夜桜の下、初めての恋に酔う

バルバルさん

夜の桜の木の下で

 桜の下には死体が埋まっている。そう最初に言い始めたのは誰だろうか。

 きっと、とてつもない風流人だったのだろう。それとも、死体愛好家だったのかもしれない。

 桜という美しさと可愛らしさを併せ持った木花と人が終わった後に残った忌むべき死体。普通なら連想しないし、させないと思う。少なくとも俺は連想しない。

 だが、言われてみれば空想としては納得がいく。死体を養分とし、血の緋色が木の幹を通って桜の花びらの色と化す。

 まあ、これはあくまで空想上の話だ。桜の木の下を掘った所で死体なんて出てくるわけはない。もしそんなことがあれば警察が飛んでくる。

 そう。きっと空想だったのだ。桜の木の下で出会った、あの死体は。


 俺は生きている女が愛せないようだ。

 どんなに相手に愛の言葉を並べても、どんなに相手の物欲を満たそうと、結局は生きている身。

 自分へと向かっていたはずの心は別の方へと動くかもしれない。

 自分と一緒にいたはずの体も動き、他人の元へと飛んでいってしまうかもしれない。

 なら、そんな心や体の動きのある女なんて、「愛する」ために感情を動かすだけ無駄ではないか。行動するだけ無駄ではないか。

 そんな確信に似た女性への嫌悪感が俺の心に強く根付いている。

 別に、女にフラれまくって女性不振になっているとか、幼少のころ、母親が浮気性で……といったことはない。

 普通に産まれ、二十七年の歳月を普通に生きているはずなのに、今まで会った女性に友情以上ものを抱いたことが無い。

 とはいえ、女嫌いというわけでもないのがややこしいところで、普通に肉欲もあるし、子孫を残さなければという焦燥感もある。

 だが、生きている女に恋愛感情を抱こうと思うと、これができない。どうしても、愛そうと思うと嫌悪感に似た感情が先走る。

 そんなある日の事だ。アパートの部屋でゲームをしている時の事だった。

 友人に勧められた洋風のゲームで、けっこうリアルに人の死の描写があるゲームなのだが、その画面の向こうの死体……その死体になったキャラが、生きているキャラ以上に、もしかしたら、生きている人間以上に魅力的に見えた。

 もう動かない、ただの肉塊となった女キャラの死体。それが、これ以上なく魅力的に感じたのだ。吹き出ている血が美しかった。空ろな瞳が綺麗だった。白くなっていく肌が、もう動かない心が……

 同時に、心底恐怖を感じた。なぜ死体がこんなに魅力的なんだと。

 所詮ゲームだ。ゲームに感じた感情だ。そう、そうだ。それ以上でも、以下でもない……そう自分に言い聞かせ、ゲームの電源を落とした。

 そのゲームはこれ以上できなかった。自分の対女性観が確信に変わるのが怖かったから。


 それから少し時間が経った。

 その間、脳裏にゲームの女キャラの死体が浮かんでは消え、現実で付き合いのある女性が死んだら、こんな風になるのかなというような妄想が、浮かんでは消え……そんな危険な思考を繰り返していた。

 今まで、どんなに魅力的と言われる女性にも起きなかった、死体への恋慕にも近い感情。

 自分は一般的な人間だと思っていたのに、それを感じている事に恐怖を覚えていたある日のことだ。

 思考をぐちゃぐちゃにするその考えを吹き飛ばそうと、車を運転して気分転換に遠出をしていたのだが、夜道で車を運転していると、奇妙なことにカーナビが機能不全、つまりバグった状態になったのだ。

