#10


 いつもの駐車場に車を停め、海岸へと下りた私を出迎えたのは、橙に燃える海だった。こんなに晴れた夕焼けを見たのは久しぶりで、思わず、波打ち際に近づいていく。視界のすべてが空と海だけになって、鮮やかな一枚の絵画の中に放り出されたようだった。


 普段は私を現実から切り離してくれる海の音は、今日は優しく私を包み込んでくれた。もはや私の中に、切り離したい現実は居座っていない。すっきりとした私自身を、海はそのうねりで何度もうなずくかのように、ただ見ていてくれた。


 許された。そのことが、何か強力な免罪符のように、私から怖れも迷いもすべて消し去ってしまっていた。少し強く砂浜を蹴れば、ふわりと浮き上がれそうなくらい、身体も軽い。


 身体といえば、十年分泣ききった今の私は、とても渇いている。そして目の前には、両手を広げた母の胸のような海がある。そう思った次の瞬間にはもう、足は動き始めていた。冷たさを感じたのは、足先が触れる最初の一瞬だけだった。膝、腰、胸と海水が上がってくるにつれて、先ほど絞りきってしまった水分が補われ、満たされていく。


 ノリ養殖が盛んな遠浅の海底は、あの津波で少し削られたそうだ。すぐに足がつかなくなり、顔だけを水面に出して漂いながら、そんなことをどこかで聞いたなと思い出す。体温も感覚も、冷たい海水にすっかり奪われてしまうと、私の身体は人のかたちを解いて、海という生命のスープに溶けてしまったかのようだった。


 太古の海で生まれた生命は、性による生殖ではなく、自らを分裂させることで殖えていったという。性も死もない世界、そんな理想郷に身を委ねるように、私はそっと目を閉じる。


 心地いいリズムで揺られる身体は、今やもうどこを漂っているのかわからない。自分の意識があるのかないのかさえ判然としないほどの浮遊感だった。しかし、ゆったりとした波動は突如破られて、不穏な揺れに襲われた。下から突き上げられたと思ったら、横にぐいと引っ張られる。こんなに急に海が荒れるものだろうか、と変に冷静な頭で考えたが、身体の方が先に答えを出していた。


 これは記憶だ。身体に刻まれた、十年前の記憶。ちゃぶ台の下に上半身だけを無理矢理突っ込み、台の脚をしっかり握っていた、あのたった数分間を、波に揺られた身体が思い出しているのだった。身体は否応なく揺すられているのに、どこか麻痺してしまったような現実味のなさまで、そっくりそのまま蘇ってくる。


 血も肉も細胞も、あのときと同じものなんて一つも残っていないはずなのに、それでもこの記憶は、脳ではなく身体が持っているものだった。どうして、といまいましく思ったのも束の間、まさに今その身体ごと消えるのだから、と感情が凪いでいく。身体の記憶も意味も何もかもが、原初の生命が生まれた海へと還る。すべてが海に解き放たれた、と思うか思わないかの瞬間に、私の意識は途切れた。




 ――目を開けるとそこは夕闇だった。目を開けることができる、そのことに驚いて身体を起こし、しっかりとした砂浜に支えられていることにもまた驚いた。浮力など入り込む余地もない、堅固な重力に身体が押し付けられている。濡れて重くなった服が皮膚にぴったり張りつき、無骨な私の身体の線をくっきりと見せつけていた。


 相変わらず海は一定の周期で鼓動を続けていて、波打ち際に投げ出された私の身体を撫でては引いていく。この波が私をここまで運んだのだということは容易に想像できた。言うなれば、海が私を助けたようなものか、と一瞬よぎった認識を、頭を振って打ち消す。重く伸ばした髪から、水滴が周囲に撒き散らされた。


 海のせいだという物語を描いて、なぜ助けたのだと恨み、詰れば、どれほど簡単だろうか。確かにそれは楽に生きるためにはいちばん手軽な方法で、そうしてしまう人々の気持ちも今、少しわかるような気がした。それでも私は、私の意志で、そうしないと決めた。たとえこの海がすべてを受け入れてくれるとしても、私は、この海に何か物語を預けることはしない。


 海岸線を眺めれば、先ほどよりも波の端が遠ざかっている。おそらく今は干潮に向かう時間で、引いていく波は私を連れていかずにこの陸に置いていった、ただそれだけのことなのだった。


 濡れそぼった身体に夜風が容赦なく吹きつけ、私の身体がぶるりと震えた。身震いひとつも意のままにならない身体を見下ろすと、憎たらしいほど頑丈な四肢が揃っている。海に弾けてしまったかのようだった身体の中心まで、相も変わらずしっかりとそこにあった。


 この身体で生きていけ、と、誰かに言われたことはない。この海が無言で私を打ち上げたように、多くの人は、身体について語る言葉を持たない。様々な物語をあてがわれては来たけれど、誰もこの身体から逃げるなとは言わなかった。それでも、今日このときまで、私はこの身体を背負い続けた。


 思えば、この福島にだって、戻らなくてもよかったのだ。都会でなければどこでもよかったのに、吸い寄せられるように戻ってきてしまった。あのことなんかよりもずっと前から私とともにあった、福島の地名と、男の身体。どんなに嫌でも、居心地が悪くても、二十五年間、捨てずに生きてきた。


 それならばいっそ、すべてをこのまま引き受ける。十年経ってもなお刻まれたままの記憶は、仮に身体にメスを入れたところで、消えることはないのだろう。だったらもう、このかたちも記憶も、歓迎はできないけれど、自分のものにしてやるしかない。福島の肩書も含めた、私の中の不快なものすべてに、私のものだ、と言ってやるしかない。この身に襲いかかってくる物語を拒絶しながら、私は私のものを抱え続ける。


 遠くから人の声が聞こえてくる。こちらに近づいてくる人影があった。その人は、全身ずぶ濡れで波打ち際に座り込んでいる私を見て、どんな物語を描こうとするだろうか。もっとも、それがどんなものであれ、私はもうそれを受け取ることはしない。背を丸めて縮こまり、冷えきった自分の身体を、両腕できつく抱きしめた。

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波のはざまで 鈴野広実 @suzuno_hiromi

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