暁を待つ水底

涼澤

暁を待つ水底






 星をみていた。

 深い闇に浮かぶ小さな煌きは小声で囁きあっているようで、空気さえ凍てつく真冬の夜空はどこかにぎやかで、楽しげだ。寒さも忘れ、何も考えず、ただ、空をみていた。

 ふわ、と視界を白が掠める。それに呼応するように、大好きな笑顔が脳裏に過る。思わず名を呼んでいた。

「なにをしているの」

 しかし応えたのは、知らない声だった。星が散りばめられた空を、現れた顔が遮る。その首に巻いている白いストールが鼻先を擽った。手を持ち上げようとするがうまく動かない。悴んでいたことを理解しながら、緩慢に手をのばし、ストールに触れる。柔らかな心地は確かに記憶のものと同じだった。瞼を閉ざす。目尻から涙が零れ、こめかみを撫でて髪の間に消えた。

「おじさん、なにしてるの」

 平坦な口調は大して答えを求めていない。

「空を、みていた」

 見下ろしてくる顔はとても若い。しみひとつない肌には幼ささえ残っている。

 少年はくすりと笑った。口の端を持ち上げただけの笑みは、ひどく大人びてみえた。

「背中つめたいでしょう? 風邪ひくよ。起きなよ」

 手を差し出してくる。二三度手を開閉してから少年の小さな手を掴む。水の匂いがした。まだ感覚が戻っていない所為か、少年の体温がわからない。

 少年は後ずさりながら力いっぱい持ち上げてくれる。膝をつきながら立ち上がる。

 少年の頭は腰のあたりまでしかなく、彼の背の低さを実感した。白のパーカーに、膝までの薄いベージュのカーゴパンツ。露わになっている肌が寒々しい。唯一、両端を身体の前に垂らして首にひと巻きしたストールだけが季節感を表していた。

「おじさん、道がわからないんでしょう」

 見上げてくる少年は問うわけでなく、知っている事実を無造作に置くように言った。

「……なんで、わかる」

「たまにいるんだよ、そういう人」

 あなたみたいにねというように少年は繋いだままの手を揺らした。

「きみはいつもこんな時間に一人で出歩いているのか」

「気にするのそこ? ぼくのことはいいの。困ってるのはおじさんでしょ。どこへ行きたいの。連れていってあげる」

 無邪気な口調のその提案を受け入れるわけにはいかない。確かに困ってはいるが、こんな時間にこんな子どもに道案内を頼むなどできない。親が家で待っているはずだ。

「困ってるのは認める。けど道だけ教えてくれればいいから。きみは家に帰りなさい」

「おじさんはどこまで行きたいの」

 駅からほど近い病院が目的地だと教えると、少年はストールをいじりながら、楽しい悪戯の作戦を明かすような笑みを零した。

「病院ならぼくの家よりここから近い。けど口で説明するには道がちょっとややこしいんだよね。病院に着いたらタクシー呼んでくれれば勝手に帰るから。あなたは病院へ行けるし、ぼくもラクして帰れる。ねっ、どう?」

 少年の笑顔に、言葉を呑みこむ。彼の気遣いにこれ以上何かを言うのは野暮なのだろう。

「ちゃんとタクシーで帰れよ」

 念を押すと少年は「了解」と声を弾ませた。

 さっそく少年は歩き出そうとするが「ちょっと待った」と止め、横に倒れていた旅行用の鞄から小さく畳んで隅に詰めておいたダウンを取り出して、差し出す。

「貸してやる。おまえの恰好、見てるこっちが寒くてたまらない。よくそれで平気だな」

 ダウンを受け取った少年は驚いたように何度か瞬きをしたが、ゆっくりと目を細め、「ありがとう」と呟いた。

 パーカーの上に大きくて肩が落ちた紺色のダウンを羽織った少年と並んで歩く。地面は雪に覆われているが、少年が選んで歩くところは足首ほどの深さしかなく、歩きやすい。見渡す限りどこにも足跡やタイヤの跡などはない。まっさらな雪に足跡を残しながらゆく。

 車の一台も通らず、街灯さえない。人が暮らしている息づかいがない。それでもおそろしくないのは、淡い月光と光を弾く雪のおかげだろう。

「この辺りはいつもこんなに静かなのか」

「ここは、そうだね。ねっ、おじさんはどこから来たの。何しにこんな田舎まで?」

「東京からだよ。この町は妻の故郷で、出産のために帰省しているから会いに来た」

「もう産まれたの」

「まだ」

 だが、もうすぐだろう。数時間前に義弟から連絡があり、新幹線に飛び乗った。駅に着き、外に出ると、東京を発つ時は優しい青だった空は艶やかな紺に変わり、その中を雪が静かに降りてきていた。急いでいたはずなのに、見入ってしまった。駅前の広場、街路樹、全てが白に染まっていた。妻の故郷は冬に包まれていた。

