星の夜
それがいつからか。
はっきりと覚えている。
半年前、母さんが死んでから。
父さんはいつも家にいるようになった。いつもヘンなにおいを身体に纏わせるようになっていた。それがなんの臭いなのか理解したのは、あの瞬間だった。
その時、夜空がとても奇麗だなと、ひどく呑気に思った。
真っ黒な布に散りばめられた煌めく宝石。こんな奇麗な空をこうして寝ころびながら見るのは、なんて贅沢なことなのだろうかと嬉しくさえあった。
それをぼくの視界から奪ったのは、硬そうな黒いひげで顎を覆い、だらしなく伸びきった髪が落ち窪んだ眼に影を落としている、ひどく醜い男の顔だった。
かつて「父さん」と呼んでいた男の顔だった。
首に巻きつく手が震えているのは寒いからだろう。
寝ころんだ雪は柔らかいけれど、冷たい。パーカーの背中がしっとりと湿ってくるのがぼんやりとわかった。
寒いから、星が奇麗なのだ。
寒いから、ぼくを殺そうとしている手が震えているのだ。
吐き出せば息は白いだろうし、吸い込む空気は凍てつき澄みきっているのだろう。今の自分にはどちらもできないのだけれど。そう思ったら、可笑しさがこみあげてきた。笑おうにも口さえうまく持ちあがらなかったけれど。
ぼくを見下ろす男の顔が歪む。手に体重をかけるように顔を近づけて覆いかぶさってくる。たぶん、もう、限界なのだろう。
息なんてまともにできていないのに、吐きかけられた生温かい息にあのヘンな臭いを嗅いだ気がした。息、彼が最近口にしているもの、それはあの部屋に散らばった銀色の缶や深い琥珀色の瓶の液体ばかり。
酒臭い。
テレビや小説で聞いたことのある台詞。どんな臭いなのかと不思議に思っていたけれど、これがそうなのか。確かに、顔を顰めて鼻を抓みたくなるような臭いだ。霞み始めた意識でそんなことを思う。気持ちわかるな。
もう、醜い男の顔もわからない。わかるのは、ぼくから世界を奪う手の感覚と、焼けるような喉の熱さだけ。お酒の臭いももうしない。それなのに、この場に似つかわしくない溌剌とした笑い声がはっきりと聞こえる。
「はは……はははっ……」
ぼくはもう声なんてちょっとも出せない。息だってだせないんだから。だからこれは父さんの笑い声なんだろう。
「はははっ……はははは……お前が悪いんだぞ。おれなんかの子になったお前が悪い。生まれてきたお前が悪いんだ。はははっ……ははははは」
霞みゆく意識の中で最後まで感じていたのは、背中の冷たさと、ひどく熱い喉の痛みと、父親の呪うような声だった。
沈んでいく。
空を飛んでいるのだろうか……いや、飛ぶ、この言葉は正確ではない。
落ちている。落ちてゆく。ゆったりと沈んでゆく。
青い青い空を見上げながら落下するように。
地面のその下に沈んでゆく。
深い藍の世界を落ちてゆく。空ではない。空ではない、水の中。空の青ではなく、水の青の中をぼくは落ちてゆく。たゆたい、沈みゆく。
「なにをしているの」
ふと気がつくと、ベンチに座っていた。眼前には白い景色が広がっている。
眠っていたのだろうか。
「ねえ、なにをしているの?」
その声が自分に向けられているのものだと理解するのに時間を要した。
髪の長い女の人が覗き込んできていた。色の白い肌がきれいな女の人だった。
女の人はベンチの空いているところ、ぼくの隣に座る。その動作を見てお腹が大きいことに気がつく。
「湖でもみていたの?」
なにをしているのかという問いの続きなのだろう。
「そんなとこ」
「へえ。寒くない?」
女の人は厚手のコートにマフラーに手袋までしている。それに比べて自分は膝までのズボンに白いパーカーだけだった。けれど寒いという感覚はこれっぽっちもない。
「……寒くない」
「本当に? 若いからなのかな」
「あなたは」
「うん?」
「なにをしているの」
