アンドロイドさん
羊の苺
第1話
なにも君じゃないといけないわけじゃない。人間にはありふれた特性が必要で、たまたま君が選ばれただけだ。
ほら、見てくれ。きみの目の前にある体は完成されているだろう?
百六十センチメートルほどの身長。中性的な輪郭。グアムの海のように透き通ったスカイブルーの瞳。簡単に折れてしまいそうな体格。真っ白な肌。黒髪。
アンドロイドは薄い影にコーティングされている。風に揺られるカーテンの影と同じようにそれは移ろう。ある部分は暗いシルエットのようになる。
君はそれを見ている。目が無いのにも関わらず。そしてそれをとても美しいと思う。
そうだ。君は見ている。目が無くても認識はできる。しかしそれは全体には及んでいないだろう?
それは服を着ているのかどうか、それが男性であるのか女性であるのか。あるいはそれはただの機械パーツの組み合わせなのか?はたまた、死体から作られたものかもしれない。
君は何も知らないし、知ることはこれから先無いかもしれない。全ては君次第だが。
沈黙。
少し話が逸れてしまったね。君に教えたいこともたくさんあるんだけど、それはちょっとね、駄目なんだよ。だけど教えられることもある。このアンドロイドに君を入れる理由さ。君って言っても今は魂なんだから、自分の美貌とか筋肉がアイデンティティだったんだとしたら申し訳ないがね。
さっきも言ったようにこのアンドロイドは美しさという観点では完成されている。美しさというのは主観的なものだが少なくともこのアンドロイドが遭遇する事象や生物の全てがこれを美しいと思うんだ。それは確実だ。
しかしこのアンドロイドの美しさにも欠点はある。それは完成されてしまっていることだ。つまりこの美しさには先が無い。これは駄目だ。なんといっても完全とは不完全の中に作られた条件の下でしか実現できないくだらないものなんだからな。
だから私たちは、このアンドロイドを不完全なものにすることにした。無限の美しさの実現のために。
そこでお前の出番だ。まあ正確には君じゃなく人間の精神というのが重要なんだがね。俺らが思うに、人間は最も醜くまた最も美しくなりうる存在なんだ。
君が選ばれた理由は分かったね?では次だ。今から君はこれに入る。僕に言葉を伝えるナニカは“指でアンドロイドを指し示す“。
しかし別に無生物になれと言ってるんじゃない。もはや君がアンドロイドに入ればそれはアンドロイドじゃないんだからね。それは超人間的人間だ。
超人間的人間というのはすぐに分かる。実感として。
さて、それじゃあ君をアンドロイドに入れる。といっても大層な儀式やらなんたらがある訳じゃない。
次の瞬間、僕は目を開く。鮮烈な光に目を焼かれ、鋭い痛みが目から頭部へと迸る。
僕は痛みに目を閉じる。
薄く目を開く。徐々に馴染ませていく。僕は俯いている。
裸足が柔らかく少し湿った冷たい土の感触を掴む。髪をかすかに揺らす程の風を肌寒く感じ、自分の体を見る。
そこにはもう影のモザイクは無い。僕は全裸だ。薄い筋肉が地球を支えるプレートのように真っ白な肌の基底となっている。手足に体毛は無い。それはちょうど陶器のような毛穴の見えない肌だが、自然な質感をもっている。
「君には性器もないみたいだね。」
僕はその声を聞く。声の行方に顔を向ける。
僕らは直径十メートルほどの球状の小惑星の上に立っていて、男は僕よりも角度的に高い位置にいる。地面には色彩豊かな植物が腐葉土のようにやんわりとした地面から乱立している。それらは赤子の手ほどから灌木ぐらいの大きさまであり、多様で、瑞々しく、無秩序に広がりながらも互いを引き立て合うように共存している。
僕が男を見る角度によって宇宙が見える。無数の砂金をバケツで一方向に向かってばら撒いたようだ。一本の線を中心にして、外側に行くほど星の密度が小さくなっていく。
近くに大きな惑星は無いが、無数の小惑星が五百メートルほど先にある。それらの地表はひび割れていたり、様々な大きさの岩がそれぞれ小惑星群の隙間をほとんど埋めるようにしてある。
また、それらとは別にして月のような白い球状の天体がある。とても遠いところだ。凄まじく大きく、その大きさ故に確かな距離感を掴めない。その天体は中心に大きな穴が穿たれ、そこから地表にU字型の亀裂が入り、途切れることなく宇宙につながっている。その亀裂は恐ろしいほど、深い。
こういった天体を宇宙は無限の闇で包んでいる。
「君に性器が無いのはね、君が自分のアイデンティティの重きを性別に置いていないからだ。」と男は言う。
僕はこのナニカを男としか認識できない。体格のシルエットは黒く、だんだんと宇宙の暗さに呑まれていき、どこまでが男であるのか理解できない。確固とした存在として男を確信できない。
「つまり君が思う、自分という存在の本質的な部分は性別ではない。少なくともより重要なアイデンティティが君の中にはあるということだ。そしてそのアイデンティティに向かって君の体は自然に適応し続ける。美しさの主観は君に委ねられたんだ。」
僕には分からないことが僕には分からない理由で、何も分からないままに進んで行く。
「君は今のところいかなる偏見も感情も持ち合わせていない。そして個人的な記憶もね。だからアンドロイドの体は君が入る前と同じ形状を保つ。君が今一番美しいと思うのは君自身の体なんだからね。」
僕は怖いと思う。なにもかもが僕の知らないルールに従って動いていく。
「それでいい。苦しみ、嘆き、喜び、憎悪、悲しみ、怒り、それが君に我々が与える役割だ。しかしね、君。そんなことをわざわざ考えなくてよろしい。考えてもいいがね。全て君の自由だ。君が運命に支配されていても、それは変わらない。」
男はひとしきり言い終わるとあの亀裂の入った月のようなものを見た。僕も同じようにそれを見る。その月は白くどこか怪しい光を放っている。
------時間だ
男がかすかにそう言うと、すぐにその月の亀裂が蠢きだす。それは丸まったダンゴムシがするように体を伸ばし、真っ白な鯨型の生物となった。超音波的な鳴き声が轟き、あの砂金のような星を食い散らかしていく。
そしてだんだんと僕らに向かって近づいてくる。
「君が行くのは、もちろん君にとってということだが、異世界だ。だがねそれは便宜上そう呼称するだけで、まだ世界と呼べるほど完全ではない。あらゆる論理が不測している。」と男は言う。
その間にもその超音波的な鳴き声は物理的な圧力を伴うほどに大きくなっている。鯨は深淵を覗かせ全貌を掴めないほどの規模の口を開く。僕らを呑み込むために。
口腔は人間と同じように肉の赤みを持ち、唾液で湿っている。そこにはあらゆる場所に超高層ビルでもまるで足りない、惑星単位の大きさの歯が聳えている。それらの歯の間には洞窟のような穴がまばらに空いており、滝のように唾液を吐き出している。
男は続ける。
「そこで君は生きることになる。君がどんな道を歩みどんな結末を迎えるのか私たちは知らない。苦しんで死ぬのか、幸せに死ぬのかも。まあ、せいぜい自由にしたまえよ」
既に鯨は僕たちを呑み込もうとしている。先に捕食された小惑星群はブラックホールのような食道に消えていく。鯨の鳴き声はヒステリックな未亡人のような金切り声に変わっている。耳が痛い。
男は“笑った”
「ほな、また」
僕の意識は途絶える。
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