#6


「そうそう、門馬さん上手ねえ」

「なんだべこれ、おっきくってはあ、桃でねぐって牡丹だわ」

「あら、破けちゃいましたか。じゃあもう一枚」


 学校の教室にも似たさざめくような笑い声が、施設の食堂を満たしている。午後のレクリエーションの時間は、最近ではもっぱら、ひな祭りの飾りを作っている。すでに壁には、折り紙で作られた何組もの、青いお内裏様と赤いお雛様がいた。


「いやあやっぱり、若え人は器用だごど」


 利用者に混じって座り、一人で淡々と桃の花を作る私に、隣で同じものを作っている利用者が言う。濃淡さまざまなピンク色の折り紙でできた花が、私の前にこんもりと山を作っていた。いや、まあ、とおそらく聞こえていない返事とともに会釈をして、また一つ、花を積み上げる。


 普段ならこの時間、次のティータイムの支度をするため、一人で厨房にいるはずだった。しかし、同世代と思われるスタッフに、半ば無理矢理、この場に参加させられたのだった。


「折り紙なら、誰でもできるから。ね、たまには、利用者さんとも交流した方がいいよ」


 そう言って厨房をのぞき込んだ彼女は、ポニーテールを揺らしながら、何の屈託もなさそうな笑顔を向けてきた。それでいて、私が首を縦に振るまでそこを動かない、という意志を感じ取るには十分な、硬い目をした笑顔だった。


 しかし彼女の目論見とは程遠く、結局、いつもの仕事と同じく、一人黙々と手を動かしている。やっぱりこれが私の性に合っていた。すぐに机いっぱいになる折り紙を、スタッフや、時には利用者自身が取りに来て、ほらこんなに、と弾んだ声とともにそれぞれのテーブルに持ち帰っていく。利用者たちの手によって、壁の内裏雛の周りには、どんどん桃花が咲き乱れていった。


 そろそろお茶を淹れようと、猫背で作業していた身体を起こす。どこを見るともなく上げた視線が、じっとこちらを見る先ほどの彼女とぶつかった。そのまま近づいてきた彼女も花を取りに来たのだと思って、数枚重ねて渡してみても、彼女はそこを動かない。


「器用なんですね」

「いえ」


 彼女は利用者の待つテーブルには戻らず、私の手元をのぞき込んできた。ごつごつと骨張った手を、背を丸めながら机の下に隠す。彼女の身体がちょうど照明をさえぎって、机上で桃色のグラデーションを描いていた花びらたちが陰る。


「海さんって、普段何してるんですか」


 上から降ってくる声に、首だけを不自然に上げて答える。


「普段って」

「帰ってからとか、休日とか。なんか海さんって、ミステリアス、っていうか、よくわかんなくて」

「それは、まあ」


 海に行ったり、と言いかけて、ぐっと喉がすぼまって出ていこうとした息を止める。確か彼女は、生まれも育ちもここ相馬だったはずだ。彼女の首からぶらさがる名札と、よく似た名前の同級生がいたから覚えている。


 高校にいたその同級生も、彼女と同じく、私に構おうとする人だった。昼休み、ウォークマンから伸びるイヤホンで両耳を塞ぎ、一人で勉強している私に、なにきいてるん? と話しかけてきた。一人でいることをからかうような調子ではなく、本当にただ興味があって、という聞き方だった。だから私も簡潔に答えよう、自分の嫌いな低い声を出さずに済ませようと、イヤホンごとウォークマンを差し出したのだ。


 お、なになに、とイヤホンをつけて、きらきらした好奇心に満たされていたその目から、次の瞬間、涙がこぼれた。机に叩きつけるように返されたウォークマンから、イヤホンが床に向かってだらりと落ちた。


「なんでだよ? なんでこんなもの」


 当時から、周りの音を遮断して勉強するときには、単調な海の音を好んでいた。ネットで拾った音源に、波しぶきをあげる海の画像をジャケット代わりにして入れていたのだ。動かない波の画像を気味悪がるかのように、彼は私から離れた。そしてそれ以来、班分けのときにさりげなく私を入れてくれることはなくなった。


「海さん?」


 黙りこくった私を、彼女は揺れるポニーテールと一緒に小首をかしげて見下ろす。その目が少し光って見えるのは、涙ではなく、丁寧に乗せられたアイシャドウのせいだった。なんでもない、ということを示そうと首を横に振ると、それを拒絶と捉えたのか、彼女は不服そうに私を一瞥して、団欒の中へと戻っていった。


