第5話 ABCの歌

1056年8月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ  


雲一つない空から夏の日差しが燦燦さんさんと照りつける。空気の乾燥したトリノの夏は暑いとはいっても、

日陰に入ってしまえば、とても過ごしやすい。土と草のほのかな香りの中、城館の中庭を散歩するのが晴れた日の日課になっている。


「大分早く歩けるようになったなぁ」

前世の知識を持ったまま中世イタリアに転生してきたのは2年前。つまり2歳の幼児である。


僕の転生先は、北イタリアで2番目の権勢を誇るトリノ辺境伯。つまり、お貴族様でした。それも、4男2女の末っ子である。兄が三人もいるから僕が家を継ぐことはないだろう。「ひゃっほう!」って喜びを露わにしたいくらいにはその事実が嬉しい。


「やったね! 自由に生きることができるよ」

家を継いだりして宮廷論争で心身を消耗させたり、戦争に駆り出されたりするのはまっぴらごめん。前世のブラック職場で懲りました。ちょっとくらいは働いてもいいよ。しかし出来る事なら、お貴族様の穀潰しとしてお気楽人生を送りたいのです。


「そんな上手くいくわけがないでしょ? 」

という声が心のそこから浮かんできたが、いいじゃない。まだ2歳だもん。現実逃避くらいさせてほしいな。


そして、女性だった前世から転性して男になった事も大きい。最初はおちんちんがついている事に戸惑ったが、もう慣れた。幼児の適応力はとても高いのである。何と言っても中世は男尊女卑が著しい世の中である。リアルに「女に人権はない」のである。ちなみに男性にも人権などといった高尚な権利は与えられていません。それでも男であるだけまだましだと思う。


名目上であろうと男女同権がうたわれる現代を生きていた女性にとって、男尊女卑な中世ヨーロッパで生きる事は耐え難い事だと思う。そういう意味では、周りの女性に申し訳ないとおもいつつ、男に転性した事に感謝しきりである。


「それに男なら政略結婚の駒として、言葉も通じないような遠い国に送り込まれてしまう事もないからね」


僕にはベルタという3つ年上の姉がいる。このベルタは当時まだ4歳だったのに婚約した。婚約だけならまだしも、そのままドイツにある嫁ぎ先に送られて行ってしまった。嫁ぎ先は神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世の後継者であるドイツ王ハインリッヒ4世。つまりは極上の玉の輿ではあるんだけど、釈然としないものがある。


良い待遇で転生できたと思うのだが、とっても残念だった事もある。魔法が使えないのである。教師役を務めてくれている従兄いとこで聖職者のアイモーネに根掘り葉掘り尋ねたが、そもそも魔法という言葉が通じなかった。


「魔法があったら科学が発達していない時代でも快適に生きることができたのになぁ」

がっくりと肩を落として、およよと泣き崩れたい。


でも僕の周りにいる人はみんなとても親切でいい人。

特にアイモーネ兄ちゃんはとってもいい人。まだ2歳である僕の質問に対して、真摯に答えを返してくれるとてもありがたい存在だし、僕の一番の話し相手でもある。


中世ラテン語の難しい言葉を覚える事もできたのもアイモーネ兄ちゃんのお陰。

それにここが中世ヨーロッパである事とか、今が1056年だとも知ることができた。


    ◇    ◆    ◇


今日はアイモーネ兄ちゃんがいないので、話をする相手がいない。昨日から高位貴族のお客様が来られているみたいで、対応に追われているみたい。もちろん、父オッドーネと母アデライデも忙しいようで朝から姿を見ていない。


なんだか疎外感を感じちゃうよね。二歳の僕じゃ役に立たないのは分かっているけどさ。


僕の周りには侍女や護衛はいるのだけれど、アイモーネ兄ちゃんみたいな話相手になってくれない。身分差とか職柄とか性格の問題なのか、距離感を感じてうまく会話を続けられないのだ。


だから、いつも散歩している中庭の地面で文字の練習をする事にした。まだ握力が弱くて文字を上手に書くことが難しい。

“ABCDEFG”

“ABCDEFG”


10文字も書くと手が疲れてきた。それでも、だいぶん上手に書けるようになってきた。

満足まんぞく。


「だいぶん、アルファベットも上手に書けるようになってきたよ」

“むふっ”と自慢げな顔をして侍女のリータに話しかけてみた。流暢りゅうちょうにしゃべれるほど口回りの筋肉が鍛えらえていないので、話す言葉はたどたどしい。


「坊ちゃまはもうアルファベットが書けるのですね。すばらしいですわ」

濃い栗色の長い髪を後ろで縛ったリータが、眩しいものを見るような顔で答えてくれる。リータはトリノにほど近い村を領有する男爵の縁者であり、一応貴族の端に名を連ねている。


「ロベルトも見においでよ」

少し離れてた所で僕を護衛してくれているロベルトは壮年の騎士である。祖父オルデリーコの代からの直臣で、僕の護衛になる際に家督を子に継がせたそうである。今は帯刀しているものの平服で僕の後方で哨戒の任についている。


「任務中なれば」

ロベルトの言葉はいつも短い。任務に忠実なのだろうけど、もう少し愛想良くしてくれればいいのにな。


それからしばらくの間字を書いていたが、さすがに疲れた。日陰とはいえ夏の盛りの8月である。空気が乾燥していることもあり、気づくとのどがからからである。


「のどが渇いたから、飲み物をもってきて」

近くのベンチに腰をおろし、侍女のリータにお願いする。


「エー ビー シー ディー イー エフ ジー 」

リータが戻ってくるまでの間、地面に書いた字を見ていた僕は、いつ知れず歌っていた。


ドレミの音階にうまく音がはまらない。この歌をしっている人が聞いていたらとても音痴で聞いていられないと思う。でもこの歌を知ってる人はここにはいない。いないよね?

だから僕は周りを気にすることをやめ、上手に歌おうと努力してみる。


「エー ビー シー ディー イー エフ ジー 」

何回練習したのかは忘れたが、大分うまくなったぞー。 テンションあがって、とっても楽しい。 


(もしかして僕、音楽の天才?)

とか思っちゃう。朝の幼児番組:おばあちゃんと一緒に出演したら脚光をあびそうー、とか訳の分からないテンションになってきた。


とその時、後ろから声をかけられた。

「何の歌を歌っているの?」


「うひぃ」と声にならない悲鳴をあげてしまった。恥ずかしさでいっぱいの心を抑えて振り返ると、黒髪の美少女が立っていた。


ーーーーー

言葉の解説:

アイモーネ兄ちゃんとは話ができて、侍女のリータや護衛のロベルトと話が上手く通じないのには理由があります。

アイモーネ兄ちゃんは当時の共通語であり教会で主に使用される中世ラテン語で話しています。

一方、侍女のリータや護衛のロベルトはロマンス語(イタリア語、フランス語の原型)の地元トリノの方言(口語)で話しています。

両言語は似ているけど、完全には意思疎通が出来ないほどには異なります。

そのため、ジャン=ステラが話す中世ラテン語を侍女のリータや護衛のロベルトは完全には理解できていないのです。


ちなみにアイモーネ兄ちゃんはサヴォイア家出身のため、彼が口語として話す言葉はトリノ方言ではなく、フランス側のアルプスの方言になります。だから、トリノ滞在中は貴族社会と教会の共通語である中世ラテン語で話しています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る