 この通信技術の発展した社会で不思議なこともあるものだと驚愕しつつも、仕方がないので道なりに夜の道を進む。すると、そこには少し古めな外装だが、とても大きな宿が。

 ちょうどいい。このままでは車中泊になるところだったと思い、駐車場に車を止め、宿へ向かう。

 駐車場には三台ほど車が止まっており、あまり繫盛はしていないのかな。とも思いつつ宿に入ると、気だるげな雰囲気の美女がカウンターで眠そうにしていた。

 とても美しいが、肉欲は湧かない。そのカウンターの女に声をかけると。


「あら、いらっしゃい」


 と、これまた気だるげな、だが耳が溶けそうになるとはこの事かというほどに美しい声が耳に響いた。

 それに若干驚きつつも、チェックインの意思を示すと、柔らかく笑んで。


「でしたら、桜の見える部屋が空いておりますよ」


 と言われ、そのまま黒髪の、これまた美しい女性仲居さんに連れられ、桜の見える部屋へと向かった。


 宿内部や部屋の内装は落ち着きつつも綺麗で、仲居さんたちもとても美しい人ばかり。とても人気が出そうなのに、不思議と宿に自分以外の客が見当たらない。

 それを不思議に思いつつ、着流しに着替えてのんびり一晩過ごしてみるかと思っていた時。

 部屋から見える夜の桜。そちらの方で気配がしたのだ。

 この部屋からは、外にある見事な大桜が見えるのだが、そちらの方に耳を澄ませると、耳にすっと響く美しい旋律の歌が。

 興味がひかれた俺は一旦宿を出て、桜の方へと向かう。

 まだ肌寒いが、だいぶ暖かくなってきている。着流しでも十分だろう。

 そして桜のそばに到着すると、そこに座り、歌を奏でている人を見つけることができた。

 その歌は、静かで、耳にすっと響き、嫌みのない美しく見事なものだったが、それを歌う和装の女を見て、俺の心臓が爆発したのかと思うほどに跳ね上がった。

 美しいとか、綺麗だなんて陳腐な言葉で表すのも失礼なほどに美しいと思える女性がそこにはいた。

 俺は呆然と、その現実の存在に初めて感じる感情に驚きつつ、ただその女性が歌を奏でるのを聞くだけだったが、ふと、女性が俺に気が付いたようで、旋律はひと段落した時、俺を見てふっと笑んだ。

 この時の感情を表す言葉を俺は知らない。ただ、十分満ち足りて、この笑顔だけあれば十分だと思った。

 そして、歌を奏でていた声が、俺にかかる。


「お客様ですか?」

「え、あ、はい」

「お耳汚し失礼しました。この時間、この木の下で歌うのが、私の生きがいなので」

「いえ! とても美しい歌でしたよ」


 俺の勢いに、若干目を丸くしたが、再びふわりと笑んだ彼女は、隣を手で指し示し。


「良ければ、近くで聞きますか?」


 俺は彼女の隣に座り、再び奏でられる旋律を聞く。美しい。歌も、彼女も。

 時間も忘れ、俺は歌に聞き入りながら彼女に見惚れていた。

 ふわり、と、夜桜の花びらが落ちてくる。

 そして歌は終わったようで、月光で明るく妖しい輝きを放つ桜の下に、静寂の時間が訪れる。


「ふぅ。聞いていただき、ありがとうございます」

「とても美しかったです。なんという曲なのですか?」

「さぁ。私も知らないのです。心に浮かんだ情景や感情を言葉にしただけですので」


 なるほど、それでここまで心打つ旋律が奏でられるのか。そう感心していると、彼女が一言。


「明日の夜も、ここで歌っております」


 それを聞き、もう一泊しようと心に決めた。

 もう、俺の心はこの女性に夢中だった。


 宿は本当に素晴らしい湯加減の温泉、これ以上ない極上美味と思える食事と至れり尽くせりで、なのに驚きの安さだったが、俺の心を埋めるのは、早く夜になれという想いばかり。

