執着

姫嶋ヤシコ

執着

 気だるさの残る身体を起こして姿見の前に立つと、軽く身体に羽織っただけのシャツの隙間から、幾つもの紅い痣が見えた。その中でも一際目立つのは、僅かに紅い滴が滲み出ているやや不規則な点線にも近い、傷痕。

 強く噛まれた首筋の傷痕は常に消える事はなく、完治目前になると、こうしてまた新たに刻まれる。

 それは決まって、鏡越しに見える彼の機嫌が悪い時に。


「少し強く、噛みすぎたかな? 痛かっただろう?」

「これ、少しどころの騒ぎじゃないから……。今日は一体、何が気に食わなかったの?」


 穏やかに微笑んでいる彼の両腕が、確かな重みと熱を持って私の両肩に絡みつく。  

 少し汗ばんでいるせいか、出来たばかりの傷痕にピリピリと刺激が走った。


「気に食わない事なんて、何もないよ」


 いつもと変わらない微笑みと口調でそう言うと、彼はわざと見せつけるように傷痕へ紅い舌をなぞらせる。姿見に映るその姿は、何故だかいつもより扇情的に見えた。


「僕は君を特別に想っているわけでもないし、僕も君にそう想って欲しいとは望んでいないからね」

「だったら……、……」


 彼の答えに対する抗議の声は、必ずと言って良いほど言葉にはさせてもらえない。

 いつも、彼が言葉を紡ぐ唇と舌を絡めとってしまうからだ。

 意志を持った熱の塊が一頻り暴れると、今度は突き放す様にあっけなく離れて行く。余韻なんて、どこにも残らない。


「君が誰の元へ行こうと、それを止める権利は僕にはないし、その逆も然りだ」


 だったら、どうして目に見える傷痕をつけたがるのだろうか。

 こんな傷痕がついた肌を見れば、誰だって萎えるに決まっている。

 そんな疑問を見透かしたのか、彼は耳元で囁いた。


「束縛するのもされるのも、苦手でね」


 歪んだ表現方法で独占したいと訴えているくせに、彼は私を束縛することも独占することもない。他の男が私の側にいても、彼はその優しい瞳の奥に燃え盛る炎を宿しながらただ、じっと眺めているだけ。

 そんな日に限って、彼は私を求めて肌に噛みつき傷をつけるのだ。

 それはたいそう満足そうに、笑みを浮かべながら。

 とんでもない悪癖だ。

 故に、この行為は彼の私への精一杯の愛情と独占欲の表現手法だと、解釈している。

 素直に「愛している」と、たった一言紡いでしまえば楽になれるのに。

 いつか失われてしまうかも知れない不確かな愛を恐れて、踏み出す事が出来ないでいるのだ。……彼も、私も。


「用事が済んだなら、もう帰って良い?」

「ご自由に」


 ……本当は、帰りたくない。

 そう思ってはいても、絶対言葉にしないのは、下らない自尊心が邪魔しているからだ。

 きっとこの先も素直になる事なく、名前のない不毛な関係だけがズルズルと続いて行くのだろう。

 どちらかが、執着恋心を捨てない限り。

 両肩に絡みついたまま、一向に離れる気配の無い彼の腕に、思い切り爪を立てた。

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執着 姫嶋ヤシコ @yshikibay

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