第3話
僕が目を覚ますと辺りは暗くなっていて、夜になっている。灰色の雲がところどころ空にあるばかりで、不穏な気配はなく、静かで落ち着いた夜だ。雲の上には突き抜けるような夜空が広がっている。無数の星が浮かび、それらは川と同じような流れを感じさせる。月光があたりに満ちている。
「いいタイミングで起きた。」と靄は言う。その声は、孤独な響きを耳に残し、海に溶けていく。
「僕はどれくらい寝ていたの?」
「正確には分からないが、そうだな、二、三時間といったところだろうね。」
波の音が相変わらず耳に入る。風が優しく吹き抜ける。靄の息遣いが風の音に続く。
「今、穏やかだからって安心してはいけない。これは嵐の前のなんとやらというやつだ。」と靄は言う。
「でも、黒い雲も無いし、風も穏やかだ。雷の音も聞こえない。」
「そんなことは関係ない。私は嵐が来ることを知っている。それは確実に起こる。」
何故この靄はそれほどの確信を持っているのだろうか。僕が寝る前からこいつは嵐がくると確信している様子だった。多分、何かがあるんだろう。しかし、そんなことを考えるのは後にしなくてはならない。
靄は僕をじっと見つめたあとに、
「君にやってもらうことは単純なことになりそうだ。だが難しいことなんだろうね」と言った。
「なんだろうねって、君にも分からないの?」
「今は分からない。時がくれば分かる。」
言い終わると靄は波を見つめる。僕もそちらに視線を向ける。不思議と海はもう白くない。深いところは暗闇で見えないが、浅いところは月明かりで透き通っている。不変の形を保つ水は、月光によってそれ自体がなにかの幻想のように繊細で優しい光を放つ。波が空気を抱きしめ、それで起こる泡がその光と溶け合う。
「よく分からないけど、分かったよ。」
この靄のややこしい理屈を理解しようとすると無駄な体力を消耗してしまう。しかもその理屈を理解する過程でさらにわけのわからないことを言われるはずだ。それを今体験するのはちょっと、しんどすぎる。
「嵐が来る前に、君にやってもらうことがある。」と靄は言う。それからもう一度僕を見る。
「簡単なことだよ。名前を付けるんだ。お互いに。」
もちろん僕には名前がない。僕には性別もないし、記憶も無い。でも名前なんて後でいいんじゃないだろうか。というか、この靄は名前が無かったのか。
「それは今じゃないと駄目なの?」と僕は言う。
「今じゃなきゃ駄目だ。この世界において名前は重要な意味を持つ。その意味が今は大事だ。」
「分かった。でも、そんなにすぐ思いつけるものじゃないよ。」
「そうだね。まあ、大事なものだし、ゆっくり考えていい。それくらいの時間はあるみたいだ。」
しばらくの時間が経った。少し風が強くなり、雲の群れは何かに追われるように走り始めた。小さな雲の向こうから月光が透いている。やがてその光が強くなり、不意に月が現れる。現れたかと思うとまた隠れる。その繰り返しが頻繁に行われる。
「君の名前を思いついた。」と僕は言う。それから続ける。
「君は?」
「私は最初から君の名前を知っている。」
「そうか。君はそういう存在だったね。」
「そうだな」
「じゃあ、君は自分の名前も知ってたんじゃないの?」
「それは、うーん、そうだな。知っているけど知らない。いやこれは適切じゃない。つまりね、知ってはいるんだ。定まってないだけで。」
「よく分からないよ。」
「まあ、そんな細かいことはいいだろ?それより早く名前をつけてくれ」
「分かったよ。」と僕は言い、少し間をおく。
「君の名前はレフがいいと思う。なんというかそんな感じがするよ」
「ありがとう。」とレフは言う。驚いた様子はない。
「これで私はレフになれた。」
でもその言葉には噛みしめるような感慨があるように思えた。
「じゃあ今度は君の名前だね。」
波が小舟に当たる音が大きくなり始める。舟を横から叩きつけるようになる。叩きつけられた波は飛沫となって飛散し、海に帰る。そのときのパシャ、パシャという水の音が何度も繰り返される。しかしその音は無音の中に、余韻を残さず消える。波の音があることによって、僕らの周りを埋め尽くす無音を自覚させられる。
不吉な気配だ。不安を抱いていることに気付き、自分の内面に集中したその一瞬の間に、体をもっていきそうな風がビュッと吹き抜ける。吹き抜けたかと思うと、風は鎮まる。そしてまた舟を叩きつける水の音が繰り返される。何度も何度も繰り返される。
「君の名前はね。カシヤっていうんだよ。」
「カシヤ」と僕は言い、口の中でゆっくり、カシヤ、カシヤ、カシヤと三度響きを確認する。
中性的な感じだ。なんとなく。
「君がカシヤであれば、カシヤであることを武器に出来る」とレフは言う。
さっぱり意味が分からない。カシヤであることとは何だろうか?