湖を見渡すベンチに座っている。広い空を映し、鳥がのんびりと遊ぶ湖をゆっくり座って見渡せるこのベンチは、温かい季節は人気があるが、氷が張り、雪に覆われて時を止めるこの季節に座る人は稀だ。それに。
空を見上げる。空は暗く、月と無数の星が煌いている。この辺りは街灯がまばらだし、雪があれば明るく感じるが、それでも今は確かに夜だ。こんな季節にこんな時間に散歩をするなんて珍しい。
「散歩だよ」
「寒いのに?」
「うん。けど、冬の夜の空気って気持ちいいじゃない?」
女の人はぼくも同じ理由でここにいるのだと思ったらしい。
「そうだね」
「けど、そろそろ帰らないと」
そう言いながら女の人はお腹を撫でた。気遣っているのがわかる。
「赤ちゃん?」
「そう。もうすぐ生まれるよ」
「楽しみ?」
「ええ、とても」
女の人は深く頷いた。
周りを見渡す。近くの細い車道を通る車はなく、人工的な光は一つもない。風も吹いていない。
勢いをつけて立ち上がる。女の人の前に立つ。
「家まで送っていく」
「だめよ。もう気がすんだのならあなたもお家に帰りなさい」
こんな時間に子どもが出歩くものではないよと心配してくれているのがなぜかよく理解できた。
ふわふわとした話し方をするのに、きっぱりと断られたのが意外で、くすりと笑ってしまう。
「家、杉の木の十字路のところでしょう? ぼくの家もその近くなんだ。一緒に帰ろうよ」
「本当に?」
「本当だよ。ねっ、だったらいいでしょ」
女の人の顔を覗き込むようにして言うと、困ったように眉を寄せていたが、これ以上ぼくを疑うことはしなかった。信じてくれるらしい。
こんなヘンな姿の子どもの言葉を信じるらしい。
「帰る前に」
そう言いながら女の人は自分の首から白のマフラーを外して、手招きをした。
「なに?」
「かがんで」
言われるままに上体を下げると、首にふわりとマフラーをかけてくれた。女の人が肩にかけていたものだ。
首に触れた感覚にどきりとして身体に力が入るが、その柔らかさとマフラーが帯びていた女の人のぬくもりに、すぐに力が抜ける。仄かにいい匂いがした。
くるりとひと巻きだけして、両端は前に垂れさせる。その端っこに触れてみる。
「貸してくれるの」
「きみの恰好、見てるこっちが寒くなっちゃうもの」
女の人は満足そうに笑った。
手を差し出すと「ありがとう」と言いながら頼ってくれる。毛糸の手袋越しだが、女の人の体温が感じられた。
立ち上がったあとも引っ込めずに手に力を入れて握ってみると、女の人は何も言わずに握り返してくれた。
女の人と手を繋いだまま、並んで歩く。
静かだ。聞こえるのは女の人が雪を踏みしめる音と、白い息遣いだけ。冬の寒さは世界を凍らせてしまうのだろうか。
「怖くない?」
二人を取り巻くのは冬の静寂に満ちた気配だけで、無数の星の煌めきも月光も美しくはあるが遠い空のこと。ここには二人しかいない。ふと不思議に思った。人の気配のしない夜を歩くのは怖くないのかと。
「怖くないわ。子どもの頃から夜も冬も雪も好きなの。変な子って言われてたな、そういえば。……それに、きみがいるもの。怖いことなんて何一つないじゃない?」
こちらに首を傾げて女の人は言う。きみ、と口にしたとき、手の力が強くなった気がした。
この人は……。
手に感じている女の人の温もりが胸の中に忍び込んできたような気がした。あいている手で左胸に触れる。
「ぼくが悪いやつだったらどうするの。実は人を食べる妖怪でしたーとか」
「それは困るわ。わたしがいなくなったら夫が一人になっちゃう。それだけは嫌ね」
案外真面目な答えが返ってくる。しかし、女の人はすぐに笑って、繋いだ手をブランコのように振った。
「けど、わたしの隣にいるのは優しい子どもだからだいじょうぶ。でしょ?」
「あっははは」
女の人の疑いのない言葉に声をだして笑ってしまう。ちょっと喉が痛い。
「はははっ……。簡単にぼくみたいなヘンなの信じない方がいいと思うよ。ぼくが言うのもなんだけど」