 その待ちに待った夜の事、俺は急ぎ夜桜の下に向かう。するとそこには彼女が座っていた。


「お待ちしておりました。お酒でも飲んで、ごゆるりと」


 そこには酒の入っているであろう徳利などが置かれていた。

 この名も知らぬ女性が、俺を待っていてくれた。それだけで生まれてきたことに感謝するほどに嬉しかった。

 そして、歌の旋律に耳を傾けつつ、桜の花びらの浮かぶお猪口で酒を飲む。

 見上げれば、雄大な大桜。月の光で輝いているようで、不思議な力のようなものを感じるほどに美しい。

 はらり、はらりと花びらが落ちる。それを目で追えば、目を閉じ歌う、彼女の姿。

 もはやごまかせない。ごまかす気など最初からなかったが、この女性に、俺は一目ぼれしたのだ。

 今まで生きている女性に今まで抱けなかった感情。危うく死体に抱きかけたこの感情。それがこんなに素晴らしいものだったなんて。そう思えるくらい美しい感情じゃないか。

 旋律が終わり、開いた彼女の目が俺を写す。それすらも嬉しい。


「いかがでしたか?」

「美しかったです。とても、とても……」

「ふふっ。ありがとうございます」


 その言葉の後、彼女は桜の木を見上げる。


「美しいと思いませんか? この桜。私は、歌を奏でるのも好きなんですが……夜に見上げる桜も好きなんです」

「そうなんですか」

「貴方は、どうですか? この桜、どう見えます?」

「そうですね……満開の、桜でしょうか。美しく、妖しく咲いた満開の夜桜」


 その言葉を聞いた彼女は、一瞬目を丸くした。

 そして青白い手が、そっと俺の手に触れた。驚くほどに冷たかったが、何故か心地よく感じた。


「嬉しい」


 そして、その言葉に、彼女の笑みに意を決した俺は。


「あの、俺。貴女の名前も何も知らないんですが……貴女の歌を聞いて、心が、初めて感じるほどに高鳴ったんです。貴女の事、もっと知りたい」


 そう、言葉を一気に吐き出した。

 それに対し、再び可愛らしく目を丸くした女性。

 まあ出会って二日目の、夜しか会っていない男にいきなり言われたら驚くだろう。

 だが何故か、今言わなければという想いに駆られたのだ。


「……申し訳ありません」

「そう、ですか。」

「いえ。貴方の想いはとても嬉しいのです。この桜を、美しい満開の桜と見てくれた貴方の事を、私も知りたい。でも……」

「えっ」



―――私は、死体なのでございます。



 目を、覚ます。

 正常なカーナビが示す時刻は、何故か昨日の夜中?

 車内で寝ていたのだろうか。だが、あれは夢だったのか?

 嫌に現実感のある夢だった。

 両の手は握られ、じっとりと汗をかいている。だが、不思議なことに嫌な感じはしない。

 ふと、固く握られていた手を見る。ゆっくり開くと、そこには桜の花びらが一枚。

 驚き、車の横を見れば、そこには枯れかけた木。小さく最後の力を振り絞って咲かせたのだろう花を見るに、桜の木だ。

 どういうことだろうか。

 全く理解できないが、理解できることがあるとしたら一つ。

 もう、あの女性には会えなさそうだという事だ。


 夜桜の下、俺は座り酒を飲んでいる。

 あの夢の日以降、桜の木が不思議と身近に感じるようになり、出来るだけ、桜の木に寄り添った生活を送ろうという気分になった。

 あれ以降、あの心を燃やすような感情を抱けた女性はいないし、恐らく二度と現れないだろう。

 何故なら、俺が愛した彼女は恐らく……

 でも、良いのだ。桜の木の下で、こうして酒を飲んでいると、そう思える。

 こうしている時間だけは、あの夢の女性。彼女と共にいられるような、そんな不思議な気分がするから。

 今宵も、俺は咲き誇った桜、夜の月光で妖しい輝きを放つ桜の下で酒を飲む。

 どこからか、美しい旋律が聞こえる気がするが。

 きっと、気のせいだろう。

 そう。気のせいなのだ……

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