#9
「ちょっと、ここで落ち着きな」
所長はそう言うと、事務室の一番奥にある自分のデスクの向かいに、手近なスタッフ席のキャスター付き椅子を引き寄せた。子どもをなだめるように言われた言葉に素直に従い、それに座る。ほどなくして、紅茶のティーバッグが入ったマグカップが目の前に置かれる。事務室内に備え付けてあるポットとお茶の類を、私はなんだか気が引けてあまり使ったことはなかった。
特に何かを尋ねるでもなく、所長はデスクのパソコンで仕事を始めた。両手でマグカップを包んだまま、私は紅茶に息を吹きかけて冷まし、立ち上る湯気を顔で受け止めつつ、上目で所長の方をうかがう。
免許証の名前にある「斗」の字を書き落とし、性別欄には丸がつけられていない履歴書を見ても、所長は、あら、と、それこそお湯でも沸いたときのように一言言っただけだった。この年代の人がそんなにすんなり受け入れてくれることが信じられずに目を泳がせていた私に、「それで、なんて呼べばいい? 海ちゃん?」と言ってくれた眼差しは、母のような優しさの奥に、教師にも似た厳格な責任感も感じさせた。
ふと気づくと、ここに来たあの日と似た目がじっとこちらに向けられている。視線を受け止めきれずに、まだなみなみと注がれたままのマグカップに目を落とすと、所長は自分の紅茶を一口啜り、デスクの隅に置かれていた新聞を広げた。
あの輪から救い出してくれた礼だけ言って仕事に戻ろう、と思って、ばさりと開かれた新聞の向こうの所長をちらりと見やる。そうして私の目に飛び込んできたのは、わずかに見える所長の頭頂部と、地元紙の一面の特集、「あの日から十年 伝承の課題」だった。
思わず、ひっ、と小さく悲鳴を上げて、床を蹴り椅子のキャスターを使って少し遠ざかる。読みたくなくても認識してしまったのは、昨年オープンした災害伝承館の写真、それに対する賛否の声があること、そして、語り部活動を捉えた写真。語っているのは、自分と同世代と思われる、男性、だった。深呼吸をして、吐息を震わせた私を、所長がじっと見つめる。
「海ちゃんは、どう思うの?」
促すようでいて、決して強要はしない問いかけの語尾が、ふわりと上がる。落ち着かない利用者をなだめ、スタッフの話を受け止めてきた、確かな芯がそこにあった。
そして、問われて初めて、私は言葉を探した。福島から逃げたいのに戻ってきてしまい、男から逃げたいのにまだこのまま生きている。私はいったい、何を思っているのだろう。もう関わらないでほしい、黙ってほしい、さっきの利用者たちを思い出して浮かぶ言葉は、海岸のごくごく手前でほどけてしまう弱々しい波のようで、どこか物足りない。
文字の海に手掛かりを求めるかのように、私は所長が畳んで机に戻した新聞に手を伸ばした。やや扁平な活字が整然と並ぶ紙面は、どこかよそよそしい。語り部活動をしている人は私の一つ上で、原発から避難して一家で県中地域に移り住み、大学進学で一度は関西に行ったものの、その地でも震災が語り継がれているのを見て、地元に戻って語り継ぐことを決めたそうだ。関西で出会った妻に宿る命にも、そのことを伝えていきたい、と眩しすぎる意気込みが記されている。
そこに載せられているのは、物語だった。もちろん、映画や小説のようなフィクションではない。けれどもそれは、ノンフィクションでありながら、事実や心情を巧みに選び取り、繋ぎ合わせることによって描き出される、物語なのだった。
「私は、こんなにうまく、乗りこなせない」
襲い来る波を、与えられた物語を。こんなふうに器用に乗りこなして、新聞に載るような人なんて、ほんの一握りだ。もちろん、この人だって、すべてをうまく消化しているわけではないのだろう。それでも、物語の上では、そういうことになっている。
あまりに断片的すぎる私の言葉に、所長は静かに耳を傾けてくれていた。やっと心地いい温度に冷めた紅茶で喉を潤して、私は言った。
「もう、許してほしいんです」
目の奥に小さな爆発を感じて、深い考えもなしに口をついたその言葉が、自分の核心をついていたのだと知る。
「あれから、もう、十年です。その間、ずっと、あれを乗り越えて、って言われました。でも、私は、そんなこと、思ってない」
堰を切ったようにつたない言葉がこぼれ出るのを、もう自分では止められない。
「私の十年は、あれを乗り越えるためにあったわけじゃないんです。進学して、就職して、ここに来て、って、とにかく、全部、必死で、なんとか、どうにか生きてきて」
投げかけられてきた物語と、言い返せなかった言葉たちが、身体中を熱く巡っている。痛みが走ったような気がして、胸に手を当てると、ふくらみも何もない平らな胸板の下に、どん、どん、と内側から殴りつけるような鼓動があった。
「この、身体と、生きてきたのが、私の、十年、だから」
