#5
人の多い街にもまだ慣れない頃、私はあるサークルの新歓コンパの席にいた。学内の道を埋め尽くす立て看板の中に、この「セクシュアルマイノリティサークル」なるものを見つけたのだった。試しにメールをしてみると、この新歓を案内された。名前は本名の「海斗」ではなく「海」と名乗ることにした。
幹事長、副幹事長の代表挨拶が終わると、五十人ほどの参加者が集まった貸し切りの座敷はわっと騒がしくなる。新入生もすでに顔見知り同士のグループを作っているようで、私は周囲の様子を窺いながら、まだ慣れない自炊で不足している栄養を補うように、目の前の料理を黙々と食べた。
副幹事長からのメールには、自分も同じMtFだと書いてあった。これまで自分以外の当事者に会ったことがなかったから、どんな人かとこの日を心待ちにしていた。そしてついさっき、代表挨拶に立ったのは、少なくともこの距離からは、どう見ても女性にしか見えないひとだった。自分ももう、私服で中性的に装うことを覚えてはいたが、そういう次元ではなかった。
サヤカと名乗ったのは通称名か、あるいはもう戸籍名の変更まで済んでいるのか。ゆったりとしたチュニックを着た身体の印象も女性的と言ってよく、少なくともホルモン治療をしているのだろう。出身は埼玉と話していたから、治療が受けられる都心の病院も近い。顔の輪郭の骨張った部分は、陰影を操るメイクが施され、ゆるくウェーブした明るいブラウンのロングヘアで隠れていた。何もかもすべて、ではないのかもしれないが、それでも私から見れば、何もかも持っているひとだった。メールでは、何でも相談して、と書いてあったけれど、彼女に何か相談することはないだろうな、というしこりのような確信だけが残る。
ぬるくなったオレンジジュースを飲み干し、座敷を見回すと、男性だけ、あるいは女性だけの集団が、そこここにできあがっているようだった。テーブルに取り残されたウーロン茶のピッチャーを一人で空けていく。
手洗いに立って戻ろうとすると、自分の席の座布団が、膨れ上がった近くの集団に使われていた。もうこのまま帰ってしまおうか、そう思って、荷物を取ろうと人の間を縫っていく。と、人の背中にぶつかってしまい、すみません、と謝る。その人は丸めていた背中をぐいとひねって、やや紅潮した顔をこちらに向けた。
「あれ、新入生?」
酒に酔ってゆるんだような笑みは、無精髭にふちどられてはいたが、嫌な感じはしなかった。まあ座りなよ、と促されるままに、その人に倣って隣に体育座りをする。
「ビール、飲む? あ、ダメか」
そう勝手に完結すると、シス男性らしきその人は、自分専用に抱えたピッチャーからビールを注いでジョッキを干す。ぷは、と上げた顔が、集団を遠巻きに見る私の視線を捉えて、笑うのに失敗したかのように口角を歪める。
「ここ、結局ゲイとビアンばっかりでさ。ほっとくとすぐ固まって恋バナだ」
そのためにある場所だから、いいんだけどさ、と、その人はあまり納得していなさそうに目を伏せて、またジョッキを満たす。その口ぶりは、自分はそんな恋愛事に興味は持てない、とカミングアウトしているようにも聞こえた。
「そうなん、ですね」
同調したい反面、この人は副幹事長がトランスだと気づいているのだろうか、という疑問がよぎって、曖昧な返事をしてしまう。それがどうやら面白かったようで、今度は気持ちのいい笑みが返ってきた。
「俺は経済の三年。君は? 学部どこ?」
「法学部、です」
「へえ、じゃあ学部棟が近いな。あのへん、迷うだろ」
「はい、毎日」
その人との会話は楽しかった。ここがセクシュアルマイノリティサークルであることなど忘れるほどに、ただの学生としての会話を楽しんでいた。私のためにウーロン茶を取ってきてくれたその人自身、楽な授業や名物教授の話ばかりして、サークルのことは意識的に忘れようとしているかのようだった。
「ところでさ、地元どこ? 俺は山口、地味だよな」
何気ない話題の一つとして出されたそれに、一瞬、喉が詰まって息が吸えなくなる。しかし三年も経っているんだし、経済学部の三年生がデマに踊らされているわけでもあるまいし、とすぐ冷静になって、福島です、と答える。
テンポよく投げ合っていた会話が、止まった。写真写りの練習をするかのように、その人の表情が何度かうごめいて、何度目かで成功した哀れみの視線が向けられる。
「えー、マジか……え、避難とか、したの?」
「いえ、別に」
「あ、そうなの」
私の即答を受けて、芝居がかるほどの憐憫が、一瞬、ゆるむ。代わりにその人の目に現れ出たのは、好奇の光だった。ほんのわずか、身体がこちらに乗り出す。このサークルに籍を置く者であれば、たとえそれが自分以外の他者に向けられただけでも、テレビやネットの中でのものだとしても、決していい気分はしないはずの目をしていた。
「でも、大変だろ、いろいろ」
眉根を寄せた表情とは裏腹に、酔って大きくなった声には語気の強さがあった。
「ええ、まあ」
気圧されるように肯定すると、そうだろう、とその人は大きくうなずく。目を見開いたままのその仕草が、話を聞いてくれるというポーズなのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「あ、えっと、祖母がつくってるきゅうりが、一応、危ないかもしれないからって、私だけ食べれなかったりとか」
きゅうりに限らずあの年の祖母の家庭菜園は、すべて両親の口にしか入らなかった。さすがに、事故直後は外に出るのを控えて家でゲームばかりしてました、という話を求められているのではないとわかってはいた。しかし、へえ、と発せられた言葉は、期待を裏切られた人のそれだった。
「それは、大変だった、ね」
厄介なものを見るような目は、例えばマイノリティがカミングアウトしたときや、権利を主張したときに、一部から向けられるものによく似ている気がした。この人だって、このサークルにいて、さらにその中でも少数派であるのなら、自身にその目が向けられたこともあるはずだった。
自分がどんな顔をしているかなどつゆ知らず、その人は相変わらず騒がしい周囲にさっと目を泳がせたあと、ごめんな、と謝ってきた。
「変なこと聞いちゃって」
そしてピッチャーに残っていた、すっかり泡の抜けたジョッキ半分にも満たないビールを飲み干すと、じゃあ、入会するならまた、とその人はさりげないふうを装って私の前から消えた。
ゲイもビアンもどうでもいいなら、福島だってどうでもいいじゃありませんか。福島の面積は東京の二十五倍なんですよ。それとも私が家族を亡くしてでもいたら満足ですか……すべて、帰りの電車の中で思いついた言葉だった。面積については買ったばかりのスマホで調べた。満員に近い乗客にもまれ、つり革にもつかまれず、ふらつくままに身を任せながら、一人になりたい、それが無理ならいっそこのままもみくちゃにされて潰れてしまいたい、と願っていた。車内の薄い空気は呼吸がしづらく、福島に脱ぎ捨ててきたはずの学ランが、まだ首を絞めているようだった。
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