第4話 命名と預言者告知


1054年7月下旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ アデライデ・ディ・トリノ女辺境伯


トリノ辺境伯の居城は小高い岡の上に建っている。アデライデは子供の頃から遠くを眺めるのが好きだった。物見塔から北や西を眺めると、頂上に白雪の帽子をかぶったアルプスの高い山々が遠くに見えた。南にもアルプスよりも低い山脈が広がっており、トリノを含むピエモンテ州が三方を山に囲まれているのがよくわかる。そして、ポー川が平野を東へ東へと流れていく。その景色は今も変わらない。


「最後に塔に登ったのはいつだったかしら」

3週間前に男児を出産したアデライデは久しぶりに物見塔に登り遠くを眺める事にした。夏の暑い日差しがトリノの街に降り注ぎ、空には雲一つない。 


ここから見える街や農村のほとんどは、男児に恵まれなかった父から長女であった私が20年前に相続したトリノ辺境伯領である。


14歳で辺境伯のあるじになってから今回が3度目の結婚生活。1度目と2度目は子供ができるまえに夫が亡くなった。3度目はアルプスのフランス側を領地とするサヴォイア家の4男オッドーネを婿として迎えた。夫オッドーネとは相性が良かったらしく、今回の出産を含め4男2女に恵まれた。唯一の誤算は、婿をとったはずなのに、オッドーネの長兄が急死して、サヴォイア家を夫が継いだ事だろうか。トリノ辺境伯領に加えサヴォイア伯、モーリエンヌ伯、アオスタ伯の領地の運営に忙しくてあまり顔を合せる事ができない日々が続いている。


今もオッドーネはトリノにいない。2か月前に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世のお供としてアーヘン(ベルギーとの国境にあるドイツの街)に旅立った。

神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世はドイツ王、イタリア王、アルル王(フランス南東部ローヌ川流域の王国)の支配者である。この度アーヘンにおいて後継者ハインリッヒ4世にドイツ王の座を譲る式典を執り行うのだが、そこに夫オッドーネは参加している。


「つつがなく式典が終われば、そろそろ帰ってくる頃よね」

アーヘンからトリノに戻ってくるには、アルプス山脈の峠を越える必要がある。アデライデは西方に広がる山々を一通り眺めたあと、執務室へと戻っていった。


    ◇    ◆    ◇


「ただいまかえったぞー」

夏の太陽が西に大分傾いてきた頃、執務室のドアを勢いよく開き、日に焼けた偉丈夫が入ってきた。旅装束に身を包んだその姿は砂塵で薄汚れていて、普段ならアデライデの護衛騎士が執務室に通さなかっただろう。


青い目を嬉しそうに輝かせながらその男は執務机の椅子に座っていたアデライデの元へと大股で近づいて行った。アーヘンへ出発する前には短かかった暗めの金髪がだいぶん伸びたとアデライデには感じられた。


「オッドーネ様、はしたないですよ」

アデライデは椅子から立ち上がりつつオッドーネを軽い口調で嗜めるが、当のオッドーネは全く気にしていない。アデライデも元気な夫の姿を久しぶりに見て嬉しいのか、顔が緩みにこにこしている。


アデライデをハグしたオッドーネは話を続けた。

「男の子が生まれたんだろ、抱っこさせてくれよ」


久しぶりにあったばかりなのに仕方ないわねぇとばかりにあきれ顔を見せたアデライデだったが、子供はかわいいものねと思い直し、乳母のミーアへと声をかけた。

「ええいいわよ。ミーア、連れてきてもらえる?」


一礼して執務室を去っていくミーアをしり目に、アデライデはソファに座るようオッドーネに促し、次いでアーヘンでの出来事を尋ねる。


「ドイツ王の継承は無事に終わったのですか?」

現皇帝ハインリッヒ3世の政治基盤は必ずしも盤石とは言い難い。ドイツ諸侯の中で一番の勢力を誇っていはいるものの、絶対的な優位を確立したわけではないのだ。戦争に強く、黒王と呼ばれているが、その支配地は父祖伝来の地であるフランケン公国(現ドイツ中南部)周辺に限られる。また、ドイツ王はドイツ諸侯の互選で選ばれるのだが、後継者のハインリッヒ4世はまだ4歳である。