あのことがあってもなくても同じだった、とまでは言えない。でも、私の物語は、誰かに期待されるようなものでも、まして新聞に載るようなものでもない。
「だから、もう」
繰り返したかった言葉の代わりに、一粒の水滴が目から溢れた。それを見ても所長は、顔色一つ変えることなく、そっか、とただ一言添えて、そっとうなずいてくれた。つい縋りつくような私の湿った目を、じっと受け止めた次の瞬間、所長の口元が、にっ、といたずらっぽく笑みを描いた。
「じゃあ、許す! ……なんてね」
呆気にとられている私をよそに、所長は残っていた紅茶を一気に飲み干す。大きく一つ息を吐いた所長の雰囲気が、いつもよりも少しほぐれた気がした。
「あたしも、ね」
真顔に戻った所長の声は、聞いたことがないほどに頼りなく、私は涙を引っ込めて、静かに次の一言を待つ。
「旦那、亡くしてるの」
自分の顔からさっと血の気が引くのがわかった。やってしまった、この人だって相馬の人なのに、いつものように口をつぐんでいればよかったのに、調子に乗ったのがいけなかった。後悔の念が膨れ上がっていっても、今さらどんな言葉も意味がないような気がして、せめて目を逸らすまいと、また泣きそうに崩れる顔を所長に向ける。
「ほら、そんな顔しないで」
顔を歪める私とは裏腹に、所長は落ち着き払っていて、これではどちらが家族を失ったのかわからない。
「ねえ、今、十年前に、って思ったでしょ。違うのよ」
えっ、と目を白黒させる私に、所長は寂しげに微笑んでみせると、どこか遥か遠くを見るように、私から視線を外す。
「交通事故で、そうね、もう五年になるかな」
「そう、でしたか」
驚けばいいのか、悼めばいいのかよくわからなくて、結局、戸惑いがそのまま声に乗る。所長は哀しみを振り払うように、少し声を大きくして続けた。
「でもね、この話すると、みんなその顔をするのよね。あんたもあのときかい、つらかったろう、って」
一瞬滲んだ寂しさはすっかり取り払われて、よくあることのように所長は言った。そのからりと乾いた声から、何度も同じ場面を繰り返してきた慣れを感じ取って、私ははっと息をのんだ。
さっき、所長に向けた私の目は、目の前にいる所長を見てはいなかった。私が見ていたのは、所長その人ではなく、そこに自分で勝手に描き出した、物語だった。申し訳なさと情けなさで、そう暖かくない部屋なのに顔がかっと熱くなる。
謝りたいのに、また深刻な表情を作るのも違う気がして、不甲斐なく口をぱくぱくさせることしかできない。そんな私に、所長は、いいのよ、と許しの微笑みをくれた。
「だからね、私、海ちゃんの言いたいことも、なんとなくわかる気がする」
所長は、まだ頼りなくさまようだけの私の視線をしっかりと捕まえて、目を合わせてくれる。
「十年も経てば、そりゃ、いろいろあるのよ。ここも、十年前にはまだ影も形もなかったわけだし。で、一緒に施設やりたいねって言ってたのに、途中であの人は、ひょっこりいなくなっちゃうし。ほんとにねえ、この十年、震災だけじゃなくて、いろんなことがあった」
しっかりと私を捉えて離さない所長の目は、今ここにいる私だけではなくて、思春期から社会人へ至る激動を過ごしてきた十年間の私を見つめてくれていた。そしてそれは同時に、予期せぬ喪失を抱えてもなお奮闘してきたであろう、これまでの所長自身をも見ていた。
ふいに所長の手が伸びてきて、青白く冷えきった私の両手をそっと包む。この仕事をしている以上、私の手も所長の手も例外ではなく荒れきっていたが、そこに行き交うのは滑らかな温かさだった。そのまま少し強く握ると、所長は言った。
「私には、私の十年があるように、海ちゃんには、海ちゃんの十年があるよのね」
私の、十年。その言葉を、よく噛んで飲み込もうとするかのように、胸の内で何度も何度も反芻する。逃げ続けて、もがき続けて、それでもどうにか積み重ねてきた、十年間という時間に、私のものだ、と言ってやる。
「私の、私だけの、十年」
気づくと私は、子どものようにしゃくり上げて、さっき落ち着かせたはずの涙をぼろぼろとこぼしていた。そうよ、そうなのよ、と背中をさすってくれる所長の目も、少しうるんでいるようだったが、自分の涙ではっきりとは見えなかった。
何も怖くも悲しくもないのに、涙は引いたと思ったらまた押し寄せてきて、うねる波のように何度も溢れた。所長になだめられている私はさながら、親に見つけてもらった迷子の子どもだった。
食堂ではとっくにティータイムは終わり、玄関で利用者たちを送迎車へと案内する声が、事務室にも聞こえてきていた。それでも私は、わがままに泣き続けた。自分の中に大きな海があるかのようで、その水が枯れ果てるまで、所長はずっと私の隣にいてくれた。
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