「わたしだって誰彼かまわず手を繋いだりしません。きみだからだよ」
「こんなヘンな子どもなのに?」
「ヘンな子どもじゃなくて、ただの優しい男の子でしょ、きみは」
この人はぼくのことをヘンだとは思わないらしい。気がつかないのだろうか。どんなに子どもだろうとこんな格好で寒くないはずがないじゃないか。手が冷たいことに気がつかないのか。息だって……
「だってぼくは………………」
空に向けて息を吐いて、白い靄があがのをみたい。あれ、けっこう好きなんだ。
夏が終わって日に日に寒くなっていって、手をこすり合わせるほど冷え込んだ朝にみる白い息。
ああ、もうすぐ冬かと目に沁みる青い空を見上げる。
好きだった。
春の陽も、夏の暑さも、秋の夕暮れも、冬の雪も。大好きだった。
けれどもう、白い息を吐くことも、雪を冷たいと感じることも、冬の朝の澄んだ空気を身体いっぱい吸い込むことも、春の匂いをかぐこともできない。
それなのに。
目頭が熱いのはどうしてだろう。
喉が微かに痛むのはどうしてだろう。
「どうしたの」
女の人の声が顔の近くで聞こえる。
足をとめていたらしい。女の人がしゃがんで覗き込んでくる。
「泣いてるの。どうしたの、どこか痛い?」
女の人の手が頬に触れる。ちらと見ると、手袋を外している。さらりとした冷たい手だったが、その手はどこまでも優しくて、堪らなくなる。
ぎゅっと瞼を閉ざす。
自分の心に首を振る。勘違いしてはいけない。求めるなんて、もっとだめだ。望んだところで、冬空に白い息を吐くこともできないぼくなんかが手に入れられるわけがないじゃないか。
この優しい手に愛してもらいたいなんて、望んではいけない。
「……ううん。目にゴミ入っちゃって」
片手で両目をごしごしと擦る。
「ああ、それじゃあ余計痛くならない?」
二三度瞬きをする。顔を上げて、女の人に笑ってみせる。
「もう平気。ごめんね。ほら行こ。遅くなっちゃう」
女の人に顔を見られないように、手を引っ張るようにして足を進める。
「ねぇ。子どもってさ」
「うん?」
「女の子なの、男の子なの」
さっきのことを聞かれるのが嫌で、こちらから話しかける。地面に積もっている雪ばかり見つめる。誰の足跡もない、まっさらな雪。女の人の足跡だけが残ってゆく。それが、彼女の証拠だ。
「男の子って聞いてるわ」
「へぇ。ぼく、赤ちゃんなんて触ったことない」
「あら、じゃあこの子が生まれたら遊びに来て。お兄ちゃんになってあげてね」
そう言いながら、女の人はお腹を撫でた。
「ちょっとこわいなぁ。それに……」
無理だから、と言いかけるがやめる。言う必要はない。もうこの人に会うことはないのだから。会いに行くことはない。
「それに?」
「なんでもない。……そうだね」
女の人の言葉を受け入れるように一つ頷くだけにする。
月明かりに照らされた夜道を歩く。白く明るい銀世界の夜はただ広がっている。女の人が雪を踏みしめる音だけが響く。
大きな杉の木が見える。女の人の家の近くの十字路だ。この辺りには家が五軒ほどまとまっている。
太い杉の幹の左側に見える家の窓から淡い黄色の明かりが漏れている。
良かった。
足を止めて繋いだ手をくいっと引っ張る。少しだけ先を歩いていた女の人も足を止めて振り返った。
「ここでばいばいだ」
「私の家はあそこ」
そう言いながら、女の人は明かりの灯っている家の方を指す。それとは反対を指さす。
「僕はこっちだから」
「気をつけて帰ってね」
女の人と向き合う。手は繋いだまま。
「あなたも」
「この距離だからもうだいじょうぶよ」
「雪道なんだから転ぶかもしれないじゃん。赤ちゃんのためにも気をつけなよ」
「ふふっ、わかったわ。じゃあまたね。遊びに来てね。約束よ?」
女の人の手に力が籠る。返事をしないと離してはくれなさそうだ。
返事をしたくないなと思う。