「カシヤというのは君の名前であると同時に、君がカシヤであることの証明でもある。カシヤという名前が君という総体に先行して、世界に記憶されることによって、名に縛られない部分を含めた総体としての君をこの世界に強固に繋ぎ止めることができる。そしてこの証明によって君はある資格を得た。この世界の一員となる資格だ。」
「この世界の一員となる資格っていうのがさっき言ってた重要な意味?」
「そうだ。そして一つのメリットとして、君には君の名を通して上位世界に繋がりが生まれる。その繋がりは君に奇跡をもたらす。」
「奇跡って何さ?」
「それは分からない。そのときになれば分かる。」
「また、それか。」
僕らはそれっきり黙っている。奇跡とは何だろうか?そのことについて考える。なにかの神話みたいに雷が雨のようにふったり、海が割れたりとかそういうことだろうか?そういえば聞き流していたけど上位世界とはなんだろうか?神様の世界とか?考えてみるけど答えは出ない。
レフは僕の考えを読めるから、僕が種々の疑問を持っていることを分かっているはずだけど何も言わない。口に出して聞いてみようと思うけど、僕の考えていることにあえて答えないのは何らかの理由があるのかもしれない。そう考えればレフに尋ねるのは失礼な気がする。
そして僕は気付く。この“失礼な気がする”という思考をあえて乗り越えてレフに質問をするのはかなり嫌な行為だ。あえてそうするとすれば、それは相手の都合を押し退けて自分の都合を押し付ける行為だからだ。
一心同体の存在にそういう信頼を損ねることはしたくない。
僕は自分が親切な方向に思考を傾けることによってレフの信頼を獲得しようとしているのかもしれないと思う。そしてその行動を気持ち悪いと思う。自分の思考という他者からは自由な筈の場所まで、この状況においては他者に媚びを売るために使われている。しかし人間はもともとそうなのかもしれないと思うと、幾分楽な気持ちになる。
「余計なことを考えるな」とレフは言う。
そして言葉が続こうとしたとき、水平線の方向に黒い巨大な存在があることを知る。風が吹く。雨が降り始める。ポタ、ポタ、っという音が鳴ったかと思うと、すぐに雨はマシンガンを撃ったほどの勢いで降りしきり、暗い海に波紋を作りだす。
海面では波紋と波紋が重なりあい、複雑な模様が生まれる。そして一瞬の後にはまた違う風に交錯する。雨の銃声であたりの無音は消失する。その銃声に囲まれながらも、異様な音が聞こえる。雷だ。
僕は首を三十度ぐらいに傾けて空を見る。雨が目に入り痛い。一度顔を伏せる。左手の手のひらを眉毛に沿うように置き、雨除けにする。もう一度空を見る。真っ黒な雲だ。連なった山のような起伏がある。その雲に紫色の枝が生える。雲全体が瞬間的に白く染まる。一瞬遅れて、つんざくような轟音。
僕は怖くなってレフを探すが、レフはいない。僕は嵐の海に一人、頼りない小舟にとり残されている。
アンドロイドさん 羊の苺 @kokoronooto
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