第8話 お疲れさま


「ふむ、夕方がピークだったか」



 あの後も数組のお客さんがやってきたが午後七時を回った時点でめっきりと客足が途絶えそのまま閉店を迎えた。お客さんは少なかったものの俺と瑞希さんの疲労もピークを迎えており今すぐにでも休みたい気分だった。



「だが、客単価は上々だ。二人とも、お疲れ様」


「いやお疲れ様て、まだ閉店準備の途中でしょ」


「それでももう扉の札を裏返してCLOSEにしたし看板も中にしまったんだ。素人がそこまで気張るものじゃないよ」



 そう言って俺たちのことを落ち着かせようとする文乃さん。ちなみに俺は厨房で今日使った食器やグリルを掃除していた。まだまだ新品で綺麗だしこれを維持していきたいものだ。俺が掃除をしているとホールにいた瑞希さんが掃き掃除をしながら俺のもとへとやってきた。



「そっちはどうだった?」


「サンドウィッチやパスタも注文が少なかったので、そこまで大変じゃなかったです」


「へぇ、明日はアタシが厨房だから楽できるわ。ラッキー」


「アハハ、確かに今日は瑞希さんの方が大変そうでしたね」



 瑞希さんは今日一日でカウンターと客席を何回も往復していた。慣れていないというのもあっただろうが、明日からは往復の頻度が増えると見ている。そしてその負担は明日ホールを担当する俺にかかってくるのだ。


 俺たちがそんな会話をしているとカウンターでカップなどを拭いていた文乃さんがこちらへとやってきた。



「こらこら、後輩の前でだらしないぞ」


「後輩って、俺がですか?」


「そりゃそうだろ。舞宵君は瑞希ちゃんの後に入ったのだから」


「……アタシが先輩ってガラかよ」



 瑞希さんは文乃さんと入れ替わるようにホールへと戻る。この二人の関係性もよくわからないな。姉妹のようだなと感じるときがあるのだが、瑞希さんが文乃さんに一定以上の敬意を払っている以上その言葉はしっくりこない。



「さて、瑞希ちゃんの言い方はちょっとあれだったけど、中には事実が含まれていたことも否定できない。舞宵君、今日はゆっくりと休んで明日に備えるんだよ。明日は君がお客さんと私たちの架け橋になるんだ。わかったかな?」


「はい! 任せてください」



 俺が自信満々に応えると、文乃さんは笑いながら俺の頭を撫でる。少し照れくさいが、この一週間で何度も撫でられたので少し慣れてきた。関係性で言えば文乃さんは俺たちの長女みたいな存在だ。さながら瑞希さんは二女と言ったところだろうか。そして俺が末っ子的な存在。まだまだ短い付き合いのはずなのに、本当の家族みたいになってきたな。



「ようし、瑞希ちゃんも明日はよろしく頼むよ。二人ともつかれているんだから、夜更かししないようにね」



 そうして俺たち『ファミリア』の初日は終わった。文乃さんは最後まで残っていたが瑞希さんが真っ先に階段を上って三階の部屋へと帰っていく。俺は最後まで残って文乃さんを手伝おうとしたのだが文乃さんに無理やり上がらされた。


 俺は三階にある自室の扉を開き、そのままシャワーを浴びるでもなくベッドへとダイブした。まだ制服を着ているため皺になると分かっているのだがついつい欲求に抗えなかった。



「……疲れた~」



 労働の幅で言えば確実に文乃さんや瑞希さんの方が疲れているはずだが、俺は俺で心労が積み重なっていた。初日を無事に終えられてよかったが、明日はどうなるかわからない。それに、自分の事もよくわかっていない俺がホールに出るだなんて本当にいいのだろうか? そんな罪悪感が芽生えているのだ。



「……いや、それはもう大丈夫だ」



 俺の中の罪悪感は少しずつだが消えている。もちろんあの二人のおかげだ。あの二人がいるから俺は俺という存在を保つことができている。蝋燭の火のように吹けば消えてしまいそうな俺をあの二人が守り、大きく育ててくれているのだ。


 だが、それはずっと続けていいことではないしどこかで卒業しなければいけない。そう考えると明日は俺の覚悟を示す絶好の機会だ。俺の中の罪悪感や緊張はいつのまにかチャレンジ精神へと変わりつつあった。


 この仕事を終えた先に、新しい何かが待っているかもしれない。そして、何かを得ることができるかもしれない。確証と保証がはないが、そんな気がするのだ。そして、それを実現できるかは俺次第。



「……」



 ふと、俺はずっと開くことのない自分のスマホの画面を眺める。電源はつくものの、ずっとロックが外せない。指紋認証や顔認証に登録していないのかそちらも全く反応しない。四桁の数字を入力することは間違いないのだろうが、その数字が全くわからないのだ。