「安心していいぞ。何事もなく、粛々と継承式は終わった。ただ……」

今回の継承式はハインリッヒ3世の権威と武威でごり押しできるだろう。しかし、ハインリッヒ3世の身に何かがあったらどうなるであろう。幼い後継者を傀儡として擁立するもの、自分こそはドイツ王にふさわしいと反旗を翻すものが多数現れるだろう。そうなると、ドイツ国内は群雄割拠の様相を呈するに違いない。


「ハインリッヒ3世陛下の健康次第だな」

オッドーネは軽い口調でそう答える。健康で過ごせるかは考えた所でどうなるものではない。ハインリッヒ3世は38歳。今でも戦場を駆け回っている。ただしそれは、ハインリッヒ3世が頑健である事を意味しない。それに、横車を押してでも4歳でしかない幼児をドイツ王位に据えなければいけなかった理由は何かと考察するならば、ハインリッヒ3世の健康不安説は俄然説得力を持ってくる。


アデライデは小首をかしげ、少し前を思い出しつつオッドーネに懸念を返す。

「一昨年、フランス王との馬上槍試合を断ったという噂がトリノまで流れてきましたよ」


馬上槍試合とは簡単にいうと、槍をもって馬にのり、相手を倒す軍事演習である。馬を操縦する技量、槍さばきの巧みさ、そして勇敢さを皆に示し、騎士の名誉を得るために行われる。演習とはいっても、けが人や時には死者がでるような激しさで争われるため、皇帝のような高位の者が参加する事は基本的にないはずだ。しかし、馬上槍試合を断るという事は、惰弱な臆病者と後ろ指を指されるのは免れない。


「陛下の敵がそれだけ沢山いるという事だろうな」

オッドーネが熊のようなあごひげを撫でつつ言葉を紡いだ。



重くなった空気を変えてくれたのは、乳母のミーアであった。

「お待たせしました。お子様をおつれしました」


編みかごに入れられた赤子を大事に胸にかかえてミーアが執務室に入ってきた。寝ている赤子を起こさないように、そっと運んできたのだろう。できるだけ足音が立たないよう、いつもよりもゆっくり歩いている。


「ありがとう、ミーア」

編みかごをミーアから受け取ったアデライデはそのまま執務机の上にそっと置いた。


「ご覧になって名前をつけてくださいな」

手招きでオッドーネを呼び寄せ、家長の責務である命名を促した。サヴォイアで男の子の命名に良く用いられる名は「ピエトロ」「アメーデオ」「オッドーネ」「ウンベルト」と4つある。前から3つの名は長男、次男、3男に使われている。そのため、この子の名は最後に残った「ウンベルト」になるだろうとアデライデは思っていた。


しかし、オッドーネから帰ってきた言葉は意外なものであった。

「ジャン=ステラと名づけよう」


ジャンとはヘブライ語で神様からの贈り物を、ステラはラテン語で星を意味する言葉である。


オッドーネはすこし興奮気味に名前の由来を説明する。ドイツのアーヘン滞在中からイタリアのトリノに帰ってくるまで、昼にもかかわらず明るい星が輝いていた。今まで見たことのない星は、ちょうど赤子が生まれた日に出現したのだ。


「この子はこの星からの贈り物に違いない」

長々と話したオッドーネはそう語り終えると、ふぅ、と一息ついた。


「ジャン=ステラ、星からの贈り物……」

その名前を聞いて驚いたアデライデは、小さい声で名前と由来を反芻した。驚いた理由はオッドーネが執務室に入ってくる前、午前中にアデライデのもとを秘密裡に訪ねてきた聖職者たちが話した内容に理由がある。会談内容をオッドーネと共有しなければいけないと感じたアデライデは努めて冷静になるよう装いつつオッドーネに話しかけた。