 駅前でタクシーをつかまえなかったのは、雪の中を歩いてみたくなったからだった。妻が生まれ育った地。我が子が生まれてくる日。その空気を憶えておきたいと思った。そして歩いているうちに道を見失い、挙句転んで、いつのまにか雪の止んだ空を見上げていた。

 少年に声をかけられるまでのことを教える。その間に、迷いなく進む少年の足は道を逸れ、木立の中に踏み入った。闇が濃くなる。細い木々はばけもののようだ。落ち葉や枯れ枝の上に雪が積もった地面は歩き難い。

「……夜も悪くないけど、朝がいいんだ」

 少年は振り返り、手をのばしてくれた。掴むと、得意そうに笑って優しく引いてくれる。

「冬のこのしんとした空気、ぼくも好き。朝ね、家を出たらまず深呼吸をするんだ。透明な空気が身体の中を濯いでくれる」

 「明日やってみて」と言った少年の声は、胸の奥深くに沈むような不思議な響きをしていた。

 少年が不意に大きな動作で顔を上げる。つられて彼の先に視線を向けると、木々の間にちらちらと光が見え隠れしていた。林を抜けると、すぐそこに明かりの灯る白い建物が現れた。夢から覚めたような心地がした。

 建物を回り込みながら、少年は淡い光が漏れる入り口を指した。

「ぼく、ロビーにいるから。先に奥さんに会ってきたら」

「すぐ戻る。待ってろよ、約束だからな」

 少年はひらりと手を振った。早くしなよと言っているようだ。入り口の前で一度振り返ると、雪の中に立つ少年もまた、こちらをじっと見ていた。


 受付で妻の居場所を尋ね、案内されたのは分娩室だった。扉の前には義弟と義父が落ち着かない様子で立っていた。

 こちらに気づいた義父が「浩佑くん」と呼んだ瞬間だった。今生まれたばかりとは思えないほどの力強さで空気を震わせる泣き声が扉の向こうであがった。

 義父と義弟に両側から背中を叩かれる。二人に頷く。声はだせない。震える唇を噛みしめるのが精一杯だ。

 妻の顔が脳裏に浮かぶ。未だ見ぬ我が子はどんな顔をしているのだろう。そして、ふと少年の顔が浮かぶ。彼のところへいかなければという思いがこみ上げ、急き立ててくる。


 病棟と離れているロビーは、高い位置に取られた窓から差し込む青白い月光が椅子の影を床に落とし、深い眠りにつく水底のような静けさに満ちていた。

 決して広いわけではないのに、ロビーに少年の姿を見つけることができない。椅子の間を歩いてみても、どこにもいない。

「帰ったのか」

 近くの椅子に座る。冷たく硬い感触は時間外の来客を拒絶しているようだった。

 視界の隅に白が映る。隣の椅子に、丁寧に畳まれたダウンと淡く光を弾くストールが重ねておいてあった。ストールを撫でると、布とは違う感触に触れた。よく見ると小さな紙がのせてあった。二つを膝の上にのせ、紙を手に取る。下の方に呪文みたいなカタカナが薄く印刷されている。ノベルティのようだ。線の柔らかい字は少年の声そのものだ。



 貸してくれて嬉しかった ありがとう

 ストールも返しておいてほしい

 約束守れなくてごめんなさい


 またね



 目を閉じると、春の陽のような少年の笑顔をみた。自分で創りだした想像などではなく、どこからか雪のように降ってきた光景だ。

 約束を反古にされたことに怒りはない。もう一度顔を見られなかったことが少しだけ寂しいが、それ以上に、彼がのこしてくれた短い約束がたまらなく嬉しい。またね、というほんのそれだけが、しかし確かな温もりを胸に灯してくれていた。






 休日に妻と息子と三人でドライブに出かけた。信号で車を止め、ふとルームミラーに目を向ける。すこし前から静かだと思っていたら、二人とも眠ってしまっていたらしい。

 妻のストールを一緒に膝にかけ、息子はだぼだぼなダウンを羽織っている。二人は互いに寄りかかり、静かな寝息をたてている。

 約束は破られてはいない。

 息子がこの世に生まれ、初めて迎えた朝、陽の光の中で胸深く吸い込んだ空気を忘れることはないだろう。





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