「ショップに行ったら対応してくれるかな?」



 なんとなく無理だとはわかっている。なにせ契約会社やどこで買ったスマホなのかも覚えていないからだ。やはり忘れようと諦め俺はスマホを棚の奥へとしまった。



 コンコンッ



 俺が寝るために風呂を沸かそうとしたタイミングで部屋の扉が叩かれた。少し雑なこの叩き方は、間違いなく瑞希さんだろう。俺は部屋の鍵を回し扉を開けた。



「どうしたんですか瑞希さん?」


「ああ、これやろうと思ってな」


「これは?」



 瑞希さんは俺に細長い筒を渡してきた。それを開けてみると中には綺麗な二つのレンズに少し太めのフレームのメガネが入っていた。



「アタシが昔使ってた伊達メガネだ。お前にやるよ」


「えっと……なぜ?」


「お前、人と目を合わせんの苦手だろ」


「うっ」



 どうやら瑞希さんにはバレていたようだ。最初に瑞希さんに会った時もそうだが、俺は少し人見知りらしい。今の瑞希さんとなら目を合わせていくらでも話すことができるのだが、初対面の人と目を合わせながら喋るのが苦手だ。明日ホールに出るということで、瑞希さんが気を遣ってくれたらしい。



「それ掛けときゃ少しはマシになんだろ。もともとアタシも邪魔になって使わなくなったし、返品は受け付けねーから」


「あ、ありがとうございます?」


「なんで疑問形なんだよ。じゃ、アタシはもう寝るから静かにしとけよ」


「はい、おやすみなさい」


「ん」



 そう言って瑞希さんは自室へと戻っていった。俺は瑞希さんから渡された伊達メガネをかけて、部屋にある鏡をのぞき込んでみる。



「……意外と似合ってる?」



 なんというか、思ったよりカッコいいかもしれない。とりあえず明日はこれで文乃さんのことを驚かせてやろう。そんな悪だくみを企みつつ、俺は伊達メガネを丁寧に外してケースに戻し、お湯張りの作業を再開する。そうしてひと段落したところで再び眼鏡を弄りだす。



「……えっと、こうか?」



 真ん中の部分を人差し指の腹で触り眼鏡をクイッと持ち上げる。この前テレビで見てやってみたいとは思っていたが、まさかこんな形で叶うとは思っていなかった。ちなみに俺が見たテレビというのは毎日夜九時から始まる短い刑事ドラマで、記憶がなくなった俺にとっての唯一の娯楽だ。というより、部屋で楽しめるものがテレビくらいしかない。



「これから夜九時まで働くなら、今度からは予約しとかないとな」



 俺は忘れないように今のうちに毎日予約をする設定をしておく。昨日の犯人がどうやって屋敷に侵入したのかがずっと気になっているのだ。今日は休日なのでやっていないが、明日からは絶対に見なければならない。そう、これは使命だ!



「って、もうお風呂の準備ができてるか」



 とりあえず俺は今日の疲れをお風呂ですべて洗い流すことにする。きっと瑞希さんも今頃は同じようにお風呂に入ってリラックスしていることだろう。



 こうして俺は寝るまでの時間をゆっくりと過ごすことにし、テレビを見ながらベッドの上でゴロゴロするのだった。




   ※




「うん、初日にしては上出来だ」



 片付けを終えた私はそのまま二階にある自室へと戻り今日の売上を計算した。正直客数が少ないという課題があったものの、客単価はやはり上々だ。今日来た彼らが上手く口コミを広げてくれれば今日以上の集客を見込むことができるだろう。



「しかし、やはり三人は厳しいな」



 今日は客が少なかったので上手く休憩などを回すことができていたが、明日からそれもどうなるかわからない。早く従業員を募集したいのだが、理想に合う人物になかなか巡り合えないのだ。こちらは随時対応していくしかないだろう。



「ま、今新たに新人を入れても逆に負担が大きくなっちゃうか」



 覚えがいい二人だってここまで来るのに一週間を費やした。もちろん一日の間に何時間も練習していたし、おそらく帰ってからも忘れないようにその日の復習をしていたのだろう。だが、普通の学生や社会人はそうはいかない。あの二人はともかく、大抵の人は何かしらで忙しいのだ。



「にしても、この前来た人は最悪だったなぁ」



 一応ついこの前働きたいと言ってくれた人がいたのだが、その人物は五十代に差し掛かる男性。真面目に面接をしたものの明らかにこちらを舐め切っている態度。しかもカフェの仕事を出会いの場だと履き違えている悲しい独身の中年男だった。他の志願者も似たような者たちばかり。あのような人たちと二人を一緒に働かせるわけにはいかなかった。



「特に舞宵君には、ああいう輩に影響されてほしくないからな」



 今のところ問題はないが、彼は不気味なくらい真面目だ。そこが可愛いところでもあるのだが、記憶がない彼に余計な知識を植え付けたくない。



「舞宵君は本当にスポンジのように知識を何でも吸収してしまう。もし、害悪な人物に影響されでもしたら……」



 彼もどうなってしまうかわからない。彼は今が一番不安定な時期なのだ。だからこそ、自分ができる限り保護してあげなければいけない。そしてそれはもう一人の少女も同じ。心に見えない傷を負っている二人は、自分が守らなければいけない。それはこのカフェのマスターとしてではなく、家族として。



「頼りにしてるよ、二人とも」



 そうして彼女も床に就く。明日がまた素晴らしい一日になることを信じて。

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