「とても良い名前だと思いますわ、オッドーネ様」


じゃあ、決まりだなと満足そうにうなずくオッドーネに対し、アデライデは2人だけで話がしたいとお願いした。

「2人だけでお話したい事がありますの。人払いをお願いできますか」

「もちろんだとも。私がいない間になにかあったのかな?」


オッドーネの返事を待ち、2人は側近達に部屋から出るよう促した。

「護衛騎士は扉の外での見張りをお願いしますね」



    ◇    ◆    ◇


オッドーネとアデライデだけになった執務室。アデライデはオッドーネが帰ってくる少し前にここを訪れていた聖職者についての話をはじめた。


「ここに戻ってくる前に、聖職者達とお会いになられましたか?」

きっと、違うだろうなと思いつつもアデライデはオッドーネに尋ねてみた。オッドーネは旅装束のままである。わき目もふらず執務室に突進してきたに違いない。


「いいや、会っていないぞ。アデライデに会いたかったから、門をくぐって一目散にここまで来たんだぞ」

ちょっと誇らしげにオッドーネは言う。まるで「ほめて、ほめて」とシッポを振っている犬みたいである。


「まあ、嬉しいお言葉をありがとうございます」

自分の行動をほめてオッドーネの言い方にアデライデは思わずくすくす笑ってしまった。思ったことをそのまま口にするオッドーネの可愛らしさが夫婦仲円満の秘訣なのだろう。


それはさておき、アデライデの見込み通り、オッドーネは聖職者には会っていなかったようだ。


「ですが、笑って済ませられない情報が聖職者から得られましたの」

真面目な表情になったオッドーネの背筋が伸び、話を聞く姿勢が整うのをアデライデは待った。

そして、ギリシア正教会に所属する聖職者3人と秘密裡に話した内容を話し始めた。


「ジャン=ステラが生まれた7月4日に、昼間でも見える星が現れた事はご存じだと思います」

3人の聖職者はこの星が新たな預言者の誕生を意味していると主張している事をオッドーネに伝えた。3人は聖霊の言葉に従い、新たな預言者を探すためギリシアから西方へと旅してきたという。


感心したように首を前後に振りつつオッドーネは相槌とともに言葉を返す。

「そうかぁ。まるでイエスキリストの馬小屋を訪れた東方三賢者の話みたいだなぁ。彼らが無事に預言者を見つけられたらいいね。」


「感心してばかりではいられないのですよ、オッドーネ様」

まるで他人事のように言い放つオッドーネにちょっといらいらしたアデライデは険のある不機嫌そうな声で話を続ける。


「そのお三方は、ジャン=ステラが預言者だと言っているのです」

「な、なに!」

驚いたオッドーネは上半身を傾けアデライデに顔を近づけて叫んだ。


「しぃー。お静かに。扉の外に聞こえてしまいます。」

アデライデが扉の方に目線を向けつつ、大きな声をだそうとするオッドーネを制止した。


オッドーネはごほんと咳ばらいをして姿勢を正した。

「ジャン=ステラが預言者であるというのは確実なのか? 人違いだとか、その可能性があるだけではないか、確認はしたのか?」

その目つきは先ほどまでとは打って変わって鋭いものであった。戦場を駆け巡っているオッドーネのその目つきはとても怖い。あたかも戦場で敵の動きを少しでも見逃すまいと睨むような目つきである。少なくとも最愛の妻に向ける目つきではないと、アデライデは思った。


「そんな怖い顔をなさらないでくださいな。私を萎縮させてどうするのです」

アデライデにたしなめられたオッドーネがきまり悪そうに

「これは…… ごめん」

といい左手の人差し指でこめかみをぽりぽり搔いている。


「いいのですよ、お話を続けますね」

アデライデは聖職者たちが語った内容を順序だてて説明した。


3人の聖職者は7月4日に聖霊の言葉を聞いた事。おうし座に出現した星の導きに従い旅をしていてトリノに到着した事。トリノに到着したらその星が昼間に見えなくなったことから預言者がトリノに生まれたことを確信している事。7月4日にトリノで生まれたのはジャン=ステラただ一人だった事。


「そのため聖職者達は、ジャン=ステラが預言者だと言って譲らないのです」

説明を終えたアデライデは、そっと溜息をついた。面倒な事が舞い降りたものである。


健康不安説の流れる神聖ローマ皇帝。今年4月19日に教皇が獄死したにもかかわらず、後継を立てられず揉めているローマ教会。ヨーロッパにおける2大権威がどちらも不安な様相を見せる中にもう一つ、預言者という不確定要素が追加されたのである。この先、トリノ辺境伯家やサヴォイア家はどうなってしまうのだろう。アデライデとオッドーネの2人は、その後も議論を続けるのであった。


ーーー

その後の二人


オッドーネは脳みそ筋肉なので長時間の議論は無理なのでした。

「ま、なるようになるって。 考えたって将来なんてわからないものさ。 気にしない気にしない。 俺、急いで家に帰ってきたからおなか減ってるんだ。早くごはんたべよーよ」

とアデライデを呆れさせたのであった。


ちなみに、アデライデは聖職者達に預言者の事を他言しないよう口止めを手配したり、預言者の噂を収集するよう命令したりと、頑張ったのでした。


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