第2話

 僕は目を瞑り、寝転んでいる。背中に硬い感触。少し体勢を変えると、光が瞼越しに眼球に届き、柿色の視界が広がった。体全体に規則的で小さな揺れを感じる。眠気を誘うような温かさがまだ、体全体にくすぶっている。

 水の音が聞こえる。互いに衝突し、形を変え、あるいはひとかたまりになり、またあるいは飛沫となって消えていく。その景色を容易に思い浮かべることのできる音を、僕は聞く。

 

 僕はまた目を開ける。徐々に光に慣らしていく。瞼越しの光に眼球が慣れていたのか、今度はそれほど時間はかからない。

 

 僕はあたりを見回す。黒い小舟に乗っているようだ。触感は木材に似ているが節や年輪が無い。漕ぐためのオールも無い。

 

 小舟の下には石膏液のような白さの海が広がっている。波は静かでまったく荒れていない。水中を覗こうとするが白さが邪魔をする。潮の匂いはしない。何の汚れもない白い海面が、爽やかで生命力に満ちた青い空と出会うまで、邪魔するものは何もない。

 

 僕は命が危うい状況にあることを理解する。胸の底には雪のように静かに、しかし確実に積もっていく焦燥がある。その間にもあの水の音が繰り返される。衝突し、形を変え、互いに溶けあう。

 

 雲の群れが青い空の下をのんびりと通り過ぎていく。やがて一つの巨大な積乱雲が僕の頭上を覆った。その雲は僕がいる一帯に暗い影を落とす。僕がその雲の底面をじっと見ていると、だんだんと雲は薄くなっていき、それにつれて暗い影も弱まる。遠くにある雲の端から、海への旅路を阻まれていた光が滝のように落ちていく。


 「綺麗だな」

 

 僕の声は、海や風や空に黙殺される。この世界は、僕を嫌っているようだ。僕が異世界由来の者だから、得体の知れない転校生みたいで、どう話しかけたらいいか困っているのかもしれない。でも僕は自分から話しかけて仲良くなろうというほどの勇気も、あるいはそんな勇気が不要なほどの武器も、もちろん持っていない。

 

 水の音が繰り返される。衝突し、形を変え、互いにとけあう。

 

 視界の端で雲の終わりが近づいているのを捉える。

 

 僕は小舟に寝転ぶ。小舟の底は寝転ぶのに適していなくて、背中に不快な凹凸を感じる。それを快適な位置に調整する。仰向けになり、空模様を確認し、目を瞑る。

 

 あまりにも多くの情報が整理されないままで押し寄せている。僕は意識して遭難による命の危機を棚上げし、考える。

 

 さっき、鯨に呑み込まれたとき僕は死んだ筈だ。普通に考えて、あの巨大な生物に呑み込まれて生きていられるわけがない。でも僕は生きている。

 

 もしかすると、普通に考えるというのが間違っているのかもしれない。考えというのは論理的に積み上げていくものだけど、あのナニカは論理が不足していると言っていた。いや“言っていた”というのが正しい表現なのか分からない。あの惑星というには小さすぎる星に、発話に必要な量の空気なんて存在できるのか?空気を逃さないための重力を確保できるほど、あの星の質量は大きく無いはずだった。


 それに空気について考えれば、あの鯨の鳴き声もおかしい。宇宙には空気が無いから音が伝わるわけも無い。また空気があったとしても、鯨が動きだしたタイミングで鳴き声をあげたなら、音波が僕らに届くまでの時間があまりにも短すぎる。そもそもあの空間は宇宙なのか?

 

 星に擬態していた鯨にしても、擬態という行動になんのメリットがあるのか。まさか、星に化けて、なんらかの天敵から身を守っていたのか?あの巨大な生物が?

