#7


 仕事帰りに寄った海は、真冬よりも少し日が延びたとはいえ、見る間に夜へと変わっていくところだった。雲に覆われた空からは残光も届かず、空と海の境界がなくなって灰一色となった景色の明度が下がっていく。波音のほかには、時折通る車の走行音しか聞こえない。


 波が静かに引いていくときに、かすかな振動音を耳が捉えた。最低限のものだけを入れて通勤しているトートバッグからスマホを取り出し、通話に応答する。


『久しぶり、元気?』

「そっちは、いつも元気そうだね」

『相変わらずテンション低いなあ』


 年に数回、思い出したように連絡をくれる、友人、と言っていいかもあやふやな人物からの電話だった。高校の英語同好会という、たいして盛り上がりもしない部活で知り合って以来、細いからこそなのだろうか、気づけば長い縁が続いている。今の職場を紹介してくれたのも彼女で、所長は彼女の伯母だった。


『どう、最近』

「どうもしない。そっちこそどうしたの」

『また海? なんか、音聞こえる』

「そうだけど。なにかあったんじゃないの」


 珍しく歯切れの悪い彼女を急かす。海が好きだと私が言えているくらいには遠慮のない関係だと思っていたのに、電話の向こうの声はまだ、えーっと、その、とためらっている。


『あのね、今度、入籍、することになりまして』


 その、ほら、一応、知らせとこうと、と何も悪いことをしていないのに彼女の声が言い訳がましくなる。その気遣いもわかるから、こちらも、おめでとう、以上のことが言えなくなる。彼女に直接カミングアウトしてはいないけれど、男らしくしろと言われたくない、ということくらいはわかってくれているはずだった。


『えっと、前に、ボランティアしてるって言ったじゃん? 復興住宅を回るやつ。そこで知り合った人と、去年からつきあってて』


 告げてしまった高揚感なのか、それとも気まずさを取り繕おうとしてなのか、急に彼女は饒舌になった。主に高齢者の生活を支援するボランティアの話も聞いたことがあったが、まだ続けていたとは知らず、さすがはあの所長の姪だ、と嘆息する。私などよりよっぽど介護に向いていると思うのだが、彼女自身は人手不足を訴えた伯母には応えず、地元の銀行で働いている。


『なんかね、会った瞬間から、他人とは思えなくて』


 うんうん、と気のない相槌を返しながら、私の意識は目の前の海に向けられていた。闇の色はいよいよ深く、継ぎ目のない一枚の黒い帳となった空と海に包まれると、一人だ、ということを実感する。彼女の話はまだ続いていたが、スマホを通した声は、その向こうに人間がいるという現実感が薄い。馴れ初めと式の予定、近況報告を聞き終わるまで、私は一人、潮の香りがする冷たい夜風に抱かれていた。

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