ある日、男は……

セントホワイト

ある日、男は電車で……

 幸福感、達成感を感じる瞬間というものを二十年の歳月の中で幾度経験しただろうか?

 眩しい朝日が目の奥にまで突き刺さり、久しぶりに乗った電車は季節すら関係なくおしくらまんじゅう状態だった。


「(ああ……くそぉ……)」


 都内に通うサラリーマンや学生たちが身動きできないほど入り、クーラーが効いているはずの車内ももはや空気の循環目的としか思えないほど効果がない。

 むしろ駅に止まるたびに開く扉のほうが外の空気を運び、そしてさらなる乗車する客を詰めていく。

 それは今日に限った話ではなく、毎日のように起きている日本の日常風景でしかないが久しぶりに朝の洗礼をあびている男にとっては苦痛でしかない。


「(ああ……どうしてだ……)」


 しかし地獄のような満員電車に押し込められ、揺られることだけが男にとっての地獄ではない。

 それは完全な偶然によるもので、扉付近にいた男の前に綺麗で若い女性が立っていた。

 艷やかな茶色の髪。身長は男よりも頭一つ分高く、スタイルのいい女性だった。

 街中で会えば少しばかり目で追ってしまいそうな女性だ。

 だが、現実とは非常なもので満員電車内では絶対に会いたくない相手でもあった。


「(どうして……こんな目にっ……)」


 ただでさえ男は大きな問題を抱えて電車に乗っており、そんな中で満員電車内で女性が目の前に立ってしまっている。

 それは【痴漢】に疑われるという男にとって最大の危機リスクを抱えることになったのだ。

 であれば、基本的にこちらの両手は垂れ下がる吊り革を掴むしかなく、さらに彼女に触れないように足を踏ん張らなければならない。

 だが男にとって、平常時であれば疲労と苦痛という代償を支払って得られる頑張りどころではあったが今日に限っていえば災厄の日である。


「(こんな……腹が、痛い日にっ!)」


 男は腹が痛かった。

 電車に乗る前、何となく違和感があった程度の痛みは現在危機的状況下と言わざるを得ない苦痛を男に与えていた。

 汗が出てきて止まらないが、それは久しぶり乗った満員電車の所為ではなく、痴漢と疑われる危機でもない。

 放屁、というテロ行為だ。


「(こんな、所で……出来る訳がないだろうがっ!)」


 男が乗り込んだのは各駅ではなく幾つもの駅を飛ばす快速電車だった。

 仮に目的地ではない駅で降りるとしても、不運なことに五分から十分は自由への扉が開くことはない。


「(憎い……憎いぞ、すべてが……っ! うぐっ!?)」


 揺れる電車に人生をかけた踏ん張りを男は達成する。

 女性に触れぬように扉に手をつき、所謂壁ドンのように彼女と男の間に絶対的に超えてはならない壁を生み出す。

 その一線を超えた時、男が得られる【痴漢】という不名誉を取得しないために。

 しかし、彼女に近づいたことにより香しいニオイを嗅ぐ。

 それは彼女がする香水か、はたまたシャンプーの香りか。

 だが男がそんな香りを堪能できる状況下ではなかった。


「(今の衝撃……ヤバかった……あんなの連続で来られたらっ……)」


 男は壊れそうな心と身体を歯を食いしばり奮い立たせる。

 全てを投げ出し、女性の胸に埋もれ盛大な放屁をこの場でしたらと考えると捕まった場合のコメントが『我慢できなかった。気持ちよかった』になりかねない。


「(そんなの、絶対に……嫌だっ!)」


 極普通の人間性を持つ者ならば、こんな最悪の事態は防がなければならない。

 しかし満員電車ではトイレのある車両に移動することなど不可能。

 快速電車では停車駅まで着くのには時間がかかる。

 さらに痴漢に疑われてはならないという危機。

 この三重苦の試練を乗り越えるために必要なものはただひとつ、我慢だ。

 全ては忍耐力にかかっていた。


「(もう絶対に……電車なんて……乗りたくないぞっ!?)」


 悲鳴をあげる腕と腹。

 心の中では恐ろしいほど汗を流す天使と悟りを開いたかのような涼し気な悪魔が喋る。

 天使曰く、試練とは超えられない者には訪れない。つまり男には超えられるのだと。

 悪魔曰く、全てはあるがまま。男として人として当たり前のことだと。

 天使の根性論と悪魔の諦観の念が男の中で解決できない悩みとして顕在化していく。

 しかしこういうことは考えれば考えるほど確かなモノとなり、我慢できないものとなる。

 だからこそ、人は逃げるが勝ちという策を作ったのだ。


「(こういう時は……たしか、素数? 素数なんて憶えてないぞ? じゃあ別のことだ……別のことって何だ……とりあえず外でも、見るか……)」


 天使と悪魔の妄想議論を脇に追いやり、視線は窓から建物が横へと消えていく外へ移す。

 少しでも気が紛れるようにと祈りを込めての苦肉の策だった。

 だが、それは裏目であった。


「(やば……酔ったかも……)」


 まさかの四重苦へと進化を遂げた試練。

 全てを解放したらどれほど気持ちいいのだろう?

 などと頭の中に過ぎる最悪の結末を考えないように、天を仰ぎ見る。

 震える手、足、身体の端々。

 もはや生まれたての子鹿よりも震えが止まらなくなりそうで、正常な呼吸の仕方さえ忘れそうになっている。


「(とりあえず、呼吸だ……吸う息は少なく、吐く息は多めに……)」


 テロ行為を防ぐために、何度も腹から呼吸を繰り返す。

 形振り構ってはいられないため、少しでも腹の痛みを軽減できる処置を行う。

 目を閉じ、呼吸と現状とは全く関係ない妄想という現実逃避。

 されど電車が揺れる度に現実に戻され、それでも妄想内へと必死に逃げ込んだ。


 そんな大決戦が、どれほど続いただろうか?


 もはやこれまでと腹を括りかけた時、救世主アナウンスの声が聞こえる。

 試練を乗り越えた。天使が勝ったのだ。

 今日、男はまた一段強くなったような気がした。

 全てが許せる。隣人に優しくなれる。

 嫌いな上司や苦手な同僚、むかつく後輩すら優しく接せられると男は思った。


 扉が開く。人は雪崩のように出ていく。


 あれほど寿司詰め状態だった人々は次々に降り、目の前の女性すら去っていく。


「(さようなら、名も知らぬ女性キャリアウーマン。違う日に会いたかったよ……)」


 もう人生で会うことはない女性に心の中で別れを告げる。

 そして電車内から降りる者がいなくなってから、男もまた自由の扉をくぐるために歩き出す。

 なるべく平常に見えるように。苦痛など一切見せずに、当たり前の日々のように。

 例え心も身体も疲れ切っていたとしても、男はやり遂げた達成感が確かに胸の内に宿っている。

 あれほど感じていた吐き気はすでに無い。

 痴漢と疑われる危機も去り、満員電車によって苦しめられた筋肉も筋トレだったと思えば可愛いものだ。

 男の頭の中にはドーパミンかセロトニンかは分からないが、多幸感物質が過剰なまでに分泌されていたことだろう。

 男は自由の扉が閉まる前に外へ出た。








 そして、盛大に屁をこいた。

 全てが嫌になった。


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