 

 僕は自分の混乱を自覚する。この状況を整理するには、なにもかもを知らなさすぎる。それに遭難という生命の危機にあって、こんな訳の分からないことを相手に、頭を働かせるのは、無謀で、愚かだ。まずは生き残ることを考えなければならない。


 そうだ、生き残ることを考えなければならない。しかし僕に何ができるのだろうか。この黒い小舟を漕ぐための手段はない。手で水を掻いて移動するのは波や風の影響で無意味。それどころか無駄な体力を消耗してしまう。目的地も無い。今は波に揺られるままにするしかない。

 

 食料と水についても考えなくてはならない。しかし、この身体には性器も肛門も無い。つまり排泄器官がない。性器については、僕のアイデンティティがなんとか、とか美しさがなんとかと言われたが、肛門もそういう理由で無いのだろうか?

 

 いや今はそんなことを考える余裕は無い。重要なのは排泄器官の無い僕が、食料や水を体内で処理する機構を持っているのかということだ。

 僕はそれにについて考えるが、これも分からない。体外からのエネルギーを必要としないと考えるのはあまりに都合が良すぎる。逆に必要とする場合でも、食物を消化する過程で発生した毒物をどう処理するのか?まさか汗の成分にその毒物が含まれるようにする?最悪だ。それは端的に言って、僕の美的価値観に著しく違反している。

 

 そもそもこんなことを考えても生物学に明るくない僕では、有効な仮説を立てることもできない。さらに言えば僕の体はアンドロイドだ。僕のアイデンティティに合わせて変化するとかいうよく分からない機能付きの。こんな存在はもといた世界でのどの分野の研究者でも全く理解できない筈だ。僕がこの問題に学術的に取り組むのはやめておいた方がいいだろう。

 

 この問題は保留にする。考えるのは食料や水が手に入ったときに延期だ。

 

 しかし、そうなると、とうとう考えることも、すべきことも無くなる。結局今の僕にできることはただ波の音を聞くだけだ。

 

 僕は目を開き、もう真上まで来ている雲の端を見る。そして起き上がり、水平線を見つめる。海面の煌めきと雲が落とす影。波と風の音。

  

 僕はそれから、この黒い小舟を見る。

 

 そこには黒色の靄が人型の形をとり、ぼくと相対する形で座っていた。鋭い怖気による緊張が脳天から脊髄にかけてを貫く。

 

「やあ、こんにちは」

 

 靄は落ち着いた声で言った。少し明るい調子だ。

 僕は強張った筋肉に、動こうとする僅かな意志を縛られている。

 

「ねえ、あまり怖がらないで?私は別に君を害そうってわけじゃ無いんだよ。」

 

 怪物。逃避。海へ。死。対話。怪物。怒り。死。

 肉体の檻の中で頭ばかりがマイナスの思考を模索している。こいつはどこから現れたのか?さっきまでいなかった。瞬間移動?ならどこまで逃げても無駄じゃないか。


 「じゃあ君が固まっている間に話すべきことを話してしまおう。まずさっきも言ったように僕は君の敵じゃない。ましてや天敵でもこわーい怪物でもない。少なくとも今はね。むしろ僕は君に極めて友好的な存在だ。この世で最もそうであると言ってもいい。そして君、少し落ち着いたかい?なら考えてみるといい。何故君がこの小さくはあるが立派に役割を果たしている舟に乗っているのかを」


 僕は考える。何故僕はこの小舟に乗っているのか?分からない。めちゃくちゃなことが起こりすぎて、論理が力を持たない。


「そうか、そうだったね。君は何も知らないんだった。それは酷なことをした。じゃあ私が説明してあげよう。」

 

 一呼吸置いて。


「君が乗っているこの小舟はね、実を言うと、この私自身なんだ。私という存在を、粘土を捏ねるようにして、それはもちろん形而上でということでだけど、小舟に整形したんだ。だから君が目覚める前から私は君のそばにいたということだよ。」 


