第3話 クリスマスツリーの星
1054年7月4日の真夜中 ギリシア エーゲ海のアトス半島
昼間が暑かったことを忘れてしまうような、涼しい空気が部屋を満たしている。月明かりが差し込む窓から聞こえてくる虫の鳴く声も日常とかわらない。
「 おかしいな。だれかに話しかけられたような気がしたのだが 」
少し面長で黒髪の男性が立派なあご
部屋の中を見渡してもベッドで横になっている私しかいない。何かの間違いかと思い再度目をつむり、再度の眠りにつこうとしたとき、頭の中で言葉がかすかに響いた。
「うまれた」 「みつけて」
耳から聞こえてきたのではない。小さな声が頭の中に直接流れ込んできた。ばっと飛び起き部屋を見渡す。 しかし、だれもいない。ふぅ、と一息をつくと、部屋の外に人がいるのかもしれないと耳をすましてみた。
虫の鳴き声は聞こえるが、近くに人の気配は感じられない。では、何の声だろうか、と自分に問うてみた。
「もしや、聖霊の声だろうか」
心臓がドクンと音をたてて跳ね上がった。
ギリシア正教会の司祭であるイシドロスにとって聖霊は非常に重い意味を持つ。キリスト教の教義の一つである“三位一体説”において、聖霊とは父である神と同じ存在なのだ。つまり、イシドロスが神から直接言葉を預けられたという事に他ならない。
心臓が今にも口から外に飛び出るのではないかと思うほど激しく暴れている。同時に胸に歓喜が湧き上がってきた。
喜びに飲み込まれそうになる自分に気づき、大きく息を吸っては吐く。二度、三度と深呼吸を繰り返した後、ようやく聖霊の言葉の意味を考える余裕がでた。
「何が生まれたのだろう。 そして、何を探せばよいのだろうか」
考えをまとめようと腕を組みつつ部屋をぐるぐると歩き回っていると、部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。
「イシドロス様、起きていらっしゃいますか?」
トントンとドアを小さくノックする音に続き、修道院の夜警をしていた騎士セルジオが私に呼びかける声がする。部屋を歩きまわる音で私が起きている事に気づいたのであろう。
「起きているよ。何かあったのかい」
セルジオを部屋に招き入れようと返事する。こんな真夜中にセルジオが私を呼びにくるなんて初めての事だ。よっぽど急な用件に違いない。さきほど聞いた聖霊の言葉と関係するのかもしれないな。
通常警備に使う革鎧を身に着けた精悍な顔つきの青年が部屋に入ってくる。しかし、セルジオは申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、いつもハキハキと明るく話す大柄な青年にしては珍しく、話すことを逡巡している。
「就寝中に申し訳ありません。空に異変が現れました。 占星術に詳しいイシドロス様に緊急かどうかを判断していただきたく存じます。」
イシドロスはギリシア正教の聖地・アトス山にあるラブラ修道院の副院長を務めているだけでなく、天文学を含めた諸学問を一通り修めて司祭に叙階されてもいる。空で見慣れない星を見つけたセルジオは、博識なイシドロスに判断を仰ぎたかった。
イシドロスはセルジオに先導されて修道院の外にでた。南の空高くに十八夜の月が明るく輝いており、エーゲ海の水面を照らしている。
「東の空をご覧ください」
セルジオが指し示す東の空にはおうし座が見える。そして、とても明るく輝く星がおうし座の角の先で輝いていた。
「はて、おうし座にあのような明るい星があっただろうか」
おうし座で一番明るい星は1等星のアルデバラン。おうし座の目に位置している。
金星ではないかと頭をよぎったが、すぐその考えを引っ込める。今は宵の明星の時期、つまり金星は太陽が沈んだあと西の空に現れる。金星以外の可能性はあるだろうか。流星ならすぐに消えてしまうし、ほうき星なら後ろにたなびくしっぽがあるはずだが、この星はいずれにも当てはまらない。
「ベツレヘムの星……」
キリスト誕生の地であるベツレヘムへと三賢者を導いた星の名をイシドロスは思わずつぶやいていた。千年以上前のキリスト降臨の物語。それは今でもクリスマスツリーの頂上に飾る五角形の星としてお馴染みの存在となっている。