 いつの間にか工作の時間は終わりに近づいていて、色とりどりの折り紙やらその切りくず、高齢者向けのハサミなどが雑然と散らばっていたテーブルの上が、片付けられつつあった。私も自分の周囲をさっと片付け、厨房へと急ぐ。と、ものすごい力で制服の上衣の裾をつかまれ、身構えながら振り返る。


「ほれ、あんたにも」


 どこからあんな力を出したのか、車椅子に座った利用者が、私に向かって折り紙の内裏雛を差し出していた。


「あらー、立谷さん、この人にもあげるの」

「んだ」


 すかさず車椅子の隣にしゃがみこんだスタッフが、いまひとつ定まらない利用者の視線をしっかりと受け止めてフォローを入れる。


「うちさ飾って、娘ごと祝ってやんねば」


 スタッフ全員に娘がいるとでも勘違いしているのか、その利用者は、作った内裏雛を片っ端から配り歩いているらしかった。


「立谷さん、この人は、まだ、独身だから、娘はいないのよ」


 一語一語区切られてはっきりと発音された言葉が、食堂に響き渡る。まだ、という部分が、噛んで含めるようなひときわ大きな声だった。


「あー、そうけえ。んだら、やっごどねえわ」

「あら、でも、せっかく作ったんだし」


 私が、お気持ちだけで、と一言言えば、このまどろっこしいやり取りを切り上げて、厨房へ向かうことができる。すっかり片付いたテーブルには、おやつを楽しみにしている利用者たちが、エプロンまでしっかり着けて待っている。しかし、くれようとしているのが内裏雛だということが、私をその場に縫い留めていた。


 当然、子どもの頃には、雛人形など飾ったことはない。親戚から譲り受けたという、質素な居間に不釣り合いなほど豪華な兜があったのは覚えている。私は、私自身を祝ってもいいのだろうか。


「ほら、この人にも、あげましょう。はい」


 先輩スタッフの声が促したのは利用者の方だったが、私はそれにつられて、利用者の手元にある内裏雛へと手を伸ばす。利用者の手でよろよろと持ち上げられた内裏雛は、何か見えない壁にさえぎられたように、途中でぴたりと止まった。たるんだまぶたに覆われていたぼんやりとした目に、急に光が宿って、私をきつく見据えてくる。


「あんたは……、桃の節句でねぐて、端午の節句でねえのがい」


 利用者の手は止まっているのに、その手に突き飛ばされた、と思った。仕事中でなければ、その場にくずおれていたかもしれない。動きやすさを重視した室内用スニーカーが、私の右足を一歩後ろにふらつかせるだけに踏みとどまらせた。


 私は直接利用者と関わることはほとんどないから、ここに来た日、簡単に名乗った程度で、わざわざ性別を明言したことはない。もしかしたら、あわよくば、年を重ねた目であれば、完全に騙すとまではいかないまでも、迷わせるくらいのことはできているのでは、と淡い期待を抱いていた。しかしそんな期待も、利用者の手からこぼれた内裏雛とともに、床に落ちる。


 講師時代は、学ランとブレザーで不自然な二色に塗り分けられた場所に辟易したものだが、ここはそうではないと思っていた。利用者たちは制服時代から遠く離れ、心身は枯れて、着せられた衣服の特徴を除けば、遠目にはどちらかわからないような人が大半だった。それでも、自分たちがもう色を失ってさえも、人を塗り分けようとすることはやめないのだった。


「まあまあ、立谷さん、お雛さまは、誰が飾ったっていいのよ」


 ねえ、とスタッフに同意を求めつつ、内裏雛を拾ってくれたのは、いつの間にかそこにいた所長だった。木偶のように突っ立ったままの私の手を取って、それを押し付けてくる。


「はい、これ、海さんの。おうちで飾ってくれるものね」


 手を握られたまま、ぎこちなく首を縦に動かす。この所長だけは、すべて知っている。戸籍名ではない海という名前で働けているのも、この人のおかげだった。私よりも小さく、水仕事で荒れて乾ききった手なのに、折り紙を持った手を包まれていると、しっとりと温かさを感じた。


「ね、ほら、飾ってくれるって。よかったですねえ」


 所長は、身をかがめて利用者に笑いかけながら、車椅子をテーブルまで押していく。先輩スタッフもそのあとに続いた。私は厨房に向かいつつ、内裏雛を折り筋に沿ってそうっと折りたたみ、制服のポケットに滑り込ませた。

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