 僕はだんだんと落ち着きを取り戻す。この靄が人喰の怪物であるという可能性は捨てきれないし、悪魔とは昔から人の信用を得てから魂を奪うとは相場が決まっているけど、僕にできることはなにもない。諦めが僕に一種の安心をもたらす。僕の不安や安心への変遷までの水の音。

 

 「聞いてもいいかな?」と僕はおそるおそる言う。自分が思っているより、か細い声だった。 

 

 「何でも聞きたまえよ」

 

 「まず君はどういう存在なんだ?」

 

 僕が言うと黒い靄は手を顎に近づけて少し考えるような素振りをする。

 

 「うーん、そうだね。ぼくは、ある一定の仮定された条件下、例えば未来やパラレルワールドだね。そういうところに生きる君にとって、最も都合の良い存在だ。ただそれだけの存在。そしてその都合の良さは今の君にもだいたい適用されている。」と靄は言う。

 

 「少し難しいよ。つまり、どういうこと?」


 「つまり、そうだな。君を助けるための存在 だ。」靄は結論付けた。

 

 僕を助けるための存在と靄は言う。でもさっきの会話では、”少なくとも今のところは”僕の敵じゃ無い、という趣旨のことを言っていた。僕を助けるために存在しているのに、「少なくとも今のところは」という限定がいるだろうか?


 「君、そんなことを考えても仕方ないよ。今の君に出来ることなんて無いんだろう?私に対して不安を抱くなんていう無駄なことはやめるべきだよ。」 

 

 「僕が頭の中で考えていることが分かるの?」


 「必ずというわけにはいかないけどね」

 

 なんてことだろう!僕のプライバシーが筒抜けだ。こいつは、女風呂を除く薄汚い中年じじいも同然じゃないか。駄目だ。この思考も読まれる。


 「失礼なヤツだな、君は。私はそんなに気持ち悪くない。それに君と僕は、一心同体だ。だから、別に恥ずかしがることなんてない。」


 「一心同体?」

 

 「うん。私と君は、今のところは不可分な存在だ。そういうふうに定められてる。だから私と君が離れるということは、まあ無いだろうね。」 


 「定められてるっていうのは誰に?」


 「それは後で話そう。今はそういう場合じゃないんだろう?」

  

 そうだった。僕は遭難しているんだ。


 「嵐が近づいている。」と靄は言う。


 それから、何やら改まった様子で言う

 

 「まず君はこの嵐を耐えなくてはならない。もちろん波は大荒れだ。山のような高さの波が君を襲う。海が落ちてきたような雨。風だってある。それに耐えるんだ。まずは耐える。そうすれば次が見える筈だ。」


「ちょっと待ってよ。そんな酷い嵐を、こんなに小さいただの小舟で乗りきれるわけがないよ。絶対に無理だ。」


「何を言ってるんだ。これはただの小舟じゃない。私自身だぞ?そして私と君は一心同体。君が死ねば私も死ぬ。だからサポートしてあげよう。」


 僕は考える。サポートがあるといっても、こいつの言葉も信頼できるか分からないから、僕を守る気が本当にあるのかは疑問だ。さらに言えば、さっき言われたような嵐に対して、このよく分からない靄のサポートといういささか信頼できかねる能力だけで対抗するには不安だ。信頼と言えば、そもそもこいつの名前すら知らないのに自分の命を預けるなんて、無謀なんじゃ


「ええい、うるさい!そんなものは諦めるんだ!いちいち細かいヤツだな!名前なんて後でいいだろう!」靄は熊ほどに膨らみ、腕をぶんぶんと振り回しながら言う。足は舟のサイズに合わせているのか細身で、上半身ばかりが大きく、アンバランスだ。

 

 それから僕と同じぐらいの大きさに縮むと

 「はあ、君は仕方のないヤツだね。長丁場になるかもしれない。今は疲れを癒すんだ。つまり寝ていろ。“不快な凹凸”はこちらが調整してやるから。」

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