうせ婚約するならマティルデお姉ちゃんの方が良かったなぁ、と内心で思っていたせいもあり、すこし棘のある言葉になってしまった。


「まあそうだな。ここの所ずっと戦争が続いているから8年後の情勢によってどうなるかは確かに分からないと俺も思う。 だけどな、ジャン=ステラ。お前がとても優秀な事は、アイモーネをはじめ侍女や護衛からも聞いている。 それでも、今の言い方や考え方は2歳の子供には思えないぞ。」


ドクンと心臓が跳ね上がる音がして、ブワッと全身から汗が吹き出してきた。 たしかに普通の2歳の子供ではない。 前世の記憶を合わせたら30歳だから当然である。今更ではあるけど自重が足りなかった、というか自重していなかった。高位の貴族に生まれたからと浮かれて自衛するのを忘れていたようだ。今からでも何とかならないか、と悪あがきすべく普通の2歳だと主張してみた。

 

「い、いやだなぁ。父上。知っての通り僕はちょっと口が達者なだけの2歳児ですよ。あはは……」

顔が引きつりながらも、なんとか自分がおしゃべりな二歳児だと言ったのだが、オッドーネとアデライデの2人はジト目で僕の方を見つめている。

「そんなわけないだろ、お前本当は分かっているんだろう」

と二人の目は雄弁に語っている。 ジト目ではあるが、きつい目や怒りを湛える目ではない事に安堵しつつ、次の言葉をまっていた。


「ふぅ」

しばらくジャン=ステラを見つめていたオッドーネとアデライデだったが、互いに目だけで会話をした後、2人は小さく息を吐いた。


「ジャン=ステラ、べつにあなたをとがめているわけではないのですよ。優秀であることは悪い事ではないのですもの。」

アデライデは優しい口調で諭すように言う。その言葉に僕は一旦安堵したのだが、それは次に続く言葉を聞くまでの短い時間でしかなかった。


「それがたとえ8歳であるあなたの兄ピエトロや従兄で30歳のアイモーネよりも優秀だったとしても、よ。」

え~、アイモーネ兄ちゃんって30歳だったの? もっと若いかと思っていたよ。体が弱いらしいから、それが関係するのかな。


いやいやいや、今注目するのはそこじゃない。アイモーネ兄ちゃんって司祭だよ。貴族出身で優遇されているとはいえ、ベリーの町の教会を任されている。その30歳の司祭よりも2歳児の方が優秀ってどういう事よ。それに僕の言葉のほとんどはアイモーネ兄ちゃんから習ったものだよ。なんで僕の方が優秀って思われるの?


正直、天才って思われるくらいはいいと思ってた。『十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人』という言葉があるように、親が小さい子をべたほめしても周りは真に受ける事はない。はいはい、親ばか親ばか、と思われるのがオチである。自重する必要があるなんて考えもつかなかったのだ。


「そうですね。確かに僕は優秀なんだと思います。 母上が『とがめていない』 のなら、 なぜ人払いをして僕と話す必要があるんですか? 婚約の話はすぐおおやけになるのでしょう?」


「その婚約の話とも関係あるのだが、まずはジャン=ステラ、お前が生まれた時の話から始めよう。」

オッドーネは僕が生まれた時の出来事について教えてくれた。


ジャン=ステラが生まれたのは1054年7月4日の真夜中。時を同じくして東の空に新しい星が出現した。 その星は新しい預言者が誕生した事を示すものだと主張する聖職者が3人、ギリシアからトリノまで探しに来た。日中も見えていた新しい星だったが、彼らがトリノに到着した日には見えなくなった。そのため、預言者は7月4日にトリノで生まれた者であり、それがジャン=ステラだと彼らは主張しているのだ。


「まるでキリストの生誕を祝福するためベツレヘムを訪れた東方の三賢者みたいだね」

話を聞き終えた僕は感想を述べた。


「そうだな。彼らはその逸話を知っているからこそ自信をもって預言者を探す旅に出たんだと思う。だから、ジャン=ステラが見つかった事に大喜びしていたぞ。」

とオッドーネが言い、アデライデが話を引き取った。


「でもね、ジャン=ステラ。私たちはその言葉を完全に信じていたわけではないの。 あなたが預言者だとしたら大事おおごとだわ。しかし預言者でないのに預言者だと名乗ったらそれも大変な事になるの。そう言い含めた上で口止めをしてギリシアに帰ってもらったのよ。」


それ以降、オッドーネとアデライデはジャン=ステラの事を観察し続けていた。もしかすると本当に預言者なのかもしれないと思いながら。 すくすく元気に育つジャン=ステラの体格は同年齢の子と変わることがなかった。しかし、言葉を使い始めた1歳ごろから、周りにその優秀さを振りまいていた。日に日に使える言葉が増える記憶力の良さもあったが、それ以上に驚かされたのは、言葉巧みな表現力と、論理的な話し方だった。 2歳の今でさえ30歳のアイモーネよりも優秀だといわれるくらいである。



「優秀なのがばれたから、皇女のユーディット様と婚約することになったの?」

「そうだったら良いのだけどなぁ」

僕の質問にオッドーネが肩を少し落としつつ答えてくれた。


「皇帝ハインリッヒ3世陛下は黒王と呼ばれるだけあって、腹の底が読めないお方なのだ。だが、優秀なだけで2歳の娘の嫁ぎ先を決めるような事はしない。なにせジャン=ステラ、君はまだ2歳でしかないし、四男と後継順位も低いからな。だからこそ、優秀以外の何かを知っているのだと思う」

「つまり、僕が預言者だから、自分の娘と婚約させて取り込みたかった、と」


真面目な顔で言葉をぼかして推測を述べるオッドーネに対して、ジャン=ステラはそのものズバリ、自分が預言者である事をハインリッヒ3世が確信しているのだろうと、口にする。 それに対してオッドーネとアデライデはその通りと大きくうなずいた。


アデライデが話を続ける。

「でもね、ジャン=ステラ。あなたが預言者であるという噂はどこにも流れていないの。 あなたを近くで見てきたオッドーネや私も預言者であるとは確信していないのだから、遠く離れた皇帝陛下が確信をもっているはずないと思うわ。だから今、あなたに聞きたいの。 」

アデライデは一旦言葉を区切った後、緊張に震える声で本質的な質問を切り出した。


「あなたは、預言者なの?」

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