#8
誰もいない事務室で、少し遅い昼休憩を取る。今日はボランティア団体が来て、手遊びや歌のレクリエーションをしてくれる日だった。スタッフはほとんどそちらに出払っていて、同じ時間に休憩に入ったスタッフはコンビニに行っている。時間をうまくずらして全員がしっかり休憩できるように、所長が日々差配してくれていた。
作り置きと冷凍食品を詰めた、昨日と全く同じ弁当を開きつつ、スマホでジェンダークリニックのページをスクロールする。最近、休憩時間があまり人と被らないこともあってか、暇さえあればこのページを見るようになってしまった。
いや、きっかけならあった、と箸を止めて思い出す。数日前、どうしても人が足りなくて、歩行訓練の手伝いをしていたときのことだった。
「海さんも、資格取ってみない? 私たちも男手が増えて助かるし」
ベテランスタッフの何気ない言葉に、周りにいた他の何人かも、そうよ、今よりもっといろいろできるようになるし、と同調した。私を、一人のスタッフとして、共に働く仲間として認めてくれて、さらなる期待を寄せるその人たちの目も声も、母が幾人もいるかのような温かさだった。いっそ悪意で切り裂いてくれる方が楽なのに、その温もりはじんわりと私の中に残って、内側から私を焼いた。
いっそ、身体を造り変えてしまっていれば、男手、などと言われることもないのだろうか。そんな考えに囚われたまま介助をしていたら、支えが必要な利用者の腕を放してしまっていた。どすん、と利用者がマットに尻餅をつく鈍い音がして、先輩スタッフや所長が駆け寄ってきた。利用者の心配だけしてくれればいいのに、所長は私の体調まで気遣ってくれて、その優しさが心苦しかった。
オンライン相談はこちら、というバナーをタップしては、開いた画面をすぐ閉じる。その相談フォームに書き込めば、医師から直接メールが来る、というものだった。しかし何を書いていいかわからない。身体を変えて女性になりたい、という言葉では、私の中に溜まり続ける滓をとても掬いきれない気がした。
コンビニに行っていたスタッフが帰ってきて、私は入れ違いに立ち上がり、給湯室で空になった弁当箱を洗う。そのまま事務室には戻らずにスマホをいじっていると、すぐに午後のティータイムが迫ってくる。
厨房に向かうには、一度事務室を出て、食堂を通らなければならない。なるべく存在を消そうと、背を丸めて歩いていたのに、その背にあの曇りのない声が遠慮なくぶつかってきた。
「海さん、自分の分もお茶淹れて来てね」
彼女の方を見ずに通り過ぎても、ポニーテールが跳ねているのがわかるようだった。もっとも彼女の方も、私の表情が笑っていないことなど、わかっているはずなのに、それでもこうやって誘ってくるのをやめないのだった。
利用者の名前シールが貼られたコップと、いつもの飲み物の一覧表を突き合わせながら、淡々と盆を埋めていく。スタッフとボランティアの人たちの分を注ぐと、緑茶もコーヒーも一人分には満たない量しか残らなかった。ポットの湯もほとんど空になっていて、私は予備のグラスを取り出し水道水を汲んだ。
グラスを見て不服そうな顔をした彼女と協力して、飲み物を配る。そのまま、密になるのではと反論する間もなく、なし崩し的に席に着かされた。そこはいつもひときわにぎやかな利用者が集まっていて、彼女は念を押すように私に笑顔を向けてよこすと、別のテーブルの補助に行ってしまった。
私にとってこの状況はむしろ好都合だった。いつものメンバーで固まった利用者たちは、まるでクラスの上位グループのように活発に噂話に興じている。そこに私が座ったことなど、見えていないかのようだった。冷たい水道水を喉に流し込むと、身体に水分がすっと馴染んでいった。
噂話の内容は、どこそこの娘が嫁に行った、どこの家に子どもが生まれたと、普段からそんなことばかりだった。知らない人の名前がぽんぽんと出されては忘れられていく。そろそろ沸かし直した湯が使えるだろうと私が厨房に立っても、誰も何も言わない。
おかわりの急須を手にテーブルに戻ると、今度はどうやらある漁師さんの家が話題になっているらしかった。
「あの息子、今度嫁さんもらうっつうだど」
「んだ。あのどら息子もなあ、立派になってはあ」
「父っつぁま流さっちゃとぎはなあ、東京でぷらぷらしててはあ、じさま一人で大変だったんだ」
「あんらそうだっだのかい」
「んだよお、それがぽっと帰ってきて、船さ乗るようになって」
「こんだ嫁さんか。じさまもおどっつぁまも、安心してっぺな」
「んだな。立派な男さなったなって見てっぺ」
これ以上なく話に入りにくく、また入る必要もない話題に、私は全員のコップの中身をさっと見てすぐ椅子に座る。おしゃべりに夢中な利用者たちのお茶はなかなか減らず、これなら自分の湯飲みも持ってくればよかった、と厨房を見やる。そうして気をそらせていれば、立派な男、という言葉をひどく気にせずに済んだ。
「あんたは? えーっと、そう、海くん」
しゃがれた声で不意に名前を呼ばれて、思わず椅子から腰を浮かす。目を白黒させている私に構わず、毎日会話を交わしているスタッフどころか、自分の子か孫かのような距離感で、利用者は話し続ける。
「あんたも早く嫁さんもらって、いっちょまえになんねっきゃ」
「んだよ、あんたもあそこの、なんつったかな、あそこの息子みでぐ、頑張んねっきゃなんねえよ」
「若え人が、乗り越えていかねっきゃ」
海「くん」と呼ばれたあたりから、まともに聞き取るまいとしたのに、互いの耳の遠さを補う大声は、そんな意識一つで遮ることなどできはしない。息を吸いたいのか吐きたいのか、それとも永久に呼吸を止めてしまいたいのかわからなくなって、喉の奥から引き攣れた声にならない声が出ていく。それでもなんとか平静を装って、さながら酒の席で酌をして相手を黙らせるかのように、まあまあ、おかわりでも、と急須を持ち上げる。
カタカタ、という陶器がぶつかる音がする。私が持ち上げた急須が小刻みに震えている音だった。しかし注ぐ動作に入った自分の手を止められない。狙いを利用者のコップに定めることもできない。こぼれる、と思ったその瞬間だった。
「海ちゃん! ちょっと手伝って!」
事務室の方から、所長の呼ぶ声がした。手の震えがぴたりと止まる。私にまとわりついて手元を狂わせていた言葉の邪気が、一喝されて雲散霧消したかのようだった。
急須を静かにテーブルに戻し、怪訝そうな目で私を見る利用者たちに適当に会釈をすると、私は逃げるような早足で事務室へと向かった。
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