いつまでも、こうして繋いでいられたら。
「……うん」
それでも、ここで離さなければいけない。
手をそっと離す。
「今度は私が見送るから、先に帰って」
「でも、ぼくの家、ここからは見えないよ」
「見えなくなるまで見送るから。大人らしいこと、すこしくらいさせてほしいの」
その言い方が子どもっぽくて、そのちぐはぐさに笑ってしまう。
「じゃあね」
「うん。またね」
少し離れて手を振る。
女の人は、またねと手を振ってくれる。
また。
また会おうと。
その言葉が嬉しい。しかしそれと同時に、約束を守ることができないことが悲しくて苦しくなる。
ごめんなさい。ごめんなさい。
女の人に背を向ける。振り返らない。
ごうと強い風が吹く。思わず目を閉じる。
ざわざわと杉の木が身を捩る音がする。そういえば今までとても静かだった。風ひとつなかった。
思えば、奇妙なくらい静かだった。
目を開いて、道の先に視線を滑らせる。
先ほどまで見ていた小さくなってゆく雪に紛れてしまうような白い背中を再び見つけることはできなかった。
マフラーのように首に巻いてあげた白いストールを貸したままだったことに気づく。
あの子が寒い思いをしていなければいいと、それだけが心配だった。
薄氷の張った水面に立つ。
風が表面の軽い雪を舞わせる。白いパーカーのフードが風に遊ぶ。
暁は月光の中にいた。
息を吐く。喉の奥が熱い。
「暁」
耳に声が届く。人間らしい感情を映すことのない、平坦な声。
「暁」
名を呼ばれる。顔を向けると、青い瞳がこちらを見上げていた。
雪に紛れるような白い毛に、透いた青の瞳をもち、狼のような姿をしている。
暁が白に包まれた季節に沈んだはずの湖の上で目覚めて以来、ずっとそばにいた。
低く落ち着いた声で時折、暁の名を呼び、ここでたった一人の暁に語りかけてくれた存在だった。いつも傍らにいてくれた。
「暁。君は選ばなければいけない」
静かに言葉を紡ぐ。
「君は望むことができる。君が望むなら、人の子として、人の世に、時間に戻ることができる」
青い瞳は暁の心を知っているように、淡々と告げる。
「悲しいことも苦しいことも死にたくなるようなことも、あるだろう」
そうだ。
あの人たちにまた会いたい、あの人に愛してもらいたい、あの人の強さを見ていたい。
春の陽を、夏の暑さを、秋の匂いを、冬の美しさをまた、全身で感じたいと思う。けれど、生きていくということはそればかりではない。
嫌になって逃げだしたくなることなんて、ごまんとあるだろう。それでも、生は続き、明日はまたやってくる。重い身体を、崩れ落ちそうな心を奮い立たせていかなければいけない時もあるだろう。
「暁。ここに残ることもできる」
選べるのだと、青い瞳は言う。
時間を持たず、この世界で冬にだけ目を覚まし、偶に迷い込んでくる人を導きながら過ごしてもいいのだと、言ってくれる。生を選んだって、いいことばかりではないのだからと。
いつもそばにいてくれた白い狼の声はどちらを望むでもなく、すべてを暁に委ねてきた。暁がどちらを選ぼうとも構わないと。
暁はしゃがみ、白い毛に触れる。柔らかな毛並は暁の手を黙って受け入れてくれる。
白い毛の首元に顔を埋める。
「ありがとう」
背中を撫でる。
「ずっとそばにいてくれてありがとう。僕はゆくよ」
またねと言ってくれた人のところへ、またねと約束をしてきた人のところへ、いこう。
次に会ったら「初めまして」になってしまうだろうけれど、それでも、自分は、あの人たちを愛してみたいと願う。
「暁。君はきっと幸せになれる」
白い狼の平坦な声が優しい色を帯びる。白い毛並が抱きしめてくれているようだ。
「君の幸福をいつも願っている」
「うん。ありがとう」
暁を待つ水底 涼澤 @suzusawa
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