イシドロスは聖霊の2つの言葉「うまれた」と「さがして」を心の中で反芻する。ベツレヘムの星はキリストの誕生を告げて、三賢者がキリストを探すよう霊感を授けたと言われている。もし、おうし座に輝く新しい星がベツレヘムの星と同じなら、それは新しい救世主、あるいは預言者の誕生を告げていることになる。
「ベツレヘムの星、ですか? ベツレヘム、ベツレヘム……」
イシドロスのつぶやきを聞いたセルジオは、同じ言葉を繰り返した。意味をよくわかっていなかったのか、最初は小さいつぶやきであったが、最後は驚きの声となっていた。
「ベツレヘムの星! 新しい救世主の誕生ですか!?」
「静かにしないか。まだ夜中だぞ」
大きな声を出したセルジオを
「イシドロス様、ですが救世主の降誕ですよ! 驚かずにいられませんよ!」
声こそ小さくなったが興奮気味に言葉を続けるセルジオを見ていたイシドロスは逆に冷静になっていくのを感じた。周りに騒いでいる者がいると、逆に冷静になれるものだな。
「セルジオ、落ち着きなさい」
軽く溜息をつきつつセルジオに声をかけたイシドロスが言葉を続ける。
「ベツレヘムの星では救世主が降誕されたが、今回も同じとは限らない。もし救世主の再臨であったなら、今日が世界の終わりの日という事になる。」
天に昇ったイエス・キリストはこの世の全てを裁くため、世界の終りの日に再び地上に降り立つのである。
「世界が……おわる……」
イシドロスの言葉を聞いたセルジオは冷や水を浴びたような気分になった。先ほどの興奮が一瞬で冷め、目が大きく見開き、動けないでいる。今日で世界が終わるなどと告げられたら、誰でもセルジオのようになるのは仕方がないだろう。キリスト教が支配する中世のヨーロッパで神の実在を信じない者はいない。
「大丈夫、世界の終りの日ではない」
「本当に世界は終わらないのですか?」
自信ありげに断言したイシドロスの言葉にセルジオが問い返す。
「終わらない。なぜなら生まれたのは救世主ではないからだ」
イシドロスは力強く言葉を返した後、再臨についての知識をセルジオに語って聞かせた。救世主が再臨すると不義なものは死に、生きている義人は天へと昇る。しかしイシドロスもセルジオも死んでもいないし、天にも昇っていない。つまり東の空に輝く星が示すのは救世主の再臨ではないのだ。
イシドロスは自分の考えを順序立てて、ゆっくりと話していった。無意識ではあるもののイシドロス自身が納得するためにも必要なプロセスだったのだろう。
「だから、新しい星が指し示すものは預言者だと私は思う」
語り終えたイシドロスの顔は晴れ晴れとしたものとなっていた。
「さすが、イシドロス様は博識であられる」
幾分か落ち着いたのだろう。感嘆の声をあげたセルジオの表情がゆるんでいる。
「今回、一緒に新しい星を見たのも何かの縁だ。セルジオにお願いしたい事がある。」
イシドロスはセルジオが呼びに来る前にあった聖霊の話を語って聞かせた。聖霊の導きに従い、預言者を探す旅に出る事を告げる。
「護衛として、私の旅に同行してもらえないだろうか」
古代ローマ帝国の支配が盤石であった時代なら治安を心配せずに旅ができた。しかし今はイスラム教徒が地中海の南側を支配している事もあり、各地で戦火が絶えない。聖職者といえども護衛なしで旅をするのは危ないのだ。騎士に叙勲されているセルジオが同行してくれるなら、預言者を探す旅も少しは楽なものになるだろう。
「私はイシドロス様をお手伝いする副輔祭です。預言者を探す旅のお供を断ることなど考えられません。喜んでお供いたします、イシドロス様」
強い意思を感じさせる口調でセルジオはイシドロスに同行する旨を告げ、次いで左胸に右手を添える騎士の礼を返した。
翌朝、イシドロスとセルジオは預言者を探す旅にでるのであった。
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史実: 1054年7月4日 おうし座で超新星爆発が発生した。日本人、中国人、アラブ人、アメリカアリゾナ州のインディアンによる観測記録が残っている。現在は、かに星雲として知られている。
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